桃を見て笑う男
桃の香りがした。
見ると、少し先に八百屋があり、香りはそこから漂ってきたようだ。近くによると、バナナやリンゴも置いてあるのだが、漂っているのは桃の香りだけである。
「さすがは、バラ科の植物だな」と私はつぶやいた。
「確か桃の香りには、ピーチアルデヒドという成分が含まれていたはずだ。それを嗅いだ人は幸せな気分になる。おそらくそれが原因で不老不死の果物と珍重されることになったのだろう」と私は、物知りであることを誰にアピールするともなく口にした。
私は、店先に置かれた桃を見て「ふふふ」と笑った。だが、それは苦いような甘いような笑いだった。遠い過去から蘇ってきた笑いだ。そう、あれは、まだ私が20代だったころの話だ。
当時の自分の上司の顔が頭に浮かぶ。
さて、プロとアマチュアの違いはどこにあるか。私は、当時から自分の仕事を客観視できるかどうかであると考えていた。
自分が作ったものは、どうしてもその評価に主観が入る。本当は、60点くらいの出来なのに、85点を付けたりする。その主観が絶対的であればいいのだが、そこまで達しているのは一部の天才だけだ。
従って私のような凡才は、人の意見を聞く必要がある。
その職業でメシを食ってきた人間が、その場にいる駆け出し・素人・ボケ・カス・クソの意見を聞くことは難しい。経験やら自信、プライドがじゃまをする。しかし、それではいかんのである。
私などは、「なんか、イマイチですよね。こうした方がいいんじゃないですか」などと意見されたら、まず頭に昇った血をぐっと抑えて、客観的に判断しようとする。そして、「もっともだ」と結論づけたら、即、受け入れるのである。
「なるほど、そうしましょう(ぎりぎり=歯ぎしりの音)」
どうせ、評価されるのは、仕事を担当する私なのだ。
いいアイデアを出した駆け出し・素人・ボケ・カス・クソには、あとで150円のちょっと上等な缶コーヒーでもおごってやれば十分である。人の意見で評価が上がるのだから、つまらんプライドなど捨てるべきだ。
時々、それができない人がいる。
私の若い頃の上司がそういう人だった。
「これ、わしの考えたこっちの方がええと思わへん?」
「いや、思いません。私のコピーのほうがいいです。『キラリ、青春は素晴らしい』なんてキャッチフレーズどころか、標語にもなってません。面白くもなんともない。私のをそのまま使ってください」
「それは、アンタが自分で作ったからそう思うんや。絶対、わしの作ったやつのほうがええで」
全然、客観視できない人なのである。
今自分が言った内容が、そのまま自分に当てはまっていることにすら気がつかない。筋金入りの自己中心派である。
そういう人には、なにを言っても無駄だ。主観の前に、理屈は通らない。私は、「お任せします」と言って、その仕事から降りた。上司の意見を無視できるほどの力が私にはなかったし、我を張ったところで結果は目に見えている。
当然、その仕事に対する得意先からの評判は悪かった。数日後、私に担当に戻るようにと話が入り、次の仕事からは私がディレクターも兼任することとなった。
その人は、私が画策するまでもなく、桃が名産品のどこかの地方に飛ばされていった。聞くところによると、捲土重来はならず、結局その地で定年を迎えたそうだ。
私が桃を見るたびに「ふふふ」と笑うのは、そういう理由である。
「えらい桃が好きなんやな」と声がして、私は、追憶から呼び戻された。「さっきから桃を見ながら、フォッフォッフォッと笑てはるけど。もしかして、バルタン星人?」
見ると、オッサンが私の顔を覗き込んでいる。この八百屋の店主らしい。
「いや、地球人です」
「その桃、おいしいで。岡山の清水白桃。3つで3600円やけど、バルタン星からはるばる来はったんやから、大負けに負けて3000円にしとくわ」
「いや、地球人ですって」と異議を唱えているうちに、店主はさっさと3つの桃を白いビニール袋に入れはじめた。なぜか、私が買うものと確信しているらしい。
いやいやいや、3000円の桃など買う余裕は……。おいおいおい……。
帰り道、袋から漂う甘い桃の香りに包まれながら、私は「フォッフォッフォッ」と笑い続けていた。