「刀剣男士の電報略号」(その7)
やっぱりもう一つ先がゴール(仮)みたいです。
158 山姥切長義
(やまんばぎりちょうぎ)
(ヤマンハキリ チヤウキ/ヤマンハキリ チヨウキ)
「長 チキ」
(ヲサチキ)
打刀。備前長船派(長)で正宗十哲の一人、長義作。山姥切は「信州戸隠山中の山姥を斬り捨て退治した」という伝承であるが、国広作の逸話か本作の逸話かが不詳。北条氏政から長尾顕長に下賜され足利で国広が銘を入れ、これの写しを作る(山姥切国広)。このとき茎(なかご)の銘が表に「本作長義天正十八年庚刁五月三日二九州日向住国広銘打」、裏に「長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日小田原参府之時従 屋形様被下置也」(合計62文字。刁は寅の異体字として使われた)、重要文化財としての登録名ですら「本作長義天正十八年庚寅五月三日二九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持云々」(スペース除いて39文字)となり、刀剣男士どころか数ある刀剣類の中でも頭抜けて長い「本名」となった。その後、尾張家徳川光友が買い上げ伝わり、徳川美術館蔵。
なお国広作刀は写しといえども本作に忠実な模写ではなく、あくまで国広作の上作となっている。この時に相州伝の特長を学び、以降の作刀および徒弟育成に生かしていったという。
160 豊前江
(ぶぜんごう)
(フセン コウ)
「江 フセ」
(コウフセ)
打刀。郷義弘作(江)。郷作とされる中で最も華やかで優品であるとされる。号の由来は不明というが、昭和初期に小笠原伯爵家(旧豊前小倉藩主)蔵であったことが関わるか。戦後は蒐集家間を渡り歩くも、文化庁調査では昭和55年の記録を最後に行方不明。
162 祢々切丸
(ねねきりまる)
(ネネキリマル)
「荒 ネネ」
(フタネネ)
大太刀。日光二荒山神社所蔵(荒、フタ)。正式な名は「山金造波文蛭巻大太刀(やまがねづくりはもんひるまきのおおたち)」とされる。小鍛冶宗近作とも来国俊作とも備前系の刀工の作とも伝わる。日本最大の太刀とも。呼び名としては、かつて日光の鳴虫山に住み着いて人々を困らせた「祢々」という虫の妖怪がおり、この太刀が神社拝殿から出でて祢々を散々追い掛け回し、神社の前に追い詰めて斬り捨てたという伝承による(一説ではネネは付近の方言で河童のこととも言われる)。昭和42年に重要文化財指定を受けるが、同じ二荒山神社所蔵の「柏太刀(山金造黒漆蛭巻大太刀)」とセットでの指定となる。
164 白山吉光
(はくさんよしみつ)
(ハクサン ヨシミツ)
「粟 ハク」
(アハハク)
剣(つるぎ)。粟田口藤四郎吉光作(粟)。白山比咩神社蔵、石川県立美術館寄託。家光の養女大姫が前田光高に嫁ぐ際の持参品だが、この時に家光から光高に信濃藤四郎と太郎作正宗、先代利常に和歌山正宗、利常から家光に五月雨江・八幡正宗・行平の太刀が贈り交わされている。長男綱紀2歳時に光高、13歳時に大姫改め清泰院も早世し、綱紀は母・清泰院の冥福を祈念しこの吉光剣を白山比咩神社に奉納した。
166 南海太郎朝尊
(なんかいたろうちょうそん)
(ナンカイタラウ チヤウソン/ナンカイタロウ チヨウソン)
「土 ナチ」
(トサナチ)
打刀。土佐出身(土)の同名の刀工による、土佐藩士・土佐勤王党の武市半平太の刀として登場。刀工朝尊の切り付け銘は友尊、朝高など「ともたか」の名乗りをなぞったもので推移している。理論家として優れていたが作刀はその通りとはなっていないと評される。壮年期には剣術指南も行う。南海太郎の号は子孫も受け継いで用いていた。
168 肥前忠広
(ひぜんただひろ)
(ヒセン タタヒロ)
「土 ヒセ」
(トサヒセ)
脇差。土佐藩郷士・土佐勤王党(土)の岡田以蔵の刀として登場。刀工は肥前忠吉(初代)、のち改め忠広。もと龍造寺家の家臣であったが、父の戦死で幼少のため跡を継げず、山城国の埋忠門下で3年という短期集中修行のあと帰郷、鍋島勝茂に抱えられ作刀、100名以上の弟子を輩出した。新刀最上作最上大業物、名手とされる。子孫も忠吉・忠広を受け継ぎ、明治期まで活躍した。
170 北谷菜切
(ちゃたんなきり/ちゃたんなーちりー)
(チヤタン ナキリ/チヤタン ナーチリー)
「琉 チナ」
(リキチナ)
短刀。琉球王国(琉)尚家伝来の無銘刀で、15世紀の作と推定される。逸話としては、北谷の農婦が包丁を振ったら離れたところにいた赤子の首が飛び、取り調べの役人も山羊に向かって振ったらやはり首が切れ、農婦は放免された。この包丁を鍛え直したものであるという。いわゆる妖刀として扱われる。平成18年、千代金丸らとともに1251点一括で国宝指定。
172 桑名江
(くわなごう)
(クハナ コウ←クワナ コウ)
「江 クハ」
(コウクハ)
打刀。郷義弘作(江)との本阿弥鑑定。伊勢桑名藩2代藩主本多忠政(忠勝後継)が鷹狩りの際に農家の神棚に祀られていた本刀を発見、本阿弥光徳に鑑定依頼をした。埋忠寿斎が象嵌入れ・拵え金具を付ける。以後、本多家に伝わるが、戦後に本多家を出て現在は京都国立博物館蔵。
174 水心子正秀
(すいしんしまさひで)
(スイシンシ マサヒテ)
「新 スイ」
(シンスイ)
打刀。江戸後期、新々刀期(新)の刀工3代の作刀として登場。特に初代は古来の刀工研究をよくし、泰平の世の中で次第に意義を失いつつあった作刀を盛り返す機運を作った。正宗の子孫・山村綱廣に弟子入りし秘伝書を授けられ、また会得した技術を十数冊の書としてまとめて刊行した影響は大きい。弟子も100人以上、作刀も369振と非常に多く、まさに「新々刀の祖」の名に羞じない功績を残している。
176 源清麿
(みなもときよまろ)
(ミナモト キヨマロ)
「新 キロ」
(シンキロ)
打刀。新々刀期(新)の同名刀工の作刀として登場。刀工としては本名の山浦環、また正行、一貫斎とも名乗る。本来的には師と仰ぐ窪田清音(くぼたすがね)の一字を拝しているので「すがまろ」になるはずだが、読みが平易な「きよまろ」で通っている。生まれは信州小諸、隣藩上田で兄とともに鍛刀を学んだのち故地を離れ江戸へ。窪田は剣術家だが腕を見込んで鍛冶場を与える。三両で一口打つとして百口集めた「武器講」を一口で打ち切り、長州萩へ入った(家老村田の招聘)のち、故郷小諸を経ておよそ2年後に江戸へ戻る。清麿を号するのはこれより後で、四谷に住み四谷正宗とも称された。江戸三作として評価は高かったが寡作で、生涯で130ほどしか打たなかったとされる。また「近藤勇の虎徹」は研師の犬塚徳太郎によると清麿作で、関東大震災で焼失したとしている。清麿は左利きで、ヤスリ目が右利きとは逆向きだったともいう。
178 松井江
(まついごう)
(マツイ コウ)
「江 マツ」
(コウマツ)
打刀。郷義弘作(江)と本阿弥鑑定。肥後熊本藩細川家重臣・松井興長所有のため呼ばれる。興長は細川忠興の女婿でもあり、忠興が隠居先の八代城で没したあとは城を引き継ぎつつ、都合四代にわたり細川に仕えた。特に四代目綱利が道楽気質で浪費の傾向があり、それを諫めるために改易も辞さずとして箴言の書状を送った逸話がある。本作は興長が八代城を拝領した際(一国一城令の例外として扱われた)、将軍家に献上したとも言われている。のち綱吉から息女輿入れに伴い紀州家3代徳川網教に贈られ、代々伝わる。昭和に入り売り立てられ、蒐集家間を渡って現在は静岡県・佐野美術館蔵。
いわゆる「特命調査組」の皆さんが入ってきました。
次のエントリで執筆時現在の実装済刀剣男士は全て書ききることになります。
[続く]