第24週:ツァブ(命じよ)
基本情報
パラシャ期間:2023年3月26日~ 4月1日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) レビ記 6:8(ヘブライ語では6:1)~ 8:36
ハフタラ(預言書) エレミヤ書 7:21 ~ 8:3、9:22 ~ 23
新約聖書 ヘブル人への手紙8:1 ~ 6
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
ヨセフ・シュラム師と読む
パラシャット・ツァブ
今日はレビ記2番目の、ヘブル語で「命令・命ずる」という意味のパラシャ(通読箇所)だ。主がモーセを呼んで、アロンとその子らに命令せよ(ツァブ・צו)と言われた。ここから、全焼のささげ物(いけにえ)についての規定が記されている。ささげ物には、いくつかの異なった種類があり、あるものは祭壇あるものは祭壇以外で捧げられ、多岐にわたっている。そのなかで最も大切で最も一般的だったのが、この全焼のいけにえ(ヘブライ語:オレー)だった。
パラシャから見る幕屋内の規定―
そして全焼のささげ物という一つのカテゴリー内でも、異なった種類の全焼のささげ物がある。ここレビ6:9の箇所では、全焼のささげ物は一晩中、朝まで祭壇の上にあるようにし、祭壇の火はそこで燃え続けさせなければならない。これは、このいけにえに関する不変の規定である。この全焼のいけにえは、個人のためではなく民族全体のため、当時で言えば荒野を旅する宿営全体のためのものだ。神殿ができて以降は、エルサレムからイスラエルの民族全体のために捧げられたものだ。そして祭壇の火は、決して消えることがない。
そして預言者たちの神殿・幕屋に関する姿勢を見ると、興味深い。そして私たちに対して、神の御心が何で、神がどうしてこのような複雑ないけにえの命令を下されたのか、更に深く考えるための良い材料になる。レビ記は13章に渡り、幕屋でのレビ人と祭司の仕事、(後には固定の神殿で捧げられる)いけにえ・ささげ物の順序について詳細に述べている。
祭司の装束やその着替えについての規定の後、祭司は祭壇から灰を取って掃除をし、新しい火をともす。その祭壇の火は、決して消してはならない。朝になると祭司は薪木を用意し、薪の束を整えて、犠牲の動物の脂肪を捧げるの(6:11~13)。それから14節からは、別の種類のささげ物「穀物のささげ物(ヘブライ語:ミンハ)」、これは自由意志のいけにえや昼のささげ物を意味するものを、祭壇に準備する。そしてそのささげ物と一緒に、祭司たちは食事の準備をする。そして乳香(レボナ) をスパイスとして、祭壇で共に捧げる(14~16節)。
これら複雑な規定通りに、アロンとその子らはいけにえを捧げた。また彼らが祭司として油注がれる日の詳細も規定されており、これらがこのパラシャの主題になっている。私は正直、細かい人間ではない。もちろんこのパラシャのひとつひとつの内容を、深く読んでみるのも良いが、私はより大きなマクロ・全体像に着目したい。
幕屋・天幕は、人々が捧げた金と銀、なめし皮や布・木で作った一時的な住居だ。それが完成すると、祭壇のすべての器具や幕屋が聖別され、油が注がれ、イスラエルびとの多くにとっては「立ち入り禁止の場所」となった。選ばれ聖別された、祭司だけが中に入ることができたのだ。トーラー(モーセ五書)において、祭司の存在意味は幕屋とそこでのいけにえに集約されると言ってもよい。
8章にはアロン、のちの大祭司の正式な装束についての記述があり、金でできた胸当て付きで、そこには12部族を象徴する12の貴重な宝石がついていた。この12部族を象徴する12の宝石は、黙示録21章にある天から下ってくる新しいエルサレム、12の土台石と門の下敷きになっている。
さて、祭司たちはささげ物の一部を食べることができたが、これは全てのいけにえからではなく、決められたいけにえのうちから、そこで捧げられた物に制限されている。ほとんどの人々は感謝のささげ物や特定のいけにえを行い、その肉を分け合うことができた。犠牲の動物を持ってきた人は、その肉を祭司と分けて食べることができたのだ。Iサムエル記1章を見ると、エルカナとその妻ハンナとペニンナの物語のなかに犠牲を食べる記述が出てくる―
「受ける分を与える」という表現から、彼らは毎年聖なる祭りにいけにえを捧げて、その肉を食べていたことが分かる。聖書時代にはもちろん、冷蔵庫などはなかった。したがって幕屋で捧げられたいけにえの一部を食べるということは、肉を食する数少ない機会のひとつでだったのだ。人々の肉を食べられる機会というのは限られており、いけにえをすることがほぼ唯一の肉を食べる方法・手段であったことに、ほとんどの現代人は気付かないのではないかと思う。
ある夫婦に父方の両親(祖父母)そして4人の子供たちがいるとすると、8人家族になる。もし彼らが羊をいけにえのために持ってきたとすると、たとえそのー部をレビ人と祭司が食べたとしても、彼ら一家で羊一頭を日持ちのする1日で食べ終えることは、おそらくできないだろう。家族はその羊をいけにえとその祝いとして食べてつつ、残りをレビ人や貧しい人々に分け与えたのだろう。冷蔵設備がなく、屠殺した肉を保存しておく方法はなかったからだ。屠殺したその日のうちに、食べ終わらせなければならない。だから、屠殺に関わったレビ人に分け与えるのだ。
しかしヘブライ語で「ハタート」と呼ばれる、罪の(きよめの)ささげ物だけは全てを焼いて捧げ、人々は全くそれを食べることはない。いけにえを捧げる人は、それをレビ人と祭司に渡し、その後いけにえの動物には関与しない。また祭司は捧げられたいけにえを、幕屋の聖なる場所か中庭で食べることはできるが、家に持ち帰る事はできなかった。
このように祭司は、腎臓や脂肪、肝臓に他の部位をどうするのか、それらはこのパラシャの規定に従って全てを取り行う。したがって、このパラシャの描写・決まりは詳細でかなり詳しく書かれている。
安息日の特別なパン―
そして幕屋の中には、安息日に焼かれたパンが設置されていた。祭司は安息日に特別なパンを焼き、幕屋の中にある専用の特別な机の上に置いていた。そしてそのパンは毎週、安息日ごとに新しいものに取り替えなければならなかった。そしてそのパンの交換時にそのパンを食べることができるが、これも聖なる場所でだけだった。
新約聖書にも、ダビデ王とこのパンについての話が出てくる。400人の浮浪者がダビデ側について、サウロから逃れつつ戦っていた。そして彼らは空腹に陥ったので、エルサレムを臨むスコパス山の上にあるノブの町に来た。ダビデの時代、エルサレムの外のノブの町に幕屋があった。ダビデは、ノブの祭司アヒメレクに、自分たちが空腹であることを告げた。その日は安息日で、焼きたてのパンが主の机の上に並べられていた。ダビデはその主の聖なるパンを取り、彼と共にいる者たちに与えた。
イェシュア(イエス)が弟子たちとガリラヤからカペナウムに向かう途中の谷で、弟子たちは空腹になった。時は春だったので麦の穂が実っていた。緑色の麦は美味であり、彼らは麦の穂を摘んで実を押し出して食べ始めた。パリサイ人たちがそれを見て「あなたの弟子たちは、安息日に麦穂を摘んで、安息日の規則を破っている」と言った。
イェシュアは「ダビデを覚えていないのですか?」と言われた。旧約聖書の背景がないと、このイェシュアの言葉の背景がなかなか分かりにくい。イェシュアはこのサムエル記の出来事(第一21章)を言っている。ダビデがサウル王から逃げている時、ノブの神殿に来て、その日、安息日にレビ人が主のために焼いたパンを貰うことを願い出て、祭司がそれを許した出来事だ。そのように、イェシュアはパリサイ人に「もしあなたが空腹なら、主のための聖なるパンでさえあなたが食べて満足するためのものだ」と答えられた(マタイ12:1~9)。ダビデがした事は疑わしいことだったが、神はそれを非難されなかった。
預言書に見る、神が本当に望んでいるもの―
犠牲のすべての規定の、原典はこのレビ記である。今週の預言書(ハフタラ)であるエレミヤ7章は、これら律法は犠牲に重点が置かれていることを考えると、実に興味深い。
とても興味深い御言葉だ。
イスラエルの子らは、このパラシャを含むレビ記で何章にも渡って、いけにえの捧げものと儀式の重要性について長々とした指示を受け、どこで何をどのようにするべきか、腎臓・肝臓・皮膚・腸・各部位の肉をどうすべきか、ということを、非常に詳細にわたって命令されてきた。それから聖なるパン、備えのパンについても指示されていた。
そしてそれからここエレミヤ記7章を読むと、神は彼らにいけにえと全焼の捧げ物についての命令を『しなかった』と言っているのだ。これは一体どういうことか。神がイスラエルに命令された、規定の数々をパラシャのなかで読んだばかりだ。そしてこのパラシャ神がモーセに、アロンとその子らに告げて『命令せよ(ツァブ)』という単語から始まり、それが名前にもなっている。
しかしこのエレミヤの預言・言葉こそが、重要なポイントなのだ。パウロも同じことを言っている。パウロは使徒行伝で、アテネにいた。彼は市場で問題を起こしていると非難されていた。パウロはアテネのギリシャ人たちに教えていた。ストア派の人々がアゴラ・フォルムの柱廊(ストア)に出てきていた。そこでパウロは、神は人の手で作られた宮などに住まないと言い、また、神は人々から受け取る物は何ーつ必要としないと言った(使徒17章)。
これはエレミヤ7章、イザヤ1・6章に見られるように、紀元前8世紀の預言者たちが非常に強く持っていた概念だ。なぜなら、形式的に礼拝する事は容易だ。教会に行ってお金を献金することも、神殿にいけにえを携え捧げることも簡単なことだ。羊は250ドルか300ドルを払えば、買うことができただろう。そしてそれを持って行けば、その場で私の罪は浄められた。神に支払った物質的な代価によって私の罪は全て浄化され、清くなるのだ。
しかし、預言者たちはこの表面・形式的な方程式に反対しているのだ。今週の預言書であるエレミヤ7:21~24が、預言者の提示した本当の概念、実像なのだ。神が本当に欲しいのは、全焼のいけにえでもなく、焼いた肉とその香りを望んでいるのではない。神が求めているのは、私たちとの心の通った関係である。神に耳を傾けて従うことは、どんなお金よりも、上質な肉を持つ羊・牛のいけにえより、どんな美しい穀物で焼かれたパンよりも、私にとっては重要なのだ。
神はエレミヤ書7章で、「私に聞き従い、共に話し合おうではないか」と呼び掛けている。同じメッセージはイザヤによっても、1:11から語られている。そしてイザヤ書6章にも出てくる。神はいけにえよりも、憐れみを好まれる。しかし、レビ記には何章にも渡っていけにえのことが詳細に細部まで説明されている。
いけにえ・祭司の規定と私たち―
紀元70年以来エルサレムには神殿がないため、今週のパラシャをはじめいけにえについての規定は私たちの日常に直結するものではなくなった。したがって(クリスチャンはもちろんユダヤ人でさえ)あまり深く読むことはなくなったかも知れないが、私はこれらをじっくり考えながら読むことをお勧めする。そこには興味深い内容がたくさんある。そしてそのルール自体には直接関連性はないかも知れないが、その下にある原則は現在でも私たちに関連があるものだ。
そのーつは、私たちは「神のために今~(何か)をしているんだ」と実感する必要が、人側にあるという点だ。神のパートナーとして、私たちは一緒に何かをしていると感じる必要性がある。もしそれがなければ、私たちの信仰は揺らぎ、疑念や不安も生まれるだろう。なぜならあなたが投資する時間、お金、才能、賜物は、あなたの心があるところになされるからだ。
ユダヤにはこのような教えがある―
「あなたの財布があるところにあなたの心がある」
この原則はレビ記1章にある。
またこのパラシャには、もう一つ、非常に重要な原則がある。
それは、祭司が「コーヘン・マシアハ(כהן משיח)」と呼ばれることだ。メシアの祭司=油が注がれた祭司という意味だ。メシアとは、油注がれた者のこと。祭司はメシアなのだ。彼らはどのようにして、その人に油を注ぎ、「コーヘン・マシアハ」にしたのか。レビ記の中に、その答えを見出すことができる。
そして興味深いことに、それはクリスチャンの油注ぎの仕方とは非常に違ったやり方だ。クリスチャンは、オリーブオイルを取り、信者の額に十字の形を描く― 油注ぎ(メシハ・ משיחה)と聞くと、そう想像するだろう。しかしレビ記に書いてある油注ぎ、祭司・レビ人の油注ぎの仕方はそうではない。それは、祭司の右の耳に、最初にいけにえの血をそれから油を塗る。右耳、右手の親指、右足の親指に、犠牲の血を塗り、それから油を塗る。それが油注ぎだった。
それはなぜか。
神のしもべである祭司は、その「耳」で神から聞いたそのままを、自分の「手」で主のために働き、自分の「足」で主と共に歩まなければならなかったからだ。それゆえ、右耳、右手の親指、右足の親指に油注ぎを受ける。レビ記6:22に「油注がれた祭司・コーヘン・マシアハ」について書いてあるが、祭司もまた油注がれた者、メシアであり、主の仕事のために聖別されて油を注がれた。
またこの通読箇所には、もう一つ興味深い概念がある。
代償のささげ物(愆祭・罪過のためのいけにえ)、これはとても興味深いいけにえだ。実はこれは、罪のためのささげ物・いけにえのことだ。
したがってこのいけにえは、罪人が携えてくる。それは聖日や安息日のためでもなく、日々の普通の捧げ物でもない。罪人が悔い改めた時、その人は代償のささげ物を持ってくる。そこで脂肪や腎臓や、その他の部分に関わる一通りの儀式が執り行われる。
そして前に言ったように、この捧げ物は普通の捧げ物とは異なる。その人の置かれている社会的/経済的な地位によって、何を捧げるかが異なってくるのだ。したがって、もし裕福な人が貧しい人が携えるようなささげ物を持って来たら、それは忌むべきものになるのだ。それは神に対する、更なる罪になるからだ。あなたが裕福ならその罪を贖うため、高価で大きなささげ物である、牛を持って来なければならない。しかしその罪を犯した人が裕福でなければ、(中間にあたる)やぎか羊を持ってくる。もしそれ以下であれば、イェシュアの両親であるヨセフとマリヤがしたように、二羽の家鳩を持ってくるのだ。
ここから、ルカ2章で彼らが神殿に二羽の家鳩を持ってきた事は、彼らがあまり裕福ではなく、中流よりも下の層だったことを表す。
同じ罪であっても、その罪の贖いのためのささげ物が別々に規定されているのは興味深い。
Xという罪を犯した時、裕福・社会的な階級が上の人であれば牛を捧げる。
しかし同じXの罪を犯しても、ピラミッドの上の階級でなければ、やぎか羊で良い。
中流層よりも下ならば、Xの罪を犯した者は二羽の鳥を捧げる。
しかしそのいけにえから得られる結果=贖いは全く同じ、力ある罪の赦しであることは上の3つすべてに共通している。どのいけにえも同様に、主の書から罪の記録が消去される。神はあなたが誰であるか、あなたの社会・経済的背景や状況を考慮に入れているのだ。
そしてこの原則は新約聖書、イェシュアの言葉にも見られる。
自分の持つ全てを捧げたやもめの2レプタは、誰よりも大きな捧げ物だったのだ。神はその捧げ物を受け入れ、あり余る中から捧げたパリサイ人よりもやもめに敬意を表し、目を留められた。
クリスチャン・ユダヤ人ともに、これらパラシャの根源にある原則を学ぶ必要がある。私たちが今祈っている群れの場所が、私たちが現在与えられている神殿だ。私たちが互いのため、自分・家族のために祈る時、神が助けて下さるように。そして犠牲を捧げる事を私たちが学び、命を主に捧げて祈り、嘆願・とりなし・貧しい人への助け・主の働きのため、主が私たちを助けて下さるように。
これらもまた、レビ記から学ぶことができる原則なのだ。