河内弁の男
新幹線は、走り続けていた。
私は、いびきをかくので、車内では決して眠ることはない。老眼で、しかも疲れ目がひどいから、本も読まない。ただ、じっと座って、目的の駅に着くのを待つ。退屈はしない。窓の外を眺めているだけで、十分に楽しい。新幹線にワクワクしなくなったら、もはやそれは男ではない。ただのジジイだ。
アナウンスがもうすぐ名古屋だと教えてくれた。
その声に、ふと私は、若い頃勤めていた会社の同僚のことを思い出した。確か、井崎という名前だった。顔はもはや定かではないが、その声と口調は、まだはっきりと思い出せる。
彼は河内の出身で、方言がきつかった。
制作の現場では、意見がぶつかり合う時もある。そんな時、彼は「何さらしてけつかるんじゃ。デザインが台無しやんけ、ワレ」「バックの色を変えやと。こら。誰にぬかしとんど、ワレ」など非常に荒い言葉遣いになった。
社員の一部は、そんな彼を怖れていたようだ。デザイナーとしては、優秀だった。私はコピーライターとして彼と組むことが多く、彼はそれなりに私を認めてくれていたようだった。私に対し、河内弁でまくし立てたことは一度もなかった。
一度、彼と東京に出張したことがあった。
新しいホテルがオープンされる。その取材とロケハンを兼ねての出張だった。二人で新幹線に乗り、他愛ない雑談を交わす。彼は河内弁を使うが、ふだんは大阪弁とさほど変わらない。やや荒いだけである。
ふと、私は不思議なことに気付いた。
新幹線の名古屋駅を過ぎたあたりから、彼のしゃべり方が変わってきたのだ。
「あと1時間ほどで東京だよね」と彼が言った。
だよね?
「腰が痛くなっちゃったよ」
なっちゃったよ?
私は、混乱した。河内弁をまくし立てる彼が話す言葉とはとうてい思えない。極めつけは、彼が読んでいた雑誌を見せながら言った言葉である。私は、耳を疑った。
「これ見てよ。面白いじゃん」
じゃん !?
最初はギャグで言っているのかと思ったのだが、そうではなかった。大阪人がわざと口にするエセ東京弁とは違い、ナチュラルな東京弁に聞こえた。彼は、名古屋あたりで変身する男だったのだ。
彼にとって、河内弁は、営業やディレクターとの力関係を有利に運ぶための演出だったのだろうか。実際は河内弁にコンプレックスがあり、東京に近づくにつれ、それが表出したのだろうか。それとも、郷に入れば郷に従え、とドライに東京弁に切り換えただけなのだろうか。
結局、彼は、東京出張の間中、東京弁でしゃべり続けた。取材中はもちろん、タクシーでの移動中も、食事中も、河内弁は一度も出ることはなかった。
取材先のホテルの支配人からは、「お二人とも東京の方ですか?」と訊かれた。「全然大阪弁が出ないもんだから」
「ええ、まあ」と彼は何食わぬ顔で答えた。
「私は東京出身ですが、彼は河内出身です」と私は頭の中で否定した。「いてまうぞワレ、が口癖です」
彼の言動に頭の中が混乱し、いつもより疲れて出張は終わった。そして、帰りの新幹線。名古屋駅を過ぎたあたりから、彼は河内弁を駆使する、由緒正しい河内のオッサンに変身したのである。
「いやぁ、やっぱり東京出張は疲れるやんけ。のお」
疲れるのは、お前だ。そう思いながらも私は、「ホントに疲れたよ」と窓の外を見たまま呟いたのだった。
新幹線が減速した。
どうやら名古屋駅に到着するようだ。私は、若い頃の思い出から、現実に引き戻された。だが、私は、まだ彼のことを考え続けていた。若いままの彼に語りかけていた。
君は、まだあの会社にいるのだろうか。相変わらず、河内弁でまくし立てているのだろうか。そして、今も名古屋あたりで変身しているのだろうか。
私は、ずいぶんと歳をとったよ。
無性に彼が懐かしかった。