第46週:レエ(見よ)
基本情報
パラシャ期間:2024年8月25日~ 8月31日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 申命記 11:26 ~ 16:17
ハフタラ(預言書) イザヤ 54:11 ~ 55:5
新約聖書 使徒の働き 13:13 ~ 52
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
狭き道を歩く価値
ユダ・バハナ
今週のパラシャット「レエ」でも、約束の地に入る前のモーセの演説が続いている。
最初の節「私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く(11:26)」では、善と悪の選択をすることが強調されている。その後、モーセは幅広いトピックの戒めのリストを続けている―偶像礼拝や異教に偽預言者、清い食べ物や清くない動物について。また歴史的にユダヤ人のトレードマークともなった、「豚肉を食べないこと」に関する明確な禁止もこのパラシャに含まれる。
肉・乳製品を混ぜない習慣
きよくない動物のリストに加えて、次のような興味深い戒めもある。
この戒めに関しては、出エジプト記にすでに規定されている。
ユダヤの世界では、この戒めは豚肉の禁止に次いで最もなじみのある食べ物に関する戒めだ。
この御言葉からユダヤ人の伝統を守った台所では、肉製品と乳製品を同じ料理に混ぜることはなく、コシャー(食物規定)認定のレストランにも肉と乳製品の2種類がある。
私個人としてはこの戒め、牛乳と肉とを混ぜることは禁止事項とは思わない。その理由は戒めのこの聖句が明確にこれを禁止していないからだ。また聖書には、牛乳と肉が一緒に出された食事の例が出てくる。たとえば、アブラハムは訪れた御使いのために、牛乳と肉の両方を含む食事を用意している。
確かにこの聖句は、律法が与えられる前のエピソードだ。しかしこの食事を出されたみ使いたちはこの『ノンコシャー』の献立に、何も言わなかった。そしてこの聖句は聖書となって、コシャーが成立した後の私たちの時代のためにも残されている。
もし何か不適切なことがあったなら、このような食事の詳細に関しては触れられずに省略することもできただろう。しかし神はそうはされずに、信仰の祖が現行の食物規定・コシャーを守っていなかったという事実を書き残された。
しかももてなしの重要さを示す、肯定的な形でだ。
後代でもアブサロムの反乱で、牛乳と肉が一緒に出されて食べたことが記されている。またダビデとその部下たちが空腹で逃走していた時には、肉とチーズを添えて提供された。
では、「子ヤギをその母親の乳で煮てはならない」という戒律は何のためにあるのだろうか?
私は動物への虐待の禁止だと考える。動物への残虐行為や、特定の形態の屠殺や調理を禁止して防止するように、動物の子供(子ヤギ)をその母親の乳、つまりその命を維持し栄養を提供するためのものだった母の乳でその子の肉を調理するというのは、考えてみるとあまりにも残虐な行為だ。赤ちゃんはそのような残虐な形で調理されてはならない― この戒律にはそんな、動物の観点から見た残虐行為への禁止があったのではないだろうか。
このように肉と乳製品を混ぜることの禁止はラビの決定であり、神から与えられた聖書の命令ではない。それにもかかわらずこの食事規則はユダヤ文化の基礎となり、ユダヤ的な生き方の重要な一つとなった。
それぞれの民族は自己決定し、文化を形成する権利がある。それぞれの民族は独自のアイデンティティを持ち、独自の伝統に役立つものを取捨選択し、維持・確立することができる。
乳製品と肉を混ぜることを避けるのは古代からの習慣で、ユダヤ人の住むあらゆる場所で受け入れられ、実践されてきた。あらゆる地から来たユダヤ人がこの習慣を受け入れ、伝統的なユダヤ人はこれを守っている。肉料理の食事の後に乳製品を食べるまで6時間待つ人もいれば、4時間待つ人もいる。またはオランダ系ユダヤ人のように、肉料理の後に乳製品を食べるまでに1時間しか待たない人もいるが、どこのユダヤ人共同体でも守られ牛乳と肉を食べるのに間をあけ待ってきた歴史がある。
直接聖書に由来していなくても、ユダヤ民族への帰属意識のためや、アイデンティティを維持するためであったとしても、私たちは父祖たちが作った伝統を尊重する必要がある。それは私たちや家族のアイデンティティを世代から世代へと維持するための、ひとつの方法にすぎない。しかしその方法が多ければ、アイデンティティは維持され継承する可能性が高まるのだ。
他者に手を伸ばしてこその『喜び』
この朗読箇所は続いて、礼拝の(1箇所への)集権化、借金の帳消し、十分の一献金、三大巡礼祭などの戒めについて語っている。また祝日・例祭のなかには、シャブオット(ペンテコステ)と仮庵の祭りの期間に喜ぶという戒めも含まれている。
そして今週のパラシャも、特に恵まれない人々・社会的弱者に対する相互間の配慮に重点が置かれている。それによって私たちは、祭りの戒律に規定されているように、喜びを体現できるのだ。そしてその喜びは自分たちだけの喜びを超えてさらに広がり、特に私たちが住んでいる社会の貧しい人々に真の心配りをすることが求められ、それが私たちの喜びをさらに強める。
私たちの周りにいる見知らぬ人や弱者に心を開いて手を差し伸べなければ、これら聖書にある主の例祭を真に祝い、成就することはできないのだ。
神の道を歩むとは
少しだけ最初に戻ろう。
モーセは私たちに二つの選択肢を提示している。その1つは祝福と祝福された人生に、他方は呪いに私たちを導く。どちらの道を選ぶかは私たちにたくされているが、神は私たちに正しい道を歩むことを求めている。
現時点ではその良いとされる道が魅力的でなく、しかも困難に思えるかも知れないが、終わりには価値がある。次のミドラシュ(ラビ的な聖書解釈) はこの考えを、つぎのように描写している。
このラビの譬えは、関連する事柄をいくつか取り扱っている。
1つ目は神の道を歩むということだ。最初は難しいように思えるかもしれないが、選択するべき賢明な道である。そして2つ目はこれだ―
私の意見では、これは新約聖書の2つのたとえ話が基礎となっている。
そして2つ目は、ラザロと金持ちのたとえ話だ。
最初の話は広い門とは対照的な、狭い橋または狭い門の譬えだ。
人の視点から先を見ると信仰生活は困難や制限であふれている傾向がある。そして人は、それを自由がなくまるで「縛られている」と見なすかも知れない。
しかしその信仰の道を歩み始めると、その道が楽しく良いものに満ちており、充実したものであることが分かる。そして自信と希望に満ち、確かな未来に繋がっている。
しかし、その境界はどうなっているだろうか?
親としての私たちは、子どものために精神的・感情的そして身体的な発達のためを思い、大切な境界線や制限を設定する。しかし大人である自分自身に対しては、それらを設定する必要がないと考えがちなのはなぜだろうか。私たちにはみな、境界線・ボーダーが必要だ。聖書は成功と祝福の約束とともに、正しい境界線を私たちに示している。
広くて平坦な道は一見、楽そうに見える。しかし、それはすぐにとげや痛み、絶望と憂鬱、そして成功の欠如につながる。なぜならこの道を歩む人々は、家族や社会の利益となる道徳や神の言葉の境界線を守らないからだ。
それと反対に聖書に基づいた信仰の道は、最初は狭くて困難でいばらに満ちているように思えるかもしれない。しかし最初のハードルを越えると、深く安定した基盤を持つ豊かな世界を発見することになる。そこは私たちに安心を与え、未来への希望を与えてくれる世界だ。実際、良心が澄んでいると歩きやすいことがわかる。
ラビのたとえ話は次のように終わっている。
貧しいラザロの話のベースとなったパラシャ
ここで私たちはイェシュアの貧しいラザロのたとえ話を連想する。ルカ16 章で、イェシュアは、この世の人生を楽しんでいる金持ちと、この世で苦しんでいる貧しい人のたとえ話をしている。ラザロという名の貧しい男が、金持ちの家の入り口に座っている。彼は金持ちの食卓の残り物を食べる。これはラザロが金持ちから慈善を受けていることを意味している。
この物語の教訓は、悪い人も善行を行なうので、完全に悪い人はいないということだ。そのためこの世では金持ちが報われ、善行の対価を受け取ることになる。彼の善行は少ないとはいえ、それでも報われるべきなのだ。
一方、ラザロのような人もいる。彼は義人や善良な人としては描かれていない。しかし、イェシュアはヘブライ語で彼をエルアザルと呼んでいる。これは「神が助けた」という意味で、神の臨在とラザロへの助けを示している。
前述したように、完全に悪い人はいないのだ。
そしてそれと同様に、完全に善良な人もいない。ゆえにラザロはこの世で自分の罪を償う。年月が経ち、二人は世を去る。金持ちは永遠の恥辱にさらされ、貧しいラザロは父祖アブラハムのそばで永遠の安らぎを得る。このたとえ話は、金持ちの男が自分の五人の兄弟に、同じ恐ろしい場所に陥らないように警告したいというところで終わる。
しかし彼には次のような答えが、待っていた。
彼らには神の言葉がある、というのが答えだった。
神の言葉は私たちをメシアに導き、信じる信仰に導く。人々は彼が来るずっと前からすでにメシアを期待し、その人物を待っていた。したがって彼らは、イェシュアに対してこう尋ねている。
おいでになるはずのメシアはあなたですか。あなたは約束の方ですか?
聖書は私たちに、贖い主であるメシアを指し示している。
祝福された良い人生を送るには、私たちはメシア・イェシュア(イエス・キリスト)が私たちに照らし出す、信仰の道を歩まなければならない。その道こそ、創世記から黙示録の終わりまでにわたって、私たちに与えられた神の言葉によってできた、私たちが歩くべき道だ。
イェシュアのたとえ話に出てくる金持ちが、貧しいラザロに施しをしていることを指摘した。これは今週のパラシャの次の聖句が、背景となっている。
さらに、貧しい人、恵まれない人、よそ者、困っている人が常に私たちの中にいると書かれている。だからこそ私たちは心と手を開き、周囲に慈悲と愛を示さなければならない。ここでも、手と心を開く者には成功と祝福が約束されている。
前述したように、周りに助けの手と喜びを広げることができなければ、私たちは神の例祭をきちんと祝うことはできない。実際にトーラーは、私たちの利己心や貪欲に対してある種の宣戦布告・挑戦をしているのだ。神の教え(トーラー)は社会だけでなく、私たちの個人的な生活や時には財政面にも介入してくるのだ。
神はステップを踏んで私たちを導く
また今週のパラシャは、古代イスラエルの『什一献金』について言及している。
最初のステップは、10%を神の家に捧げることだ。その収穫やそれを売ってできた金では、私たちの家族を養うのだ(14:26)。主の前で家族が楽しみ喜ぶために食べるため、この什一に関しては結果としては家庭の内で使われることになるのだが、それでも私たちはそれを取り分けておくように命じられているのだ。私たちはそれを自分自身のためではなく、家族のために取っておく。
この十分の一は、捧げることの最初のステップだ。
この『什一献金』は家族のために使い、家族で宴を開いて肉・ワインなどをみなで一緒に食べたり飲んだりし、共に喜ぶ。これはトーラーが人々に心を開くための教育としての、最初の一歩だ。
そしてその次のステップは、これになる―
ここでは戒めが与えられるだけでなく、それと同時に私たちに対する次のような約束が付け加えられている。
什一献金の最初のステップは家族のためで、第二段階はこの他の困っている人たちに捧げるものになっている。このようにして律法は自己中心的でなく自身の財産が最優先ではない、互いへの献身性を持った社会を構築するように私たちを励ましているのだ。
イェシュアはこの考えを頻繁に語っている。
私たちの宝がある場所に私たちの心もある、と教えている。私たちの宝物がお金や所有物であるなら、私たちの考え・心も経済的な問題に向けられていくだろう。しかしイェシュアは私たちに対し、善き行いや慈善による行為(行い)、神に全てを委ね奉仕することを通して、永遠のいのちという正しい目的のために、宝を蓄えるよう求めているのだ。
そうすれば私たちの心は、天の父とそのみ言葉を自然と待ち望むことになるだろう。
イェシュアは続けて、同時に二つの相反する方向に人は専念することはできないとしている。これは私たちの生活にも言えることだ―
AかBか、どちらかを選ぶ必要がある瞬間が必ず私たちには訪れるのだ。
ここでイェシュアは財産やお金を所有すること『自体』には、反対していない。
しかし先週のパラシャ『エケブ』の流れを引き継ぎ、イェシュアは私たちに心を開き自分自身のエゴの上を行くように、と求めている。
神のトーラーは、私たちに無理難題を課すような事はせず、一歩一歩私たちが無理なく達成できるように、私たちを導かれる。
まず第一に私たちは十分の一を自分の家族のために使い、楽しい雰囲気を作って家族の宴を一緒にするよう命じている。これが第1の什一だ。
そして三年に1度は、この什一を貧しい人々に捧げ、そこから七年目まで続けるよう命じられている。このようにして、神の言葉は一歩一歩、人々の心に自然とトーラーを馴染ませていくのだ。
その結果私たちは、社会的責任を果たすことに自然と慣れるのだ。
一見するとこれら什一を捧げるという行為(什一献金)は、自分の所有物を制限するものにしか見えない。いわゆる、狭く厳しい道だ。しかしこの狭い道を歩き始めると、私たちは自然と社会的責任を見出し、霊的な静けさと平安、そして人の持つエゴと戦うための有効な手だてをそこに見出すようになる。
そしてその道を進めば、実際にはこの什一を捧げるということが決して収入を損なうものではない、ということに気づくようになっていくのだ。
日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!
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