永吉昴Pが己の出自について気づいてしまったこと
えー毎度馬鹿馬鹿しい怪文書でございます。
本日はまたしてもアイマス、ミリオンライブについて……どころかイチ推しにして特別担当の永吉昴くんと自分自身の係累について共通点を見出してしまったというまことに哀れなお話でございます。
ご存知の方もおられましょうが、永吉昴の生家といえば東京の一角に作業所(工場、特にこの場合「こうば」と読むのが望ましい)を持つ自営業の一家でございます。
父、母、4人の兄、その末娘である昴くん。決して可愛がられるだけではなく、齢15にして母からは料理の腕を引き継ぎ、おそらく父親譲りかと推測される兄たちと共に野球バカと言っていいほどの野球好き。ミリシタでは39プロジェクトの一人として、河川敷での野球の試合の時にPの目を惹きスカウトに至りましたね。
そんな昴くんと共通点があるのが、このわたくし……ではなく! 我が家の専属シェフだったと言って差し支えのないお母……いえ! 母でした。
(あ、ちょっと千鶴さん控え室で待っててもらっていいですか)
母は東京の古くからの下町生まれで、野球好きではないけれど学生時代からアクティブなお転婆さんだったようです。なんでもワンダーフォーゲル部に属して信州・上高地によく行っていたとか……。結婚後も、ほぼ毎週末にテニスをしていました。反面、茶道を嗜み師範の資格も持っていたという大和撫子の側面もあったんだそうで、ただその資格も活かされることなく、本人は師範に許されたのであろう看板のことを冗談交じりに「あんなもの、まな板よ」と言っていたものです。
過去形で話していますのでお気づきでしょうが、もう20年近く前に他界しております。還暦を少し過ぎただけで、当時でも「まだ若いのに」と惜しまれるほどでした。
「我が家の専属シェフ」というのもあながち冗談ではなく、料理の腕も相当なものでした。没後の思い出話として父から聞かされた話ですが、「香港に一緒に行った時に向こうで食べた料理が、帰国したら家で出てきたんだぞ」という……父が盛っている可能性もなくはないですが、私自身も母の手料理を食べて育ちましたので、まあそうなんだろうなと思う要素は十分に感じました。新年のおせち、親戚の集まりに供する料理や、父が営んでいた小規模ながら狭い業界でトップシェアを誇った会社の新年会に向けたケータリングなども手がけるなど、贔屓目を差し引いてもちょっとした料理店は開けるのではないかと身内ながら思うレベルでした。恵まれた食環境で育ったと返す返す懐かしむばかりです。
母の話が長くなりましたが、じゃあ昴くんがどう関わるのかというと。
母の父親、つまり私の祖父ですが、下町で小さな工房を持ち、ガラス職人をやっていたそうです。私が生まれた時にはすでにリタイアし、悠々自適の老後生活を送っていました。その妻である祖母は、生まれこそ九州だったものの人生のほとんどを東京で送った気の強い人でした。間違ったことにはぴしゃりと物申す、小柄ながらそんな気概を持っていました。
さて、その間に生まれたのが4人の男児と末の娘。実際には4人の間にも2人の女児があったそうですが、末子の生まれるより前に幼くして亡くなってしまったとのこと。こうして末子たる母は、4人の兄に大事にされて育っていたわけです。
そういうことなんです。
工場を営む父、気の強い母、そして4人の兄に可愛がられたちょっとお転婆な末娘。
ね?
……ね?
(違うでしょあなたお姉さんじゃないの)
いやまあそんだけっちゃそんだけなんですけど……、偶然というにも気づいてしまってそのままにしておくのも惜しいじゃないですか……。
「おいらの母ちゃんすーばーるー!」とかいうつもりは毛頭ないです無理ですとんでもありません!(唐突な松田化)むしろビジュアル面では沢田麻理菜さんが近いくらいで、思い返しても昴くん要素は「三度の食事や弁当を作ってくれていた」くらいしかないので。弁当も毎日なのは高校3年間だけでしたが。ごめんなさい教室の暖房のスチーム管の上で弁当あっためて箸箱ぐにゃぐにゃにしちゃって……。
後年になって、自分で弁当を作って通勤したりしたこともありましたが、大変ですね。
喧嘩しても兄ちゃんに弁当作ってあげる昴くんはえらいです。海苔でバカって書く手間までかけて、「たいしたもんだ!」って心底思います。
母はアイマスが始まった頃に亡くなり、私自身はミリシタを初めて2年半も経っていない訳ですが。今更になってこんな奇妙な符丁に気が付いて、改めて母に対する哀悼と一推しに向ける恭敬の情をひとしきり強く思うことになったなあ、ということで。
どっとはらい。
千鶴「なんだったんですの一体?」
まつり「Pさんの我田引水なのです?」