【99】『共同幻想論』(吉本隆明)
この記事は以下の記事の派生です。
1.
高校生時代の思い出であるが、孔子は『詩経』から人間の生き方や規範を模索しているのだし、日本人なら『万葉集』で同じことをすべきだ、と主張していたところ、友人から「病んでるの?」と一蹴されたことがある。今までの人生で精神的に安定していた時期というのはそう多くないけれど、そういう主張は決して病んでいたために発せられたわけではなかった。『論語』のあまりの力強さに感銘を受け、病的に逆上してしまったと言えばそういう意味になるのだろうか。いずれにせよ、序でも述べたように『論語』は僕の人生の中でも多大な影響をもたらした書物だったわけである。こういう古典を尊重して人間、とりわけ日本人の在り方やその起源を追求する試みは、国学という形をとって江戸時代に盛んにおこなわれていたらしい。賀茂真淵は万葉集研究を生涯続けていったし、本居宣長は古事記や源氏物語を徹底的に読むことで独特な思想の中を闊歩していき、それは『古事記伝』や『源氏物語 玉の小櫛』、あるいは『紫文要領』等ひとつのまとまった形となって現代に伝わっている。その他徂徠や仁斎といった人物もいる。こういった歴史について僕は小林秀雄の著作で知ったわけだが、我々が今身を置いている「日本」という国を知ろうとして古典を紐解こうとする姿勢が歴史を超えて存在していることに感動を覚えたのだ。そして、これと似たモチベーションで、『遠野物語』や『古事記』を引用するように『共同幻想論』は書かれたのではないだろうか、最初はそんな風に考えていた。しかしこれは序文を飛ばして本論から読み始めた故の愚かな見解だったことに、あとから気が付いた。そもそもこれは「もののあわれ」等の概念を生み出すような、感情で読む書物ではなく、抽象的で徹底した論理のもと、<共同幻想>たる国家ないし社会の姿を捉えようと奮闘した記録である。それゆえに、単純な日本社会の起源に関する考察であることを超えて、広く国家共同体に関する一般的な論考となっている。吉本自身、「序」のなかでこう記している。
しかし、わたしの関心は、民俗学そのものの中にも古代史そのものにもなかった。ただ人間にとって共同の幻想とはなにか、それはどんな形態と構造の下に発生し存在を続けてゆくかという点でだけ民俗学や古代史学の対象とするものを対象としようと試みたのである。(中略)わたしがここで提出したかったのは、人間の生み出す共同幻想の様々な態様が、どのようにして総合的な視野のうちに包括されるかについての新たな方法である。
2.
国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。もっと名付けようもない形で、習慣や民俗や、土俗的信仰が絡んで長い年月に作り上げた精神の慣性も、共同の幻想である。人間が共同の仕組みやシステムを作って、それが守られたり流布されたり、観光となったりしているところでは、どこでも共同の幻想が存在している。そして国家成立の以前にあった様々な共同の幻想は、たくさんの宗教的な習俗や、倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝集していったに違いない。
共同幻想論において、現実に即した問題提供や動機は序文の中で時折語られている。「国家は共同の幻想である」という標語のような文、これは「国家は国民のすべてを足元まで包み込んでいる袋みたいなもの」という国家へのイメージに対峙するものとして生まれた。しかし僕には果たして西欧国家が「国民のすべてを足元まで包み込んでいる袋みたいな」政治体制を取っていないとどうしていえるのかわからないし、これはひとえに僕の知識不足というわけでもあるまいと思う。抽象は時として真偽不明な主張につながってしまうし、吉本氏の疑問としているところは掴みがたい。『共同幻想論』は敗戦後20年経ち、学生運動も激しい1960年代に書かれた著作である。吉本氏が疑ったのは政府の在り方そのものだけではない、国家の政治思想が変わったりしてもその下にいる人々はどうして平気なのか、とも吉本氏は語っているが、激動の時代の中で社会はどんなふうに変遷していったのか、彼がそれをどうとらえているのかを考えることは僕には少し困難である。このように、当時の社会情勢を具体的に知らないまま、書物を一通り読んでみただけではわからない「疑問点の不明瞭性」に非常に苦しめられた。それでも、安易なナショナリズムや国家論を彼が排除しようとし、混乱下の日本社会に思想の上で一石を投じようとした姿勢には間違いが無い、それは序の最後の文からもうかがえる。
3.
全体を読んでいくと、この本が難解である以上に一種の不安のようなものが生じてくることがわかる。誰が書いたのか知りたくなるような、根拠薄弱で馬鹿げた精神世界を論ずる本というものは世の中いくらでもあるが、その序列に『共同幻想論』を入れるつもりは毛頭ないにせよ、共通して言える地に足がつかない感じはやはりどうしても拭い去れない。筆者は『遠野物語』に含まれる奇譚や怪異譚を基に、そのストーリーに流れる心理状態や<幻想>の性質を丁寧に分析していく。例えば「憑人論」の章で、遠野物語内のいくつかの話を基に、その登場人物の心理や幻覚について論じていくのだが、虚構である可能性が随分高い「物語」を基に議論を展開していくというのはいかがなものなのだろう。登場人物の心理解析をしたところで、それは結局小説の読解にほかならず、社会に厳然と存在する<共同幻想>の的確な把握をすることは難しいのではないか、と考えた。これは古事記の読解においても同じように言える。
最終的に、国家、その下で袋に覆われたようにすっぽりと入っている民衆の理想的在り方とは一体何だったのか、吉本氏自身は答えを下していなかった。彼の著述があいまいであると言いたいわけではないが、解釈が分かれて議論が紛糾するのもうなずける気がした。国家とは共同の幻想である、から出発した<共同幻想>の分析は「起源論」を最後に突然終わってしまう。果たして我々が付き合わされていたのは彼の独特な精神鑑定だった、というのはなんともありがちな感想である。しかしそんな彼の「精神鑑定」により観念的で掴みがたい世界が唯物論的に解体され、分析されていくうちに、天皇制国家としての日本国が持つ神秘は一種の現象として対象化されてしまう。神話的な近寄りがたさは対象化されることでその防御力が低下する。解題にあった「相対化」という言葉の意味はもしかしたらそういうところにもあるのかもしれない。その瞬間我々が安易に抱きがちな「ナショナリズム」は幻想であることをやめ、明確な批判対象になることが出来るのである。
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