家族の残像


 残像現象だった。

 駅前の喫茶店。壁一面がガラスのしゃれた店だ。

 その店に向かって、サラリーマン風の男が立ち小便をしていた。店内のゆったりとした座席に、若い男女が座っているのが見える。二人の顔の辺りに向かって、小便は勢いよく放たれていた。

 デートが台無しだ。

 女の方が顔を背けながら何かを叫んだようだ。口の動きからすると、「サイアク」とでも言ったのだろう。男の方は、店の奥に向かって叫んだ。女を促して席を立つ。

 マスターが店から出てきて立ち小便の男を見た。たっぷりため込んでいたのか、小便はまだ続いていた。

 おい、と立ち小便を続ける男に向かって声をかけたが、反応は皆無だ。

「やっぱり残像か」とマスターが舌打ちする。店を出て行く二人に「申し訳ありません」と声をかけた。

「クソオヤジが」と言いながら、若い男が立ち小便の男につばを吐いた。つばは、男のからだを通り抜けてアスファルトの上に落ちた。残像現象には、実体がないのだ。

 マスターが私に気がつき、苦笑した。「ご苦労様です」と言いながら頭を下げる。

「あんたもな」と私はつぶやき、張り込みの現場に向かって足を引きずりだした。怪我をした足のせいだけでなく、今日も足取りは重い。

 定年まであと二年。足を負傷した刑事の最後のご奉公だ。

 捜査一課残像監視班、通称Z班。それが私が所属する部署だ。私のように現場では使えない者や再雇用の年寄りばかりが集められており、通称のZは、残像のZよりもゾンビのZとして知られている。

「小便臭くなったのはこいつのせいだったか」と後ろでマスターが舌打ちした。「実物を見つけたらとっちめてやる」

 残像現象が始まったのは、7年ほど前のことである。

 最初は、幽霊話の類だった。

「朝、目が覚めると女が部屋にいたんですよ。なんか泣いているみたいで。いや、声は聞こえませんでした。あんた誰、て聞いたんですけど、反応はなかったです。で、肩を叩こうとしたら手がすり抜けて……。幽霊だと思って腰が抜けました。結局、前に住んでた住人で、たぶん恋人に振られたときに泣いてたのが現れたのだろうと。大家さんから写真を見せてもらったら、確かにその女性でした。ええ、今も生きてるそうです」

「午前2時頃、巡回しておりまして、施設内の公園で少年が遊んでいるのを発見しました。声をかけたんですが、反応はまったくありませんでした。そのうち少年が、ジャングルジムに登り出しました。あれっ、と思いました。そのジャングルジム、老朽化がひどくて半年前ほどに撤去されてたんですよ。警備本部に連絡しようかと迷っているうちに、少年もジャングルジムもすうっと消えてしまったんです。いや、連絡はしてません。自分の目が信じられなかったですし、そんな報告をしても寝ぼけてるのかとどやされるのに決まってます」

 残像現象はカメラには写らなかった。テレビ番組のカメラクルーが残像現象に出くわすことがあったが、「ほら、ここに」と指差す先には誰もいなかった。現場にいる人間にしか見えなかったのである。

 しばらくして、アメリカの脳科学者が学説を発表した。

 残像現象は、人のとった行動がその空間に記録されることで発生する現象である。その残留した記録がその場にいる人の脳に影響し、過去の情景を見せる。従ってカメラには写らない。いつ起こるのか、どこで起こるのか、どんな記録が残留するのかの規則性は見つかっていない。

 日本で最も注目されたのは、ある未解決の放火事件だった。雑居ビル一棟が全焼し、五人が死亡した事件だ。

 放火事件から三年後のある月命日、犯人が残像現象として現れた。発見したのが、花を供えようとした犠牲者の遺族であったことから、マスコミにも大々的に取り上げられた。

 その遺族の目の前で、犯人の残像はガソリンをまき、マッチで火をつけたのだ。警察官が駆けつけたときには残像現象は消えていたが、遺族の記憶からモンタージュ写真が作られた。その結果、地上げを狙った暴力団員が逮捕されたのである。

「被害者の怨念が見せた残像現象」とマスコミは取り上げたが、残像現象は、怨念で生まれるものではない。偶然が重なり、逮捕につながっただけだ。だが、その逮捕劇はまさに劇的だった。

 警察内部からも残像現象に備えた捜査をすべきではないかと言う声が上がった。だが、カメラに映らない以上、人を投入するしかない。ただじっと残像現象を待つだけの任務だ。

 そんな仕事は誰もやりたがらないし、そんな過剰人員もない。そこでZ班が創設され、定年退職者や私のように役に立たない者が任務に当てられたと言うわけだ。

 張り込みの現場に着いた。

 一家四人が惨殺された犯行現場である。駅から徒歩10分の閑静な街並みにある一戸建て住宅。重要案件として指定され、現在もZ班による監視が行われている。

「お疲れさまです」と若い制服警官が声をかけてきた。「異常なしです」と少々疲れた声で言う。

 うん、と頷きながら、私は部屋を見回した。

 八畳ほどのダイニングキッチンだ。白い壁には、多量の血痕がまだ残っている。家具は、すでに撤去され、部屋には監視用のパイプ椅子が置かれているだけだ。

「来る途中で残像現象を見たよ」と私は制服警官に言った。「駅前の喫茶アンクルでさ。あそこの窓に向かって、サラリーマンが立ち小便してた」

 制服警官は軽く笑った。「あそこは、全面ガラスじゃないですか。店内から丸見えだ」

「ああ、若いカップルの目の前でご開帳だ」

 制服警官は、今度は本気で笑った。ひとしきり笑ってから、小さくつぶやく。

「ああ、見たかったなあ」

「お前、だいぶ疲れてるだろ」と私は彼に言った。

「近所の交番だからと、張り込みを手伝ってくれるのはありがたいがな。いつ現れるかわからん現象を待ち続ける仕事なんて誰もやりたがらん。もしかしたら、この先ずっと現れないかもしれんのだし。お前も疲れて当たり前だ。早く帰って休め」

「ええ、そうさせてもらいます」

 そう言いながら、彼はゆっくりとした動きで立ち上がった。

 ふいに、彼の目が、大きく見開かれた。なんだ、と後ろを振り返ると、そこには検視報告書の写真で見慣れた四人の家族がいた。

 まだ生きていた頃の家族である。

 残像現象が現れたのだ。

 母親が流しに向かって立っていた。彼女は、背中から腰部にかけて、十四カ所の刺し傷があった。彼女がこちらを振り返り、テーブルの上にサラダを置いた。目玉焼きが載せられたトースト、コーヒーやミルクも置かれている。

 当時、大手印刷会社で営業課長だった夫が、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。彼の死因は、頸動脈を切られたことによる失血死だ。傷口は一つで、最初に殺されたと考えられている。

 彼の左隣に腹部を刺されて死んだ五歳の女の子が座り、もぐもぐと口を動かしながら、父親が読む新聞をのぞき込んでいた。彼女の傷は一ヵ所であり、死亡するまで1時間以上かかったと推測されている。

 母親が振り返って何かを言ったようだ。父親と娘が顔を見合わせて笑った。

 外の空間から、ふいに十歳の少年が現れた。椅子に腰掛けるや、あわただしくトーストを食べ始める。彼は、背後から心臓を一突きされていた。逃げようとしたところを刺されたのだろう。

 母親が振り返って何かを言った。長男に対して言ったようだ。先ほどよりも表情がきつい。長男は、気にする素振りもなく、トーストにかじりついている。また、父親と娘が笑顔を見せる。

 当たり前の朝の食卓風景だった。誰かの手によって奪われてしまう前の、当たり前の家族の風景だ。

 犯人は? 犯行時の残像現象じゃないのか? 私は、目をこらし、犯人が現れることを祈った。その顔を頭に焼き付け、逮捕へとつなげるのだ。

 だが、私の祈りはかなえられなかった。数分後、残像現象はテレビを消したかのようにふいに消え去ったのである。

 何もない白い部屋で、私たちの息を吐く音だけが聞こえている。いや、息の音だけではない。変な声のようなものが聞こえていた。見ると、制服警官の目から涙が流れていた。彼は、嗚咽していた。

「おい、大丈夫か」

「はい。ええ、大丈夫です」と彼は、声を震わせながら言った。「幸せな家族だったんですね。あんなに幸せそうな家族だったんですね……それを犯人の野郎……」

 私は、軽いショックを受けた。

 涙を流す彼の心と、そうはならない自分の心に。

 犯人に対する純粋な怒りを示す彼を見て、私は、かつて自分にもあった警察官としての本懐を思い出していた。自分が考えている以上に、私は疲れてしまっていたようだ。現場に立てない自分を、哀れんでばかりいた。

「自分は、もう疲れたりはしません」と彼はしっかりとした声で言った。「例え可能性が低くても、自分は待ち続けます」

「ああ、そうだな」と私は言った。

 私は、見たばかりの被害者たちの姿を思い出した。犯人は現れなかったが、家族の情景はしっかりと見ることができた。その記憶が、私の内にある残り火を大きくしてくれるような気がした。

 定年まであと二年。次の残像現象が現れるのをしっかり待ち続けよう、と私は心に決めた。それが私の仕事だ。そして、自分がこれまで学んできた刑事としてのノウハウを、若い彼にできる限り伝えてやろう、と思った。




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