流体力学ゼミの終了報告と反省
春休みから始めた流体力学(Landau & Lifshitz)の自主ゼミが先日終了した。第1章を丁寧に読み進める予定で、実際その通り進行したわけだから、理想流体について大まかな知識を整理できたことになる(もっとも流体力学1は一度通読しているけれど、良い復習になった)。企画してくれた友人及び活発な意議論に参加してくれた学科同期達に感謝している。
セミナーにはG30の同期(E君と呼ぶ)も含まれていたので英語で行われたのだが、数年親しんできたはずの英語は専門内容を前にしてかなり貧弱だった。高度な議論はやはり日本語のほうが馴染んでいる。けれども、日本国内だけでは専門家の数が限られるような分野で研究を進めようと思ったとき必ずこういう場面に出くわすはずで、一抹の不安に囚われた。
最近「英会話よりサブカル教養」という興味深い意見を見た。かなり荒っぽい考えではあるが、その片鱗を痛感する状況に何度も陥り、そういう中私は一つの不気味な考えに落ち着いた。数学という世界共通の言語を用いておきながら、実際物理的な吟味や式の導出に関して詰まったところがあっても、英語だと議論はおぼつかなくなる。例えば流体のエネルギーや運動量に関する章で、計算の便宜を図るために物体の速度に定数ベクトルを付加しなければならない状況があったが、速度を定義したのは限られた空間内なのにもっと広い空間全体に定数ベクトルを足しても良いのか、という微妙な意見をE君に伝えることが出来ず、議論は泥沼化した。僕は結局納得したけれど、あの場にいた全員が同じ意見に落ち着いたとは、どうしても言い難い。E君からすれば、定数ベクトルを微分すれば0になるという簡単な事実を呑み込めない妙な物理学徒たち、のように映っていただろう。要するに、思考の成長は言語の拡張、及び言語の相互関連それ自体も多分に含んでいるのかもしれない。
英語の勉強が必要だとよく言われる。間違いないが、それは二重の専門化というやや厄介な問題を孕んでいる。言語を学んだとして、最終的にその分野に精通することが無ければ、物理的な国境を越えられても本当の意味での共存は出来ない。弊大学は英語学習のサポートが厚く、さまざまに設けられる教養の授業はその入り口を示しているに過ぎない、そういう事に最近気が付いた以上、時々大学の恩恵を使って外国語学習につなげることもあるが、英会話だけでは相手との交流を本当の意味で深めることは出来ないし、勉強の仕方を変えるべきだと思った。
学んだ流体力学について、今更ここにまとめるつもりはないのだが、せめて作成した資料の一部くらいは記念に載せておこうと思う。私の担当箇所はもう一つあったが、長かったので紙のノートにまとめたのもあり、ここには置けない。
それと§12でLong Waveであることを用いた近似なのかわからないが、議論の末どうしても合わない計算があった。大学教員はこういう時割と柔軟に対応してくれるらしいので、最悪訊こうかと思う。
再びになるが、僕の拙い発表に付き合い議論してくれた学科同期、何より僕が覚束ない外国語を使っていても真剣に寄り添ってくれたE君には、非常に感謝している。
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