メモ /(平成17年)1月17日月曜日/朝日新聞紙面より

地震のあとで
震動をひっそりと分かち合うこともできる

村上春樹


 『ねじまき鳥クロニクル』という長い小説の中で、ノモンハン戦争当時のモンゴルのことを書いた。現地に行ったことがなかったから、あくまで想像で、頭の中で情景を組み立てながら書いたのだが、小説が発表されたあとにたまたま機会があって、その戦場跡を実際に訪れることになった。乾ききった砂漠の奥の、また奥のようなところなので、1939年当時の戦闘の形跡がほとんど手つかずのままに残っている。戦車や砲弾や銃弾や水筒なんかが、多少の錆を浮かべてはいるけれど形を崩すことなく、一面に散らばっているわけだ。不気味というか、なんともいえず異様な光景だった。半世紀以上を遡る歴史のまっただ中に放り込まれてしまったような緊迫感がそこにはあった。

 真夜中過ぎに激しい揺れがあった。僕は文字通りベッドから床に転がり落ちてしまった。なんとか起き上がろうとしたのだが、立ち上がれない。歩いてドアに向かおうとしても、床が大きく揺れて這うことしかできない。あたりは真っ暗だ。それでも必死にドアのところにたどり着き、ノブを回して廊下に転がり出た。てっきり大地震に遭遇したのだと思った。しかし廊下はしんと静まりかえっていた。外に飛び出して騒いでいる人もいない。隣に部屋をとった同行者も何事もなかったように熟睡している。
 しばらくの間まったくわけがわからなかった。まるで狐に鼻をつままれたみたいだ。でもやがてこう思った。「あれは本当に地震じゃなかったんだ。たぶん僕という人間の内部で起こった、激しい個人的な震動だったんだ」と。そうとしか考えられなかった。眠れないまま、窓の外が白んでくるまで、隣室の床に座って一人でいろんなことを考えた。戦略的な価値があるとはとても思えない荒野の一角を取り合いながら、貴重な命をおそらくは無為に失っていった人々の哀しみや、怒りや、痛みについて思いを巡らした。夜が明ける頃に、ようやく何かが僕の中ですとんと落ちた感触があった。そのすとんという音が実際に聞こえそうなほどだった。おおげさに聞こえるかもしれないが、自分という人間の組成がいくぶん組み替えられたような実感がそこにはあった。

 1995年の1月に、僕はマサチューセッツ州ケンブリッジに暮らしていた。大学でクラスを持っていて、授業のある日だった。朝食を作り、コーヒーを飲みながら何気なくテレビをつけると、CBSの定時ニュースが廃墟と化した(ように見える)どこかの都市の風景を空から映しだしていた。建物はいたるところで崩れ、何本もの煙があちこちから立ち上っていた。それが神戸の街であることに気づくまでに、たいした時間はかからなかった。それはあまりにも見覚えのある風景だったから。
 僕は夙川で子供時代を送り、中学に入ったときに芦屋に移り、神戸にある高校に通った。もっとも感じやすい18年間を阪神間で過ごしたわけだ。そこで多くの友達を作り、女の子と巡り会い、小説や音楽や映画と出会った。言い換えるなら、その18年間が僕という人間の魂のおおむねの形を作り上げたわけだ。大学に入ったときに東京に出て、結婚し、仕事をみつけ、そのま東京近辺に住み続けている。関西で過ごした歳月より、こちらに出てきてからの方が今ではずっと長くなってしまったわけだが、自分の精神のある種の地域的特性(「阪神間性」とでも言うべきか)のようなものは、たぶん死ぬまで消えないだろうと思っている。
 だから言うまでもなく、まるで空襲を受けたあとのような神戸の街の光景を、テレビの画面で唐突に目にして、強いショックを受けることになった。両親や友人たちがそこに暮らしていたということもある。彼らの安否ももちろん心配だった。しかしそれと同時に、街の崩壊そのものが、その痛ましい情景自体が僕にもたらした衝撃も大きかった。自分の中にある大事な源(みなもと)のようなものが揺さぶられて崩れ、焼かれ、個人的な時間軸が剥離されてしまったみたいな、生々しい感覚がそこにあった。
 でもそれと同時に、僕は自分が既に、その街にとってのただの傍観者でしかなくなってしまっていることを実感しないわけにはいかなかった。神戸の人々が1月17日の朝に感じたはずの激しい震動を、僕は感じてはいない。それはむろん当然といえば当然なことである。「彼ら」は現実に神戸にいて、僕は現実にそこにいなかったのだから。それでも僕は何かを物理的に、肉体的に感じなくてはいけないのではないか-切実にそう感じた。ノモンハンの小さなホテルの一室で体験したのと同じ個人的な震動を、あの暴力的な揺さぶりを、僕はどこかで神戸という街のために感じなくてはならないんじゃないか。どこかで僕は傍観者である立場を脱し、もう一度その街と切実に向き合わなくてはならないんじゃないか。テレビ画面の前に立ちすくみながらそう思った。

 でもそれは簡単なことではなかった。自分が小説家として何をするべきなのか、そのイメージをつかみ、納得のいく方法を設定するまでに、思ったより時間がかかってしまったのだ。僕が『神の子どもたちはみな踊る』(雑誌連載時のタイトルは『地震のあとで』)という短編小説集を書き始めたのは、地震から4年を経た夏のことだ。この連作短編は、失われた僕と街とのコミットメント回復の作業であると同時に、自分の中にある源と時間軸の今一度の見直し作業-僕はそのとき50歳になっていた-でもあった。その6編の物語の中で、登場人物たちは今もそれぞれに余震を感じ続けている。個人的余震だ。彼らは地震のあとの世界に住んでいる。その世界は彼らがかつて見知っていた世界ではない。それでも彼らはもう一度、個人的源への信頼を取り戻そうと試みている。

 この『神の子どもたちはみな踊る』がアメリカで"after the quake"というタイトルで翻訳出版されたのは、ちょうど9.11事件の少しあとだった。多くのアメリカ人読者から「この本を読んで、今の自分の心に深く感じるところがあった」という反応が予想外に強く返ってきた。そういう内容の書評も多かった。人為テロと自然災害という差異はあれ、巨大なカタストロフのあとの感情的源の損傷と、その回復への努力という点においては、精神的に分かち合われるべきものは少なくなかったのだろう。物語という通路をとおして、ある場合には我々は静かに心を結び合うことができる。目には見えないところで、震動をひっそりと分かち合うこともできる。物語にできるのはそれくらいのことでしかないのだが、それはおそらく物語りにしかできない種類の心的結託ではあるまいか、と僕は考えている。というかそれが、この10年ほどのあいだに小説家としての僕がたどり着くことになった地点なのだ。