写美にロベール・ドアノーを観に行った
根性論とも捉えられかねないが、結局のところ、審美眼というか、ものの観方のセンスみたいなものは量をこなさないと身に付かないと思う。
量をこなすというのはつまり、好き嫌いの区別をはっきりさせることであり、と同時に許容範囲を広げるための行為でもある。
確かに本を読んだり人の話を聞いたりすることも大事だし、俺もそうしているが、それよりも大事なのは、やはりそのものに直接触れる機会を増やすことだ。音楽、映画、写真、文章、何でもそうだと思う。本を読むのはその後でも良い。
そう言う俺がそう出来ているかと言えば、そうではないので、反省してこう書いている。音楽に関しては人よりは芯のある事が言えるとは思うが、映画に関しては、俺はまだまだ青二才だ。
話は逸れるが、それにしても、勉強をするには人生は短すぎる。第一、他の何人もの先達が、下手したら何百年とかけて培ってきたものを、80年で理解出来ると考える方がおかしな話である。それに俺はまだ若い。もちろんこれは何かの道を探究するには、という話だ。俺だってアラサーである。
1万時間の法則、千本ノック、結局は量である。その先に何があるかと言えば、自分には何も残らない。最後は死ぬ。だから次の世代が参照出来る資料を残さないと、探究の意味は無い。ただの消費者で終わっては勿体無い。SNSでもブログでもYouTubeでも本でも、何でも良いから自分はここまでやりました、という事を記録に残して公開することだ。
俺だってこうして、ネットの片隅である事ない事を書き散らしている。デジタルタトゥーを残すことで後の世代が、この時にこんな事を考えていた奴がいた、と分かってくれれば良い。
てな感じで、みんなもっと興味のあるものに触れたら、ものを書け!と言いたい。
東京都写真美術館でやっている『本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語』という展示がもうすぐ終わるので行ってきた。
どちらもちゃんと観るのは初めてだったのだが、二人とも良い写真を撮る。両者とも非常に洗練された感覚がある。月並みな感想にはなるが、勉強になった。
特に本橋成一のキャバレーの女性の写真が良くて、彼女は赤子を抱いてこちらに笑顔を向けている。これが何とも良いバイブスの写真で、生きた人間の血の通った様が感じられて、ドアノー目当てで観に行ったのだが、すっかりこちらが気に入ってしまった。
展示を観ている間にずっと考えていたのは、写真と映画の違い、裏返して言えば共通点みたいな事だった。これは最近よく考えているんだが、あまり大した答えには辿り着いていない。
写真も映画もそれらを作るというのは、対象をフレームに収める行為に他ならない。では何が違うかというと、その画面が動いているか止まっているかと言う点だ。当たり前と言えば、そうだ。
映画では画面が動く。つまり時間の経過がある。時間の経過によって何かしらの説明が為される。それに対して写真は時間を停止させる。時間の経過によって得られる説明を省くことで写真は成立する。だから何だと言う事までは、今の俺には説明できない。
写真も映画も、対象がカメラにこう写った(映った)と言う事でしかない残酷さみたいなものがある。写真に関して言えば、そこで問題となるのは、いつシャッターを切るかと言う問題である。写真はカメラをどう構えてシャッターを切るかという、ある意味写真家の身体性に依拠したものだと言える。だから何なのだろう。俺には分からない。
あるいはこうも言えるかも知れない。映画(劇映画)は現実を演じる虚構、あるいは虚構の中に現実を表そうとするものである。それに対して写真(スナップ写真)は現実そのもの(生きてる人間や風景)を切り取ることによって発生する、脱構築というか、現実の捉え直しなのではないかと思う。
現実そのものをモチーフとするからこそ、写真という表現形態は、作家の作品でありながら、ジャーナリズムと密接に関わっているとも言える。
段々何が言いたいのか分からなくなってきた。
観賞後に、例の如く図録とクリアファイル、ポストカードを買った。良いカモである。やれやれ。
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