「刀剣男士の電報略号」(その3)
お次は下記の通りです。
・古備前(コヒ)
・来派(ライ)
・村正(ムラ)
・貞宗(サタ)
・長船(ヲサ)
53 大包平
(おおかねひら)
(オホカネヒラ←オオカネヒラ)
「備 カネ」
(コヒカネ)
太刀。古備前(備。備前長船とは時代的にも別系統)と位置付けられる平安期の刀工、備前国包平による最上作のため「大」を付けて呼ばれる。それどころか日本刀史上の最高傑作という評価もあり、天下五剣の童子切安綱と並んで東西の横綱として扱われることもあるという(ただし大包平は天下五剣ではない)。戦国期から江戸初期の大名池田輝政より池田家に伝来、現在は東京国立博物館蔵。
55 鶯丸
(うぐいすまる)
(ウクヒスマル←ウクイスマル)
「備 ウク」
(コヒウク)
太刀。こちらも古備前(備)の友成による。名の由来は不明で、室町期にはすでにそう呼ばれていたらしい。足利家から越前勝山の小笠原家、のち対馬藩主宗家と渡り、明治期に田中伯爵から明治天皇へ献上されて現在も皇室所有(御物)。
57 明石国行
(あかしくにゆき)
(アカシ クニユキ)
「来 アカ」
(ライアカ)
太刀。来派(来)の祖とされる刀工、来国行の作。播州明石藩松平家に伝来。昭和初期から中期あたりで蒐集家の手に渡るが、没後に寄贈されて日本美術刀剣保存協会蔵。
59 蛍丸
(ほたるまる)
(ホタルマル)
「来 ホタ」
(ライホタ)
大太刀。来派(来)代表格の来国俊による作。建武の新政と南北朝の争いの一つ「多々良浜の戦い」において阿蘇惟澄が振るい、刃こぼれが多数できたものの、館で立て掛けたまま眠りに落ちた時に「無数の蛍が太刀にまとわりつき、光を放っては消えた」という夢を見たが、気付いたら刃こぼれは全て無くなっていた──という逸話による。蛍は欠けた刃のかけらであったという話も。その後は代々阿蘇神社宮司となる阿蘇家に伝わるが、第二次大戦後に進駐軍の刀狩のどさくさで行方不明とのこと。なお近年になってクラウドファンディングを募り写しが作成される。
61 愛染国俊
(あいぜんくにとし)
(アイセン クニトシ)
「来 アセ」
(ライアセ)
短刀。来国俊作(来)、なのだが、上記蛍丸を打った国俊とは別人かも知れないらしい。切付け銘(刻印)が「来国俊」と「国俊」の2パターンあるそうで。でも同じ人かも知れないとも。ややこしいですね。
で、その国俊さんの銘の上に愛染明王の彫り込みがあることに由来する名。秀吉、家康を経て森忠政(蘭丸の従兄弟)、また家光へと献上、養女大姫の長男出産祝いで嫁ぎ先の前田家へと伝来するが、現在は刀剣を蒐集する企業の所蔵。
63 千子村正
(せんごむらまさ)
(センコ ムラマサ)
「村 セコ」
(ムラセコ)
打刀。いわゆる「妖刀村正」の刀派の祖、初代村正(村)こと千子村正の打った刀……の集合体としての存在。活躍期は室町期前半。「千子」とは千手観音の申し子という意味で名乗ったとか。村正銘の刀は松平・徳川家によく祟るとのことで妖刀とされ、忌避されたと伝わる。
65 蜻蛉切
(とんぼきり)
(トンホキリ)
「村 トホ」
(ムラトホ)
槍。村正一派(村)の三河文殊派、藤原正真の作。天下三槍の一つで、家康の四天王と名高い本多忠勝の用いた槍としても知られる。トンボが飛んできて穂先に止まったら真っ二つに切れたという逸話による。現在個人蔵だが、愛知・三河武士のやかた家康館にレプリカが、東京国立博物館に江戸末期に作成された写しがある。
67 物吉貞宗
(ものよしさだむね)
(モノヨシ サタムネ)
「貞 モノ」
(サタモノ)
脇差。正宗十哲の一人、鎌倉末期から南北朝期にかけての刀工、貞宗の作(貞)。帯刀して出陣すると必ず勝利するという好運の刀としての呼び名という。秀吉、秀頼、家康と渡るが、家康没後になぜか秘して尾張徳川家に伝わり、現在も徳川美術館蔵。
69 太鼓鐘貞宗
(たいこがねさだむね)
(タイコカネ サタムネ)
「貞 サタ」
(サタサタ)
短刀。貞宗作(貞)で最も小振りだという。堺の太鼓鐘という商人が所有していたことに由来。のち秀忠から養女振姫(実父は池田輝政)の輿入れと共に伊達家に代々伝わったが、昭和期に伊達伯爵家から個人蒐集家に渡る。個人蔵で刀剣博物館が保管。
なお同名の別刀も記録に残るが、そちらは詳細不明。
「サタ」となるのは、頭三音までと刀工名の頭文字が「太閤左文字」と重複することと、ゲーム内で「貞ちゃん」と呼ばれることによる。
71 亀甲貞宗
(きっこうさだむね)
(キツコウ サタムネ)
「貞 キコ」
(サタキコ)
打刀。貞宗作(貞)。刀身の茎(なかご)といわれる部分に、大磨上あとに刻まれた亀甲菊花文様の彫り込みがあるために呼ばれる。最上、明智、徳川の所持を経て松江藩松平家、奥州窪田藩土方家、盛岡藩南部家、尾張徳川家と転々とし、5代綱吉から将軍家に伝わったものの、戦中戦後にまた蒐集家の間を渡り、最終的に寄贈され東京国立博物館蔵。国宝。
73 燭台切光忠
(しょくだいきりみつただ)
(シヨクタイキリ ミツタタ)
「長 ミツ」
(ヲサミツ)
太刀。備前長船派(長)の祖とされる光忠の作。信長、秀吉、伊達政宗と渡る。政宗がしばしば不届きを働く小姓に斬りつけた際、流れ弾的に青銅製の燭台も切れたという。その後、水戸徳川家に伝わったが、関東大震災の火事で多数の名刀とともに焼失した……とされていたが、ゲームリリース後に水戸・徳川ミュージアムに焼け身のまま収蔵されていたことが判明。更に写しも作成されている。キャラクター人気も相まって、最もドラマティックな展開を見せている一振かと。
「ミツ」は太鼓鐘貞宗同様、ゲーム内での呼称による。
75 大般若長光
(だいはんにゃながみつ)
(タイハンニヤ ナカミツ)
「長 ハニ」
(ヲサハニ)
太刀。備前長船派(長)、光忠の子・長光の作。銘の由来は「大般若経」(般若心経の元となった、大乗仏教の基礎を記した経典。7世紀に玄奘三蔵がインドから唐に持ち帰り、全16部600巻を編纂した)で、室町末期の本阿弥家の値付けにおいて他の名刀群の十倍以上の六百貫とされたのが大般若経六百巻と掛けて呼ばれるようになったもの。本阿弥家は刀剣の研究、修復、鑑定のプロの家系。もと足利家にあったものが戦の折々ごとに三好、信長、家康から武州忍藩松平家へと伝わり、大正期から昭和初期に蒐集家を経て現在の東京国立博物館と渡る。関東大震災で曲がってしまったが、研ぎ師が直している。
77 小竜景光
(こりゅうかげみつ)
(コリユウ カケミツ)
「長 コリ」
(ヲサコリ)
太刀。備前長船派(長)3代目の景光作。刀身の「はばきもと」に細かい倶利伽羅竜の彫り込みがあるのだが、磨上のため竜の頭だけがのぞく状態になってしまった(だから「小」竜?)。山田浅右衛門に伝わる分には楠木正成、秀吉、家康などに伝わったとのことだが裏付けがなく、河内の農家で見出されたものの本阿弥家で値付けもされず、幕府の代官から刀屋に渡るも買い手がつかず、結局山田が競って買い上げたという。のち大老井伊家に召し上げられたが桜田門外の変ののち山田家に戻り、宮内省に献上され明治天皇愛用の刀となった。戦後、東京国立博物館蔵。国宝。
ごめんなさいねえ、まだ半分もいってないんですよ……
[続く]
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?