【更新】「刀剣男士の電報略号」(その8)
というわけで、これで現在実装済みの刀剣男士について全て書くことができました(執筆時現在)。
(補記=2021.2.11)ひとまず村雲江以降の実装刀についてはこのページに追記して、適宜分割することにしました。別途補記いたします。
(補記2=2022.9.28)抜丸までの実装刀を収録しました。
180 山鳥毛
(さんちょうもう)
(サンチヤウモウ/サンチヨウモウ)
「壱 サチ」
(イチサチ)
太刀。備前福岡一文字派(壱)の作。刃文が山鳥の毛のような細かい模様となっているため呼ばれるという(他説あり)。また上杉家には「遠山の夕べの山焼けに似る」として「山焼毛」と呼んだと伝えられる。「やまとりけ」の呼び方も見られる。元々関東管領上杉家の重宝であったが、謙信(長尾景虎)に贈られた際には上州白井長尾家にあったという。のち代々上杉に伝わり、戦後に個人蒐集家に渡り、平成末には上越市が購入検討も金額面で折り合わず、瀬戸内市がクラウドファンディング(山鳥毛里帰りプロジェクト)で資金調達のうえ交渉成立、令和2年に市所蔵、備前長船刀剣博物館保管となった。
182 古今伝授の太刀
(こきんでんじゅのたち)
(コキンテンシユ ノ タチ)
「行 コキ」
(ユキコキ)
太刀。後鳥羽院御番鍛冶豊後国行平作(行)。刀身には倶利伽羅龍と帝釈天が彫られている。細川藤孝(幽斎。忠興父)に伝わっていた。
幽斎は三条西実枝から古今和歌集の秘伝奥義「古今伝授」を受けており(公家に伝授を戻す前提で一代限り)、その時点で唯一の継承者だった。そこへ西軍が攻め込む田辺城の戦いが起き、東軍の幽斎は籠城。伝授の断絶を恐れた八条宮智仁親王が開城を申し入れるだけでは聞かず、兄である後陽成天皇が三条西実条、中院通勝、烏丸光広を遣わして講和を命じ、関ヶ原の2日前に講和成立。三条西家への返し伝授と、講和の礼として烏丸にも古今伝授を行い、この太刀をともに贈ったために呼ばれる。
その後は烏丸家に伝わったが明治に中山侯爵家に渡り、昭和初年に競売に出されたところを細川家16代当主護立が買い戻した。護立には清浦奎吾といううるさ方の相談役がおり、最初は無理だろうと思っていたが諦めがつかず、意を決して清浦に相談したところ「そういう由緒あるものこそお買い求めなさい」と逆に諫められて買うに至ったという話がある。かつて4代綱利に松井興長が上申したのとは逆になった様相である。その甲斐あって護立は永青文庫を設立、この太刀も所蔵品となった。なお護立はその他美術品蒐集や「白樺」のパトロンなど美術芸術に目がなく、日本美術刀剣保存会の初代会長も務めた。
184 地蔵行平
(じぞうゆきひら)
(シソウ ユキヒラ)
「行 シソ」
(ユキシソ)
打刀。豊後国行平作(行)。同名で伝わる刀が2振あり、明暦の大火で焼けた「刀 銘 行平」と、高松宮家に伝わる「太刀 銘 豊後国行平」。ともに地蔵菩薩の彫り込みがあるために呼ばれる。
前者はもと足利義教の所有から後北条2代氏綱に伝わり、そこで地蔵尊が彫られたという。のち細川忠興が夫人(ガラシャ)の父明智光秀を歓待する際に贈っている。さらに徳川将軍家に渡るが、大火で焼ける(享保名物帳「焼失の部」記載)。
後者は徳川秀忠から五女の中宮輿入れで後水尾天皇に献じられ、その孫の系譜である有栖川宮家へ伝わり、断絶後に高松宮家へ継承され、東京国立博物館の保管となっている。
刀剣男士としては異例の2振を持つ姿なのはこのためで、戦闘場面では現存が確認できる宮家由縁の太刀ではなく、細川・明智由縁の打刀を構えていると見える。
(この項は錯誤があったため一部修正しました)
186 治金丸
(ちがねまる)
(チカネマル)
「琉 チカ」
(リキチカ)
脇差。琉球王国(琉)尚氏に伝来。無銘だが、相州系とされる山城国の信国作との推定がある。由来としては16世紀前半に宮古島の豪族が第二尚氏の尚真王に献上したとされるが、八重山平定のために借りたものを返したとする話もある。京都に研ぎに出したら偽物が返ってきたため臣下が3年かけて取り戻した話、北谷王子が悪僧をこの刀で成敗したら呪われて男子が早死にになったという民話なども伝わる。また千代金丸と取り違えられて伝わっているという説もあるが、現状は脇差が治金丸で、千代金丸、北谷菜切とともに1251点一括の琉球王国尚氏関連資料としての国宝指定。
188 日光一文字
(にっこういちもんじ)
(ニツクワウ イチモンシ/ニツコウ イチモンシ)
「壱 ニコ」
(イチニコ)
太刀。備前福岡一文字派(壱)。無銘。日光権現(二荒山神社)に奉納されていたものを北条早雲が申し請け、のち氏直が功により黒田官兵衛に与えた(一説には秀吉を通じて黒田に渡った)という。以降代々黒田家に伝わり、へし切長谷部、日本号とともに福岡市に寄贈、福岡市立博物館蔵。
なお「福岡一文字」という直接の由来は九州の福岡市ではなく備前国邑久郡福岡郷(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡、JR赤穂線長船駅の西側一帯)であるが、黒田長政が九州筑前に転封の際にゆかりの地である備前福岡の名を採って居城を福岡城、城下町を福岡としたとのことで、この日光一文字は奇遇にも源を同じくする名の地にあることになる。
余談だが長船というのも、信州から備前に移り住んだのちの長船派の刀工が故地から採った名と言われる。
190 太閤左文字
(たいこうさもんじ)
(タイコウ サモンシ)
「左 タウ」
(ササタウ)
短刀。左安吉(左)作。太閤秀吉の所有にちなむが、多数あった秀吉の蒐集刀のうちこの1振だけがこう呼ばれる由来は不詳。もと甥の秀次が所持したが秀吉に、没後秀頼を通じて家康、その後は紀州家から浜松藩井上家(のち子爵)に伝来。昭和初期に井上家から売り立てられ、蒐集家間を渡り、平成30年に広島県福山市に寄贈、ふくやま美術館が保管する。なおこの間もどの段階で「太閤」の号が付いたのか不詳という。
192 五月雨江
(さみだれごう)
(サミタレ コウ)
「江 サミ」
(コウサミ)
打刀。郷義弘作(江)と本阿弥鑑定。五月雨の頃に鑑定されたとも五月雨の霧のように美しいからとも言うが、本阿弥家で手入れの際に油を引きすぎたために霞がかったように見えるようになったという。本阿弥家に発見され、黒田長政が買い上げ、秀忠に贈られる。前田光高元服時に下賜されたが、家光養女大姫との婚礼時に返礼品で将軍家に戻り、長女千代姫の輿入れで尾張徳川家にゆくが、その子綱誠の没後に三度将軍家に戻る。以降将軍家に伝わったが、昭和19年に尾張家に寄贈され、現在は徳川美術館蔵。
194 大千鳥十文字槍
(おおちどりじゅうもんじやり)
(オホチトリ シウモンシヤリ←オオチトリ シユウモンシヤリ)
「真 オチ」
(サナオチ)
槍。真田幸村(真)所用と伝わる。槍身の左右に十字になる枝分かれがあり、その枝が下方にそれぞれ突起を持っているのが千鳥の飛ぶ形に似るとして称される。真田でどのように用いられたかは不詳で、家康本陣に攻め入った際、また西尾宗次に討ち取られた際に分捕られたものも薙刀であったとのこと。朱塗りとされる柄は現存しないようだが、穂先の部分は和歌山県九度山町・真田宝物資料館収蔵。
196 泛塵
(はんじん)
(ハンシン)
「真 ハシ」
(サナハシ)
脇差。真田幸村(真)所用とされる。室町期、宇多国次による作刀とされる。銘はなく、堀川国広による磨上げと金象嵌が施され、「泛塵 真田左衛門帯之」と切られていると伝わる。呼び名の意味は「浮く塵」と同義で、人の命の儚さを仮託したと見られる。幸村が配流された高野山から出て、幕末には紀州藩士が所持していたと知られるが、現在の状況はわかっていない。
なおここでは名の知れた「真田幸村」を用いたが、当人は法名の「好白」以外は一貫して「信繁」を名乗っており、「幸村」は後年に伝記的な読み物の中であだ名されて定着したものとされる。
198 一文字則宗
(いちもんじのりむね)
(イチモンシ ノリムネ)
「壱 ノリ」
(イチノリ)
太刀。備前福岡一文字派(壱)の祖とされる後鳥羽院御番鍛冶・則宗の作刀として登場。いわゆる「菊一文字」の位置付けで、子母沢寛作品以降における「沖田の愛刀」とされるが、詰まるところロマンチシズムによるフィクションである。菊一文字という呼び方も、後鳥羽院に菊御紋を彫り込んでの作刀が許された一文字派の刀工がいたという経緯も手伝った後世の錯誤で、現在明らかな範囲で、則宗の銘がある刀(ごく少ない)に菊の紋は確認されていない。むしろ言うなれば今剣や岩融のように、人の間を伝わってくるエピソードが形作る付喪神らしい部分でもあろう。平安刀の流れをよく汲み、細身で優美な姿であるというのは、刀剣男士の有り様としてもよく表されている。
〈以降、追記分となります。公開時に既にこのページだけ長くなっているため、これ以後追加実装のあった際は前述の通りこのページに追記し、適宜記事を分割いたします〉
200 村雲江
(むらくもごう)
(ムラクモコウ)
「江 クモ」
(コウクモ)
打刀。郷義弘作(江)と本阿弥鑑定。安土桃山期の本阿弥家9代当主の光室が近江で発見し秀吉に献上、その際、秀吉に刃文が「村雲のようだ」と評されたため呼ばれるという。のち加賀藩前田家にあったものが、将軍綱吉の前田家江戸屋敷へ御成りの際に献上された。綱吉は重用していた柳沢吉保に与え、明治4年廃藩置県で柳沢家が刀剣類を処分、まさに十把一絡げにかなりの数をまとめて売り立てたと伝えられるが、柳沢家ではそうした売り立ても、その中に本作があったという記録もないとする(ただし江の刀自体はあったらしい)。この十把一絡げを越後の旧新発田藩士窪田某が入手し、その内の1振を本阿弥家に鑑定に出したが、当時の代では鑑定がつかず、留帳という過去の記録を当たって判断された。窪田が明治20年に手放した際は単体で250円であったという。その後は蒐集家の間を転々とし個人蔵。
202 姫鶴一文字
(ひめつるいちもんじ)
(ヒメツルイチモンシ)
「壱 ヒツ」
(イチヒツ)
太刀。「上杉家御手選三十五腰」の一。その中でも景勝が特に珍重した内の一振りで、自筆の「上秘蔵」とされた目録にも収録されている。号の由来は諸説あるようで、有名なのが「御腰物係が研師に磨り上げに出したら両者とも二晩続けて〈『つる』と名乗る姫が現れ、磨り上げの取りやめを嘆願された〉という夢を見たことによる」という逸話だが、これを著書で紹介した福永酔剣はそれによる名が「鶴姫」ではないことにも言及しているとのこと(「姫鶴」をそのまま解釈すると「全身が小さめの鶴」となる)。また昭和33(1958)年開催の展示会におけるリーフレットでは「刃紋が鶴の翼に似ている」という解説がなされていたようだが、平成13(2001)年の展示会では曖昧なものとされたとの由。なお福岡一文字派であることに異議はないようだが、実際に鍛造した刀工の名についても明らかではない。現在は米沢市所有、上杉博物館蔵。
204 福島光忠
(ふくしまみつただ)
(フクシマミツタタ)
「長 フク」
(ヲサフク)
太刀。燭台切と同じ、長船派の祖とされる光忠の作。号の由来は秀吉に長く仕えた福島正則が所有していたことによるとされる。福島は小田原征伐における韮山城陥落の功で日本号を拝領するなど重用されていたが、関ヶ原の戦いではいち早く徳川方の東軍に付き活躍した。家康からは評価され安芸・備後の計50万石弱を与えられたものの、江戸幕府開府後も豊臣家と距離を置かずにいたため警戒され、また家康薨去後も幕府の許諾を得ず広島城を改修したとして咎められ、上記2国から信州高井野藩4万石へと改易を受ける。それも福島の死後、幕府の検死役の到着前に荼毘に付したことにより高井野藩も没収される。その際に家督存続のために孫の正利が家光に献上、福島家は取り潰しを免れた。以後将軍家からは出たようで「享保名物帳」では常陸宍戸藩主松平頼道の所持とされ、安永8年の榊原長俊「本邦刀剣考」にも記述が登場するが、以降現在に至るまでその所在は明らかでない。
206 七星剣
(しちせいけん)
(シチセイケン)
「太 シチ」
(タイシチ)
「七星剣」という名は一般に「北斗七星を意匠に配した刀剣」のことを指す。破邪、鎮護の力が宿るとされ、儀式に用いられることが主で、実戦に使われたものはまずなさそうである。日本においては中国由来の道教思想に基づいて作刀された直刀を呼ぶ(反りはない)。現存するものは数点あるが、ゲーム中においては聖徳太子の佩刀として名乗っているため、大阪・四天王寺所有の鉄剣が相当すると考えられる。この剣は七星の文様の他に雲形、三星、竜頭、白虎などの文も描かれているが、鎌倉時代にはすでに錆身で拵も失われていた模様。戦後に人間国宝小野光敬により研磨され、現在は東京国立博物館に寄託されている。
208 (欠番?)
210 稲葉江
(いなばごう)
(イナハコウ)
「江 イナ」
(コウイナ)
打刀。郷義弘の作刀(天正13年本阿弥光徳鑑定)。戦国武将稲葉良通の子が所持していたによる。通説では重道だが、金象嵌銘の指表にある「所持稲葉勘右衛門尉」を厳密に解釈すれば道通であるとの指摘もある。これより家康が500貫で買い上げたが、関ヶ原の戦に際し上杉景勝制圧のために会津に下る途中で石田三成の挙兵の報を受け、引き返すにあたり次男結城秀康に上杉討伐を任じて宇都宮に残し、本作を与えた。のち秀康は越前北ノ庄藩を与えられ松平姓に復する(のちの松平福井藩)。その後も同家に伝わるが、昭和初期には津山・松平子爵家(旧津山藩主)にあって重要美術品・旧国宝と相次いで指定される。のち子爵家より中島喜代一(現SUBARUの中島飛行機2代目社長)に移り、昭和26(1951)年に改めて国宝指定。2000年の時点では東京都内の個人蔵となっていたが、平成27(2015)年の文化庁調査で所在不明とされた。翌年所有者がそれを知り文化庁に届け出、さらに平成31(2019)年に山口県内の企業カシワバラ・コーポレーションが購入し、同社の会長柏原伸二より、本人が館長を務める岩国美術館(のち柏原美術館と改称)へと寄贈されている。
212 笹貫
(ささぬき)
(ササヌキ)
「波 サヌ」
(ナミサヌ)
太刀。鎌倉時代に薩摩で活躍した刀工・波平行安(なみのひら・ゆきやす)による作刀。波平派は行安が祖とされ、明治まで行安の名が襲名され続けた(刀工の流派としては最長とのこと)。笹貫の名については、行安が妻に鍛冶場を覗かないよう厳命していたにも関わらず仕上げ時に妻が覗いてしまい、激昂してその刀を笹薮に投げ捨ててしまったものが、夜な夜な藪から妖しい光が見えるとのことで村人が覗いてみると、上向きに突き刺さっていた刀の切っ先に無数の笹の葉が刺さっていた、という逸話が由来とされている。またそれに続く逸話として、妖刀であるということで海に投げ捨てられたところ、今度は海から妖しい光が放たれるようになったので引き上げられた。これを聞いた島津家の分家筋にあたる樺山音久が召し上げ本家島津に献上したものの、そこでも怪奇現象が起きたということで樺山に戻された、という。福永酔剣は『日本刀大百科事典』において波平派が「上福元村笹貫(現在の鹿児島市東谷山1丁目付近。現在も町内会の名称に残る)」に居住していたための創作であろうと断じている。その後も樺山家に伝わったが、のち国有品となり、現在は独立行政法人国立文化財機構所有の重要文化財として京都国立博物館に所蔵。
「サヌ」としたのは、左文字派の所属記号部「ササ」と同一になることを回避するため。
126 抜丸
(ぬけまる)
(ヌケマル)
「平 ヌケ」
(ヘイヌケ)
幻の126番がここで出てきましたね。
太刀。伯耆の大原真守(安綱の子とされる)の作として、平家に伝わる。清盛の父・忠盛が六波羅館で昼寝中、池から大蛇が出てきて忠盛を飲み込もうとしたところ、本作がおのずから鞘を出て大蛇に斬りかかり、大蛇はおののいて池に、本作も鞘に戻った。再度大蛇が出てきてリトライしようとするも、また本作が抜け出て大蛇を追い払い、池のほとりに立った。それを見た忠盛が「抜丸」と名付けたという。本作にはまた、もと「木枯(こがらす)」という名があり、その名は伊勢鈴鹿において狩り暮らしをしていた男が一夜を明かす際に「立てかけた大木が一夜にして枯れた」という逸話によるものとされるが、江戸期の国学者・塙保己一はこれを「小鴉(小烏)」との混同で、膝丸・吼丸・薄緑のような相関と同様なのではないかと疑義を呈している。伝承によればこれを男から忠盛が年貢三千石を立替えて召し上げ平家に伝わったが、頼盛はこれを受け継いだあとに頼朝に接近して一旦鎌倉に亡命し、壇ノ浦での平家滅亡後に東大寺に出家、翌年に亡くなっている。この際に抜丸は鎌倉に残されたと考えられ、更に後世には足利将軍家に伝わったようだが、永享4(1432)年の記録以降は不明であるという。
(2022年8月実装分まで記録)
いやあ長かったでしょう。お疲れさまでした。鶯丸さんにお茶でも淹れてもらってください。包丁くんがねだるのも構わず茶菓もご一緒にどうぞ。あ、お好みでなければ次郎さんと……え、それはやめといたほうがいい? そうですよね。
一覧表も作っておきましたので、まあ変換登録にでも使えたらどうぞ。
(この項おわり)
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