第38週:コラフ(コラ)
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去年の同じパラシャの記事は、こちら。
基本情報
パラシャ期間:2024年6月30日~ 7月6日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 民数記 16:1 ~ 18:32
ハフタラ(預言書) Ⅰサムエル 11:14 ~ 12:22
新約聖書 Ⅰテモテ 2:14 ~ 3:9
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
私たちは出自・アイデンティティーにより聖い者となるのか?
ユダ・バハナ
ここ3週のパラシャ(ユダヤ的通読箇所)は、権威に対する反逆を描いている。モーセを批判した兄姉のアロンとミリアム、そしてスパイたちと民によるモーセ(神)への反対、そして今週は、コラとその仲間たちが起こした反乱を学ぶ。
コラの仲間は250人いたと書かれている。しかし実際にはその反対勢力はさらに大きく、イスラエルの大部分が含まれていたと考えられる。
一見正しいように見えるコラの理論
たとえコラに同意できなかったとしても、彼の反逆には彼なりのロジック・論理がある。これについて少し考えてみよう。
人々は困難な状況に陥っていた。彼らは約束の地に真っ直ぐ進んで行くことができず、先週のパラシャでは無理矢理入ろうとした人々が失敗し途中で死んでいる。(民数記14:44)
この時イスラエルの多くの民は、緩やかだか確実な死が荒野で待っていると感じたのだろう。実際に荒野世代の最後の人が死んだ後に、約束の地に入っている。そして人々は絶望すると後先を考えずにカオス状態となり、イスラエル民族は新たな反乱を起こし民全体を揺るがすこととなった。
しかしコラは「反乱、革命だ!」と叫んだ訳ではなかった。
彼が意図したのは、「不正の者は、去るべき」ということだった。コラの主張を要約すると、モーセ・アロンが自らを権力を用いて指導者の地位に、不平等な形で任命したと言うことだった。また二人が、その地位から利益を得ており、神の民である民衆を見下していると主張した。そして神の民に関して、コラはすべての人が聖であり、すべての人が平等だと主張する。
これはパウロがガラテヤ人への手紙に書いた、有名な聖句を連想させる。
この聖句は、神の目にはすべての人が平等であり、すべての人が神の似姿に創造されたことを意味する。しかしこの聖句が男女や雇用主・従業員といった物理的・実際にある違いを廃するものではない、ということは明らかだ。
この聖句の意味するところは、異なる私たちがみな神の御前に平等に立っている、というものだ。金持ちであろうと貧乏であろうと、神にとっては関係ない。すべての魂は神の御前に、社会的地位や経済力・容姿などといった『アクセサリー』を付けずに、そのままの形で立つことになる。
私たちはメシアの犠牲によって清められ、神の御前に立つ。イスラエルも諸国も贖いなしに残されたわけではなかった。イェシュア(イエス)は私たち全員のため、負債の全額を支払ってくださった。ガラテヤ人への手紙の聖句は、私たちはイェシュアにあって平等であるという事実を指摘している。
しかしコラは、賢い敵だった。
ある見方によっては半分、またはかなり説得力のある真実とも思われる主張を使い、攻撃してきた。
私たちはみな聖く、神は私たちの間におられ、私たちの中に住まれている。神の目には男も女もなく、主人も奴隷もない。
それなのに、モーセよ、なぜあなたが私たちのリーダーなのだ?
あなたは失敗した。さあ、家に帰れ(辞任だ)! ーと。
コラの中にあった、聖い者だという傲慢さ
このコラの「私たちはみな聖い」という主張は、先週のパラシャ『シュラフ』の最後の聖句を汲んだものとなっている。
すべての人は聖なる者であり、聖なる民として私たちの神の前における地位は平等であり安全、というのがコラの主張にはある。私たちは神の御前で信仰に至るという目標をすでに達成し、やりたいことは自由にでき、すべては許される、責任や些細な戒めから自由だ。彼の言葉の裏には、そんな「私はイスラエルびとなので、地位と聖さは完全に保証されている」という傲慢・プライド・過信が見え隠れする。
洗礼者ヨハネはこの考えに反対し、ヨルダン川でこう警告している。
ヨハネは、①イスラエルの民、② アブラハムのすえというのは彼らのアイデンティティではないし、事実でもないと警鐘を鳴らしている。
ヨハネが使っている木の譬えは、良い実を結ばなければ木(=人)としての意味がない、と暗示する。そこでヨハネは、斧が木の根元に置かれていると警告しているのだ。バプテスマのヨハネの論理は、良い行いをしないまま人・自身を聖だとする主張は、神と聖書に反逆していると言っているのだ。
もう1つ気になるアプローチが、「わたしの戒めをすべて守りなさい(民数記 15:40)」というものだ。この聖句の続きに「聖なる者となる」という表現があるため、聖なるものとなるというのは戒めを守ることによる直接的結果である、と解釈できる。そしてこの考えは、先週のパラシャの最後に出てきており、今週のコラの物語に繋がっている。
アイデンティティーや出自だけで『私たちは全て聖い・神聖な存在』としたコラの歪み、間違ったロジックは、先週のパラシャを踏襲しているようで、実はまったくその逆でもある。15章の最後にあるように聖いと神に認められたければ、「神の戒めをすべて守る(15:40)」を読み実践する必要があるのだ。
このコラのアプローチは、戒めを守るという『行い』の重要性をかなり低下させている危険なものだ。また同時に、(一見重要でないように見えるかも知れないが)神の戒め・教えの価値すらも著しく下げている。同様のアプローチはミドラッシュ(ユダヤ的聖書解釈)でも語られており、興味深い。戒めの重要性は失われ、完全に否定的なものとして描かれるのだ。
扇動=人を突き動かす劇薬
上記は実際の出来事でないことは明らかだ。しかし世論を動かすため、政治家が互いに攻撃し合い民を扇動し合うという様子を忠実に描いていると思う。悲しいことにどの世代も、政治家による安っぽい感情操作を目の当たりにしている。
悲しいのは、これが強い効果を持っているということだ。
反対派は250人のコラら指導者や、主要人物だけではなかったことがわかる。他にも多くが程度の差こそあれ、参加した。おそらく最初は、コラとほんの数人の仲間から始まったと思われる。 その後、彼らは扇動するような情報をある事ない事広めて、反乱に成功した。そしてモーセに対する反対の声は、ますます強くなっていった。
悲劇的なことにコラとその仲間により、多くのイスラエル人が自分たちが聖く正しいと信じた。 そしてコラとその仲間は、香炉のテストに同意した。どちらが正しいかを見るこの試みでも、彼らには自信があったことが窺える。このテストが生死に関わるものだと、本当に彼らが認識していたかどうかは分からない。全員が前に出て、聖所の入り口でモーセとアロンの隣に立った。彼らは香炉を持ち、神の前に立った。コラと仲間たちは自分たちが正義で、神も味方すると信じていたようだ。
そしてコラに加えてこの反乱には、ルべン部族の二人の兄弟ダタンとアビラムがいる。彼らは何者で、なぜコラとモーセの対立に関与したのだろうか?モーセは彼らを理解しようと努め、理解が得られることを期待して彼らを招き入れた。しかし、ダタンとアビラムの反応は芳しいものではなかった。
この言葉にモーセはとても怒り、傷ついた。
ミドラシュの物語は、コラの指導者たちが用いたであろう扇動の手法を連想させる。イスラエル民族の指導層は一方的に、民を抑圧しているという描写だ。
しかしコラの主張とは異なり、モーセとアロンは自らの益や支配欲から行動した訳ではない。それどころかモーセ・アロン共に、民のために高い個人的代償を支払っている。
民に理解されないという、指導者の性
この個人の大きな犠牲の話題を続ける前に、聖所で奉仕中に死んだアロンの二人の息子、ナダフとアビフの死を思い出してみよう。
そしてモーセは今、怒りと苦しみの中で神に立ち返る。
イスラエルの民のために真に人生を捧げたモーセは、どうしてこれほどまでに大きく現実が歪められるのか、理解できなかった。
今週のハフタラ(預言書)はIサムエル記11章の後半から12章で、預言者もモーセと同じような言葉を語っている。サムエルは、自分の手はきれいだと宣言し、民を抑圧しとことはなくろばや牛も取らなかった。サムエルの言葉がほぼ正確な形でモーセの言葉から取られたものであることには、留意すべきだ。
聖書時代から、指導者は内外の難問に直面するものなのだ。
民は指導者や責任者になるのは楽しく、益になることが多い、そんな風に指導者を見る。そして責任や重圧という部分を、忘れてしまうのだ。しかし指導者には必ず、重い責任が伴う。その重責から睡眠時間もままならず、心理的にゆっくりと休めないこともあるだろう。指導者や指揮官は通常、人よりも長時間働き家に仕事を持ち帰ることもあるだろう。
しかしどれだけ苦労しても、部下たちの不満が消える訳でもない。
ここでメシア・イェシュア(イエス・キリスト)を思い出そう。
イェシュアが故郷ナザレに戻った時は、習慣的にシナゴーグに行ったとある。そしてイェシュアは、そこで教えていた。イェシュアを信じる同胞のメシアニック・ジューとして、また一キリスト者として、私は思う。「メシア・イェシュアの説教にそのシナゴグに居合わせることができ、彼のメッセージを実際に聞くことができれば…」と。
しかし町の人々はどう思っただろうか?人々は崖から突き落として、彼を死なせようとした。 そこでイェシュアは言った。
メシアは世界を救い善を行なうためだけに来られ、自身の命を犠牲にした。その方に人々は濡れ衣を着せ、彼がエルサレムに上るのを妨げるほど傷つけようとした。
アロンのリーダーとしての素質=自己犠牲
さて、リーダーシップの話に戻ろう。
人々は人の上に立つリーダーという立場について当然のことと考え、そこで得られる益だけを目にし、妬むこともある。
民数記16:20~22に目をやろう。モーセ・アロンへの恩を仇で返すような反逆を目にした神は、モーセとアロンに対しイスラエルを滅ぼすために、離れるようにと言っている。彼らも共に滅ぼされてしまうことがないためにだ。するとモーセとアロンは、どうしたのか。
彼らは、イスラエルのためにとりなし、ひれ伏して祈ったのだ。
この聖句から、モーセとアロンのリーダーシップは一言で言えば『自己犠牲』であることが分かる。多くの場合で見落とされているトーラー(モーセ五書)の箇所から、一節読みたい。ここに隠された犠牲のレベルを、私たちは真に理解することはできないだろう。
私たちはこの聖句をよく注意せずに、まるで補足のようにして読んで先に進んでしまう。しかし、ナダブ・アビフという二人の息子を天からの罰によって失っている祭司アロンは、再び天からの罰=神の怒りの中、火皿を取って迷わずに走り、贖いをしている。恐らくアロンには自身の息子2人を失ったデジャヴもあり、自身の命も奪われるかも知れないという不安もあっただろう。アロンは、ここで大きな危険を犯した。
だがリーダーとして、火や恐怖や疫病・死の御使から逃げることはできない。神の罰で2人の息子を亡くしたそのアロンが、災害の中心、神の罰の中心に向かって突進する。アロンは死者と生者の間に立って、疫病を自らの手で止めた。心を見られる神は、アロンが神の罰を止めるにふさわしい行為をしたと、判断したのだ。
ここにモーセと、彼に隠れたアロンのリーダーシップを見ることが出来る。彼らは人々を抑圧するためにいるではなく、かえって人々を優先し多くの犠牲を払った。民を愛し、たとえ罪を犯した民のために自らを危険にさらした。
史上最大の自己犠牲をしたイェシュア(イエス)
「水がめのジレンマ」と呼ばれるタルムードの物語で締めくくりたい。
この ベン・プトラとラビ・アキバの異なる解釈を含め、この物語について多くの解釈や意見がユダヤ教内では論じられている。
しかし三つ目の解釈もあり、ここでは論じられていない。
もしかすると、水がめを持った人は友人に水を全てあげ、自身の死を選ぶかもしれない。この3番目の自己犠牲という解釈・考えを、パウロは次のように教えている。
アロンの究極的な自己犠牲と同様、パウロはイスラエルの民/ユダヤ人に対しては『キリストから引き離され、呪われても良い』という、究極的自己犠牲を持っていたのだ。そしてこれは、私たちのメシアであり救い主であるイェシュアも同様だ。
私たちのために犠牲となり十字架に掛かったメシア・イェシュアこそ、私たちにとっての究極の犠牲であり、人類史上最大の自己犠牲なのだ―
日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!