「刀剣男士の電報略号」(その6)
これまでは刀帳が刀派別にまとまっていたものが、ごった煮も煮崩れの様相となってきます。運営さんの最初期に想定していたサービス継続期間を超えての実装刀ゾーン、とでも言いましょうか。
おあずけ食ってたあの子もやっと出てきます。
136 日本号
(にほんごう)
(ニホンコウ)
「黒 ニホ」
(クロニホ)
槍。黒田家ゆかり(黒)。大和金房派の作と推定されるが、無銘で作者は不詳。天下三槍の一。読みは「にっぽんごう」「ひのもとごう」とも。倶利伽羅龍の浮き彫り入り。元は皇室御物で、内裏に持ち込めるよう「正三位」に叙されたという。正親町天皇から足利義昭に下賜、のち信長、秀吉等を経て「呑み取り」の末に黒田官兵衛臣下に渡る。野村という家に長くあったが大正年間に民間に流れ、福岡藩士出身の安川男爵が「福岡を離れるべきでない」として買い上げ、黒田侯爵家に贈った。のちへし切長谷部とともに福岡市に寄贈、福岡市博物館蔵。
138 御手杵
(おてぎね)
(オテキネ)
「駿 キネ」
(スルキネ)
槍。駿河(駿=スル)島田の鍛冶師・五条義助の作。下総藩結城晴朝の依頼により作成といい、結城が戦場で挙げた首級を十数個まとめて串刺しにして帰城する際に真ん中のひとつが落ち、シルエットが手杵のように見えたことから実際にそのような形の鞘を作ったというのが呼び名の由来。のち上州松平家から越前松平家と渡り、東京大空襲で焼失したが、茨城・結城蔵美術館には島田市の有志が2002年に発起して復元されたレプリカが寄贈され、埼玉・川越市立博物館には鞘のレプリカ、同東松山市・箭弓(やきゅう)稲荷神社にも2015年に越前松平家にゆかりのある郷土史家によりレプリカが奉納されている。
140 巴形薙刀
(ともえがたなぎなた)
(トモヱカタ ナキナタ/トモエカタ ナキナタ)
「源 トモ」
(ケシトモ)
薙刀。源氏(源)の木曽義仲とともに戦乱を生きた巴御前の名を由来としているが、あくまで薙刀としての類型であり、単独の刀剣や刀工の作刀としての登場ではない。巴御前がこうした武具を使用したという事実も確認できない。固有の逸話や元となる本体がないために、キャラクターとしても他の刀剣男士に比して未発達な雰囲気を纏う。巴形としての形状は、幅広で反りの大きい刀身が特徴。女性に扱いやすいとされ、江戸時代を中心に奨励された。また現代に至るまで祭祀に用いる例も多い。戦乱が遠ざかり実用性が下がるにつれて刀剣以外の農具等に再利用されてゆき、実物としては残存が少ない。
142 毛利藤四郎
(もうりとうしろう)
(モウリ トウシロウ)
「粟 モリ」
(アハモリ)
短刀。粟田口派(粟)、藤四郎吉光作。毛利輝元の所有刀であったことによる。輝元から家康、のち池田輝政または光政に渡る。明治24年に明治天皇が池田侯爵家に行幸の際に献上、戦後移管され東京国立博物館蔵。
144 篭手切江
(こてぎりごう)
(コテキリ コウ)
「江 コテ」
(コウコテ)
脇差。郷義弘作(江=コウ)。「江」には「ごう」の読みもあるためのちに字が充てられた模様。篭手切は切れ味を示す「截断銘」というもので、実際に篭手を切ったという逸話があるものではない。江戸時代初期から稲葉家と細川家を行ったり来たりするような状態だったが、大正期に稲葉子爵から売り立てられ、現在は兵庫県・(公財)黒川古文化研究所蔵。
郷義弘は正宗十哲の一人で南北朝期に越中で活躍したが、正宗と同じ銘を切らない刀工だった。そのため「江とお化けは見たことがない」と言われ、偽物も多く出回ったので真作にお目にかかれることは絶無といっていい。また正宗、吉光と並んで天下三作とも呼ばれる。
146 謙信景光
(けんしんかげみつ)
(ケンシン カケミツ)
「長 ケシ」
(ヲサケシ)
短刀。備前長船派(長)景光作。上杉謙信の愛用にちなんで呼ばれる。大河原時基の依頼で打たれ、太刀とともに秩父神社に奉納。のち上杉家に伝わり、謙信は常にそばに置いたという。戦後、個人に譲られ、平成5年に埼玉県に所有が移る。現在はかつて共に奉納された太刀と一緒に埼玉県立歴史の民族の博物館が保管。
148 小豆長光
(あずきながみつ)
(アスキ ナカミツ)
「長 アス」
(ヲサアス)
太刀。備前長船派(長)長光作、謙信愛用の刀とされるが、次代景勝による記録にはない。典厩割、竹俣兼光、波泳ぎ兼光、赤小豆粥など、長船派や似た名前など条件の近い刀はあるものの、いずれも「小豆長光である」という決め手に欠けている。
名の由来としては、本刀を持ち小豆袋を背負っていた男が小豆を袋からこぼし、割れていた鞘の中の刀身に当たって小豆が切れたのを謙信の家臣が見て買い上げ、謙信に渡ったというものである。なお家臣の名は竹俣と伝わる。
150 日向正宗
(ひゅうがまさむね)
(ヒユウカ マサムネ)
「正 ヒカ」
(マサヒカ)
短刀。相州正宗(正)の作。前述の通り正宗は銘を切らないため無銘である。水野日向守勝成所有にちなむ。大垣正宗、堅田正宗の別名もある。もと秀吉所持から三成に下賜、妹婿の大垣城主福原長堯に渡るが、関ヶ原・大垣城の戦いで水野が分捕る。のち紀州徳川家に移り、昭和初年に三井男爵家が落札、現在は三井記念美術館蔵。
152 静形薙刀
(しずかがたなぎなた)
(シツカカタ ナキナタ←シスカカタ ナキナタ)
「源 シツ(源 シス)」
(ケシシツ)
薙刀。源義経(源)に付き従った白拍子・静御前の名を元としているが、こちらも特定の刀剣や刀工の作があるわけではないし、静御前が使用したという話もない。静形は反りが浅く、細身の刀身が特徴となる。より実戦向きな形状ではあったが、矛から槍へと長物の主流が遷移する中で廃れ、薙刀としては古武道の流派が残るばかりである。異説として正宗十哲の一人・志津三郎兼氏が作ったものとして「志津形→シヅ形」という名が起こったともいうが、やはり両御前揃い踏みの整い具合には及ばない印象(あくまで印象です)。
154 南泉一文字
(なんせんいちもんじ)
(ナンセン イチモンシ)
「壱 ナセ」
(イチナセ)
打刀。備前福岡一文字派(壱。一は識別に難があるため)。無銘、大磨上。足利将軍家所有の頃、研ぎに出した際に立てかけていたら猫が触れて真っ二つに斬れたという。これを中国の故事(南泉普願禅師の「南泉斬猫」、碧巌録63則)になぞらえて呼ばれた。秀吉・秀頼から家康へ渡り、形見分けで尾張徳川家へ伝わる。一旦将軍家に戻るが再度尾張に下され、徳川美術館蔵。
なお南泉禅師は自ら猫を斬っている。なぞらえる話としては風評被害に近い。
156 千代金丸
(ちよがねまる)
(チヨカネマル)
「琉 チヨ」
(リキチヨ)
太刀。琉球王家尚氏に伝来(琉=リキ)。もと山北王の宝刀だったが尚巴志により滅ぼされ、山北王自死の際に遺棄されたのち民が発見したものを中山王となった尚巴志に献上されたという(異説あり)。第一尚氏の滅亡後、第二尚氏に継がれる。明治23年に小松宮彰仁親王が琉球巡視の際に拝見、すこぶる高評価をうけた。平成18年「琉球王国尚家関係資料」として全1251点の文化財がまとめて一個の国宝と指定され、そのうちの1点となる。刀身は全体金色、片手打ちの柄など、いわゆる日本刀の特徴からは大きく外れる。
もう一息で追いつけますかねえ。もうちょっと先ですかね。
え、今月また新刀剣男士? まじかー。
[続く]
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?