「刀剣男士の電報略号」(その2)
(2021.2.12追記)
さて、一番の大所帯・粟田口軍団です。
ただし刀帳順ですので、あの子らは後回し。
このページは粟田口しかいないので、一括で「粟(アハ)」がついてきます。
21 鬼丸国綱
(おにまるくにつな)
(オニマル クニツナ)
「粟 オニ」
(アハオニ)
太刀。粟田口派(粟)、後鳥羽院御番鍛冶・国綱作。天下五剣。北条時政が、小鬼の悪夢に連夜苦しめられていた所に夢枕に立った老人の指図に従い鬼丸の錆を拭うと、立て掛けた鬼丸が倒れて火鉢の足を斬った。それが鬼の形で、以降悪夢を見なくなった……というのが「太平記」の伝承。皇室所有(御物)。
23 鳴狐
(なきぎつね)
(ナキキツネ)
「粟 ナキ」
(アハナキ)
打刀。粟田口派(粟)、国吉作。啼狐とも。障子に映った影を斬ったら怪物で、その瞬間に狐の声がしたという伝承がある。東京国立博物館蔵。
25 一期一振
(いちごひとふり)
(イチコヒトフリ)
「粟 イチ」
(アハイチ)
太刀。粟田口派(粟)、藤四郎吉光作。吉光が打った唯一の太刀として名が付く。秀吉愛蔵品で大阪城落城時に焼け身となったが、家康が命じて再刃させたという。尾張徳川家に伝来、のち皇室所有(御物)。
27 鯰尾藤四郎
(なまずおとうしろう)
(ナマスオ トウシロウ)
「粟 スオ」
(アハスオ)
脇差。粟田口派(粟)、藤四郎吉光作(以下「藤四郎」名のものは同じ)。元は薙刀だったものを磨上げたという。鯰の尾を思わせる「ふくら」のため呼ばれる。一期一振と同じく大阪城落城時に焼け身になり、家康の命で焼き直されている。尾張徳川家に伝来し、そのまま愛知・徳川美術館蔵。
29 骨喰藤四郎
(ほねばみとうしろう)
(ホネハミ トウシロウ)
「粟 ハミ」
(アハハミ)
脇差。鯰尾と同様に薙刀から磨上げてのもの。ただし銘は確認できない様子。その刀身と相対しただけで「骨まで喰まれる」という謂れによる。大阪城落城時は無事に回収されたが、のち明暦の大火で焼け身、やはり4代家綱の命により再刃。京都・豊国神社蔵。
なお鯰尾と骨喰は審神者の間で「ずお・ばみ」とニコイチ的に扱われることが多い。
31 平野藤四郎
(ひらのとうしろう)
(ヒラノ トウシロウ)
「粟 ヒラ」
(アハヒラ)
短刀。藤四郎吉光は短刀の名手とされ、これ以降の「藤四郎」は全て短刀。大坂平野郷(現在の大阪市平野区)の商人、道雪の所持が由来。秀吉、秀忠、前田家と渡り、明治天皇に献上され皇室所有(御物)。
33 厚藤四郎
(あつしとうしろう)
(アツシ トウシロウ)
「粟 アツ」
(アハアツ)
「あつ」とも呼ばれるが、ゲーム内では「あつし」とされる。刀身に厚みがある鎧通し造りのため呼ばれる。足利将軍家から黒田如水や秀吉、毛利家、徳川将軍家などに伝わり、東京国立博物館蔵。国宝。
35 後藤藤四郎
(ごとうとうしろう)
(コトウ トウシロウ)
「粟 コト」
(アハコト)
江戸初期の金座元締・後藤庄三郎の名にちなむ。3代将軍家光から尾張徳川家へ伝わり、徳川美術館蔵。国宝。
37 信濃藤四郎
(しなのとうしろう)
(シナノ トウシロウ)
「粟 シナ」
(アハシナ)
家康の重臣・永井信濃守の所持にちなむ。家光養女の大姫の輿入れと共に前田家に贈られたが(異説あり)、のち出羽庄内藩酒井家に移る。山形・致道博物館蔵。
39 前田藤四郎
(まえだとうしろう)
(マヘタ トウシロウ←マエタ トウシロウ)
「粟 マヘ」
(アハマヘ)
前田利家次男の利政が所持していたことにちなむが、その子直之が加賀藩重臣となるも2代目藩主利常に献上され、そのまま前田家に伝わっているのでどう転んでも前田なのだった。前田育徳会所蔵。
41 秋田藤四郎
(あきたとうしろう)
(アキタ トウシロウ)
「粟 アキ」
(アハアキ)
秋田城介実季の所持にちなむ。のち豊前小倉藩小笠原家(小笠原伯爵家)などに伝わり、京都国立博物館蔵。
(追記)なお本当にどうでもいい、この刀剣男士電報略号の記事と同等かそれ以上にどうでもいい情報ではあるが、現在実装中の刀剣男士で唯一「ナンバープレートに配置できる」。秋田県限定ではあるが、希望ナンバー制を利用して「10-46(とお・しろー)」を取得すれば「秋田xxx ○ 10-46」が交付されることになる。秋田県にはご当地ナンバーがなく、全県で同じ「秋田」。秋田県の方、これであなたも秋田藤四郎のオーナーに!
43 博多藤四郎
(はかたとうしろう)
(ハカタ トウシロウ)
「粟 ハカ」
(アハハカ)
2代福岡藩主黒田忠之から小倉藩主小笠原忠真に贈られた。こちらも婚礼に際してのことで、小笠原家で黒田にちなみ名付けられた様子(博多でいいの?)。その後も小笠原家に伝来し、昭和期に刀剣博物館などを経て現在は文化庁蔵、東京国立博物館が保管。
45 乱藤四郎
(みだれとうしろう)
(ミタレ トウシロウ)
「粟 ミタ」
(アハミタ)
その造りが「乱れ刃」であることに由来。「乱れ吉光」とも。藤四郎の短刀には珍しいらしい。室町幕府管領細川勝元から足利将軍家、秀吉、福山藩主阿部家と伝来し、現在は個人蔵。
47 五虎退
(ごこたい)
(ココタイ)
「粟 ココ」
(アハココ)
これも藤四郎吉光作の短刀。五虎退吉光とも。足利義満の遣明使(遣隋使や遣唐使の明バージョン)の役人が携え、五匹の虎に襲われたものの退けたという逸話による。報告を受けて義満が命名したとのこと。義満が朝廷に献上、正親町(おおぎまち)天皇が長尾景虎(上杉謙信)に下賜、上杉家に伝わるが、現在は個人蔵。
これは同じ字が続いてもおかしくないパターンです。
49 薬研藤四郎
(やげんとうしろう)
(ヤケン トウシロウ)
「粟 ヤケ」
(アハヤケ)
謎が多い一品。足利義満、織田信長の所有であったと伝わるが、文献上の詳細はいまいちはっきりしないらしい。本能寺の変で信長が自決に用いようとしたが三度試みても腹が切れずに投棄したところ、その先にあった薬研(やげん。製薬に用いる器具。鶏軟骨のヤゲンもこれが元)を貫いたという逸話による名(「薬研通し吉光」とも言われる。でも誰がどうやってこれを伝えたんでしょう)。現存も確認できていないが、近年写しが作成され、建勲神社に奉納された。
51 包丁藤四郎
(ほうちょうとうしろう)
(ホウテウ トウシロウ←ホウチヨウ トウシロウ)
「粟 ホテ」
(アハホテ)
「ホウチョウ藤四郎」というのは2振あったらしく、現存するのは「庖丁」で、明暦の大火で焼けてしまったのが「包丁」と書き分ける場合もある。刀剣男士としては「包丁」名。
「庖丁」は足利家、のち大谷吉継、徳川将軍家、尾張徳川家と渡り徳川美術館蔵とのことだが、なぜ庖丁なのかが不詳。
一方「包丁」は料理もよくしたとされる室町幕府京都侍所所司代だった多賀高忠の逸話があり、秀吉や秀忠、紀州徳川家を経て再度将軍家に戻るも焼けたとの由。
なにしろ古い文献ベースの話なので表記も揺れがあり、ちょっと齧った程度ではすぐに飲み込めないことだらけですが、おそらくゲームでの「包丁」はここに記した「庖丁」の来歴を持つものでしょう。
長かった粟田口街道を抜け、ここでいったん区切りです。
[続く]