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第50週:ニツァビーム(立って)+ バイェレフ(行って)

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基本情報

パラシャ期間:2024年9月22日~ 9月28日 

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 申命記 29:10 ~ 30:20 + 31:1 ~ 31:30
ハフタラ(預言書) イザヤ 61:10 ~ 63:9 
新約聖書 ルカ 4:16 ~ 30
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

ヨセフ・シュラム師と読む今週のパラシャ 

ネティブヤ創設者 ヨセフ・シュラム師
(エルサレム イスラエル)

『異邦人の参画』のルーツはトーラー

パラシャ(ユダヤ的聖書通読)のサイクルも、終わりに近づいて来ている。

きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわち、あなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたち、イスラエルのすべての人々、あなたがたの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで。

申命記 29:10~11

トーラーのこの部分は、興味深い始まりだ。
また翻訳で見落とされている啓示が、幾つかある。まず第一に、「あなたがたはみな立っている」という言葉は、立つ行為を指した通常のヘブライ語の言葉遣いではない。これは特別な単語であり、モーセ五書・トーラーには数回しか登場していないものだ。そしてそのほとんどが、創世記で使われているのだ。
 
例えばこの単語は、創世記19章に使用されている。主の御使いたちを通して神がソドムを滅ぼすと警告したため、ロトとその妻そして二人の娘と共にソドムから逃げ出したところだ。彼らは走り、御使いたちはロトとその家族に「振り返ってはいけない」と言った。しかし彼の妻(名前は分からないが)は彼女は振り返ったため、塩の柱になった。
その柱という言葉はヘブライ語で「ニツァブ」で、このパラシャの「立つ」と同じ語根だ。これは普通に立つ、という動作を現すものではない。それは言うなれば、カンフーやテコンドーのように立つことを意味する。しっかりと立って静止し、跳ねたり跳んだり動いたりしない。ロトの妻がその場所に塩の柱として固まり静止したように、ロトの妻の塩の柱のように神の前に固定され、そこから動かないよう心の準備をしなさい、という意味が込められている。

死海沿岸にあり、ロトの妻と言われる塩・岩の柱

そこで神は聖霊を通し、モーセとイスラエルの指導者たちに、「今日、あなたがたは主、あなたがたの指導者・部族・長老たち・役人・子供・妻・在留異国人など、イスラエルのすべての人々の前に立つ」と言われている。この言葉は聖書の全てがそうであるように、ユダヤ人・イスラエル人だけに限定されたものではないのだ。
それはイスラエルだけでなく、イスラエルの宿営に加わった全ての人のための言葉だ。出エジプト時にイスラエルに加わったすべての外国人=混ざり合った群衆、偶像崇拝を捨て去り、アブラハム・イサク・ヤコブの神を受け入れ、イスラエルの民と結ばれた、あらゆる国、部族、言語、文化の人々すべてに向けられたものだ。
 
愛する兄弟姉妹、これは新約聖書にも当てはまる。
パウロはエペソ人への手紙 2: 11で、異邦人に語りかけ「あなたがたには神も希望もなかった」と言っており、これは永遠の命への希望を意味している。そして12節の「約束の契約については他国人」のなかの『契約』は、複数形になっており全ての契約を意味している。これは、血統的にはイスラエルの外であっても今はイエス・キリストの血を通し、もともと持っていなかったこれらすべての計画をあなたがたも今持っている、という意味なのだ。言い換えれば、異邦人のあなたがたさえも、神の民、イスラエルの民とともに契約を交わしているというものだ。
 
このようにイスラエルの子らがヨルダン川を渡る前、ここに、見知らぬ人、外国人、異邦人がいるのがわかる。パウロと同じ構図、イスラエルに加わった異邦人たちだ。そして彼らもそこに(像のように堅く)立って、モーセの言葉を聞いている。モーセの言葉を聞くだけではなく、12節ではこう言われている。

あなたが、あなたの神、主の契約と、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるのろいの誓いとに、はいるためである。

申命記 29:12

言い換えると、イスラエルの陣営にいた外国人・異邦人はそこに立ち、アブラハム・イサク・ヤコブの神である主と、イスラエルびとと共に契約関係を結んでいるのだ。彼らはどのように、その契約を履行するべきなのか?
エペソ2章にあるように、イエス・キリストの血を通してだ。
 
外国人だったが契約のなかに入ったあなたがたは、もはや見知らぬ人ではない。「あなたは見知らぬ人だった」とエペソ2章でパウロは言っているが、これは過去形だ。今や神によって知られた人々になっているという事実を、際立たせている。今やあなたがた異邦人ビリーバーも、神の民でありエルサレムという町の市民なのだ。これは物理的なエルサレムではなく、エルサレムは現在世界中のビリーバーが住むための場所はない。
しかし天のエルサレムには、私たちを全て住まわせるに十分な敷地がある。余裕であるだろう。
 
13節に読み進めると、さらに面白くなる。

さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。

申命記 29:13

イスラエルに加わった異邦人の民を含める形で、神の契約・誓いを新たに立てて確約したのはなぜだろうか。それは主が今日、あなたがたをご自分の民として確立してくださっているためだ。その中には、イスラエルの他の国々とともにそこに立っている異邦人も全て含まれている。それは主が今日あなたがたをご自身の民として確立し、あなたがたに語られたように、またあなたがたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓ったように、あなたがたにとっても同様に神であることを、はっきりさせるためだ。

きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。

申命記 29:15

この一節を読むと、みわざの大きさに体が震える!
なぜならこのみことばはイェシュアが天に昇る前、そしてパウロがシリアのアンテオケの教会の長老たちから任務を受ける前に、すべての国々に送られる福音の肯定・承認だからだ。親愛なる兄弟姉妹、これは非常に重要だ。とてもとても重要だ。
29:14から、このみことばを繰り返してみよう。

しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いと結ぶのではない。
きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。

申命記 29:14~15

イェシュア・メシア(イエス・キリスト)の血・メシアの契約とからだを通して、イスラエルと繋がった異邦人は、以前は神からは『見知らぬ人々』であったが、いまはもはや違う。エペソ2章によると、見知らぬ人であった人々は、ヨルダン川のほとりでイスラエル人とともにそこには立っていなかったが、将来的にこれに加わって、主の前に堅く立って(ニツァビーム)、神の契約と誓いを受け取る人々となった。

偶像崇拝から離れる

アシュタロテやアシェラと思われる女性像が、
イスラエル王国時代後期の層から多数出土している。
(theTorah.com より)

そして偶像崇拝は狡猾なものなので、この偶像崇拝に対する警告がすぐ後に来ている(17節~)。それは、卑劣な行為なのだ。私たちの生活の中で油注がれていない部分、まだ主なる神と私たちの主メシヤ・イェシュアに捧げられていない部分にそれは忍び寄り、私たちの信仰にも忍び寄り、浸食を試みる。
 
私たちの生活で、もみ殻である部分は何でも風に吹かれると飛ぶ。しかし私たちがそれをしっかりと握ってしまっているならば、それは偶像崇拝的な思考の源となり、それを実践してしまうことに繋がり、神が創世記から黙示録で与えたものとは全く異なる、偶像崇拝的な道徳観に染められていく。
偶像崇拝の実践とは、どういう意味なのだろうか?
 
偶像崇拝の実践とは、魔術に関連する。魔術はもちろん申命記で禁じられている。あらゆる形態の魔術、降霊術、死者とのコミュニケーション、霊媒、お守り、偶像崇拝と迷信に属するさまざまな象徴、これらすべては偶像崇拝だ。
だから、神はイスラエルの子らと、彼らに加わってきたすべての人々に警告している。「エジプトで見たすべてのもの、すべての栄光ある彫像、ピラミッド、墓、スフィンクス、太陽崇拝、自然崇拝から遠ざかりなさい。これらのことから遠ざかりなさい。これらはエジプトで見たものだ。あなたはそこにいてはならない」
 
これらは17節で忌まわしいことと呼ばれている。

また、あなたがたは、彼らのところにある忌むべきもの、エジプトの偶像、木や石や銀や金の偶像を見た。それらのものから離れなさい。偶像に近いものすべてから。

申命記 29:17

離れろ・逃げろ、というその理由を考えよう。なぜならそれらの一部分は無害で、有害ではないと思うかもしれないからだ。例えばヨガは運動に過ぎないが、運動だけではないそれ以上のものかもしれない。神を信頼することを忘れ、あなた自身の体や能力・敏捷性などを信頼するよう自身を鼓舞するための、一種の運動になってしまうかもしれない。
 
私も若い頃は、多くのことを経験した。私は両目で見れなかったので卓球やテニス、サッカー・バスケットボールなどの球技はできなかった。片目だけで物を見ていたので、ボールを目で捉えることが困難だったからだ。しかし体操やダイビング、様々なスポーツに関わるようになった。多くのことをして、私はそれらを楽しんだ。
 
しかし偶像崇拝にルーツを持ち、密接な関係があるが、現在は『スポーツ』となっているものもある。アジアの武道などが、そうだ。武術を学ぶのであれば、イスラエルの護身術的側面の強いクラヴ・マガというものがある。それは偶像崇拝とは何の関係もなく、純粋にただ身体的に自分自身を守るためのテクニックだ。
日本の皆さまにとって柔道などは、体育の授業で行われるなど信仰とは切り離された文化や(信仰とは違う)メンタリティーの一部になっている。しかしイスラエル人や外国人には、柔道を通して日本的なメンタリティーを学ぶというのを越え、仏教や神道・儒教に惹かれて自身が生まれ育った聖書の信仰から離れていくケースも散見される。
コリント人へのパウロの(偶像に捧げた肉に関する)言葉にあるように、多神教のルーツを持ち現在はスポーツとなっている者に対しては、それぞれに任されている。しっかりと自身の中でボーダーラインがある人であれば、何も問題ない。
しかし申命記では偶像崇拝は何であっても離れよと、イスラエルびととそれに加わった異邦人たちに命じている。

パウロが頻繁に引用―申命記30章

今週のパラシャで興味深いもう一つのポイントは、30章だ。

これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか」と言わなくてもよい。
また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか」と言わなくてもよい。
まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。

申命記 30:10~14

愛する兄弟姉妹の皆さま、この聖句は新約聖書で引用されている。
そして引用されている文脈を見ることは、私たちにとって非常に重要だ。
例えばパウロは、ローマ人への手紙10:6-7で、ここの13節を引用している。そして10: 14~15では12・13・14節が出てくる。申命記30: 14はローマ10:8~10やヘブル2:1と3章、そしてコロサイ3: 16にも引用されている。
 
つまりは、申命記のこの教えはモーセの律法だけにとどまるものではないのだ。キリスト教徒すべてではないが、皆さまのような一部のキリスト者はモーセの律法・トーラーを積極的に学ばれている。これは神のことばであるため、これは健康的なことだ。
モーセがここ、モアブの平原、ヨルダン川のほとり、エリコの向かいで教えていることは、あらゆる時代のイスラエル人にとって重要なように、クリスチャンの兄弟姉妹にとっても重要なメッセージなのだ。
 
なぜそれが重要か?
次の30章15節は、非常に重要な節のひとつだ。ヘブライ語から訳してみたい。

「見よ、今日あなたがたに選択肢を与える。
あなたは命、すなわち良いものを選ぶことも、死である悪いものを選ぶこともできる。
わたしは今日あなたがたに命じる。あなたがたの神、主を愛し、主の道を歩み、主の戒めと律法と訓戒を守り、あなたがたは生き、増え、成長せよ。
神はあなたがたをこの地、すなわち神が相続地として与えてくださったこの地であなたがたを祝福するであろう。」

これはとても大切なことだ。

心の割礼

割礼に使う用具。
数百年間、変わっていない。

愛する兄弟姉妹、この通読箇所にもう一つ戒めがある。トーラーに由来し、新約聖書の主要な教えとなっている原則で、最も誤解され理解しにくい原則、それが心の割礼だ。
 
生後八日目の赤ん坊の男性生殖器に割礼が行なわれることについては、よく知られた事実だ。私は、ユダヤ人ビリーバー約60人の赤ん坊の割礼に伴い、ゴッドファーザー(割礼の際に乳児を膝に乗せ、代父としての枠割を果たす)だった。割礼を施すラビが仕事を終えるまで彼らをしっかりと抱きしめるという、祝福・幸運に預かった。
 
しかし心の割礼とは、これよりもはるかに難しい問題であり、私たちの心に対して神が鋭い刃物を入れられるというのは、なかなか受け入れがたく理解に難しい。ヘブル人への手紙 4章12節には、次のようにはっきりと述べられている。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、 心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

ヘブル人への手紙 4:12

ここで疑問が生じる― 心に割礼を受けるとき、それは痛みを伴うか? もしそうならばその痛みは、肉の割礼と同じくらい私たちを不快にさせるだろうか?
 
申命記には、心の割礼について書かれた二つの聖句がある。 

あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。

申命記 10:16 

あなたの神、主は、あなたの心とあなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。

申命記 30:6

エレミヤ書にはこうある。 

ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。

エレミヤ 4:4

これを引き継ぎ、新約聖書には次のようにある。

さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリアと名づけようとしたが、

ルカ 1:59

八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。

ルカ 2:21

キリストにあって、あなたがたは、人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。

コロサイ 2:11

まず分かるのが、『割礼』というものが新約聖書でも非常に重要なものだというのが、実証できる。しかい、心の割礼はそれよりはるかに重要なテーマだ。ユダヤ人だけでなく、メシアとともに死んで、メシア・イェシュアに従順する聖い生活に加わった異邦人ビリーバーにも、この『心の割礼』は適応されるからだ。
 
まず申命記10章16節にある、私たち自身の心に割礼をせよという命令について取り上げよう。割礼について、生殖器ではなく心への割礼について言及されたのはこれが初めてだ。そして、ご覧のとおり、これは神がイスラエルの子らがカナンの地に入る前に命じられたことだ。
 
この命令で発生する問題は単純だ。神はこの心の割礼をどのように行なうべきか、正確に教えてくれたわけではない。何が必要で、どんな道具が必要か?つまずきや転倒する可能性のある、心の余分な部分をどう切り取るべきか?聖書の中で実際にこの命令を守り、心に割礼をしたのは誰か?トーラーの中に実際に心に割礼を施し、それについて書いたり話したりりといった例はあるだろうか?
 
そして申命記30章6節で神は、私たちが自分の心に割礼を施すことの難しさに、理解を示している。そして全能者である神が私たちの心に鋭いナイフを差し込むという、困難な任務を引き受けることを決意されている。なぜ神が考えを変え、申命記10章の「心に割礼をせよ」というスタンスから、「神が心への割礼を引き受けて、心を包む皮を切り捨てる」というスタンスへと役割を変えられたのか― 私には分からない。
モーセは神にこう言ったのかもしれない。「聞いてください、主よ。イスラエルの人々にこれはうまくいきません。このユダヤ人の中には、自分でそうする人は一人もいません。」
 
私たちイスラエルはうなじが頑な・頑固な民族なため、神ご自身が見えない形で役割を引き受け、神による目に見えない道具を使ったほうが良い、というのが理由かも知れない。 

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、 心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

ヘブル人への手紙 4:12

そしてコロサイへの手紙では、イェシュアを信じる異邦人の弟子たちはキリストの割礼によって、手によらない心の割礼を受け、それによってすべての弟子たちはキリストのうちにあり、罪に対して死んだことで赦され、主と共に生かされてるという事実を享受している。
皆さま心にある割礼は皆さま自身の手ではなく、神の手によって施されたものだ。そしてこのひな形も、(10章からシフトチェンジした)申命記30章にあるのだ。
 
神が皆さまを、多いに祝福してくださるように。
シャバット・シャローム!

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