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第52週:べ=ゾット・ハ=ブラハ(これは祝福である)

  • パラシャット・ハシャブアとは?→ こちら

  • 去年の同じパラシャの記事は、こちら

注意:

通常パラシャット・ハシャブアの朗読とそれに関する学びは、シャバット(安息日)の朝の礼拝に行われます。しかし今週のシャバット(10月12日)はヨム・キプール(大贖罪日)、そして来週(10月19日)はスコット・仮庵の祭になるため、それぞれ特別の朗読箇所があります。
したがってユダヤ人たちは10月12・19日にそれぞれ例祭の朗読箇所を読み、この記事のパラシャ「べ=ゾット・ハ=ブラハ」を24日のシムハット・トーラー(トーラーの喜び)の祭りの日に朗読することになります。

しかし24日は木曜日になり、その直後の26日には創世記1章からの最初のパラシャ『ベレシート(創世記1章~)』を読むことになるため、日本の感覚では少しタイトになってしまいます。
したがって今週は最後のパラシャ「べ=ゾット・ハ=ブラハ」を、そして来週はスコットに関するティーチングを紹介したいと思います。


基本情報

通読箇所(パラシャット『べ=ゾット・ハ=ブラハ』)
トーラー(モーセ五書) 申命記 33:1 ~ 34:12
ハフタラ(預言書) ヨシュア 1:1 ~ 1:18 
新約聖書 ヨハネ 7:37 ~ 7:53
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

神の祝福と共に終えるパラシャ
ユダ・バハナ 

ユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

このシリーズの冒頭、つまりパラシャット・ベレシートに戻ってみよう。
そこで私は、パラシャの学びがメシアへの扉を開き、メシアへの信仰を強めるようにとの希望を語った。1年間に渡って聖書を共に学び、皆さまと御言葉についての知識・理解を深めることができたのであれば、それは大きな祝福であり私にとっての誉れだ。
 
一般的に「シムハット・トーラー」として知られる「シュミニ・アツェレット(8日目の集まり)」を祝い、その際にこの「べ=ゾット・ハ=ブラハ」を朗読する。そしてその朗読後に、トーラーの巻物を全て巻き直して創世記の冒頭に戻って、少し読むのだ。これはトーラーの朗読と学びに決して終わりがないことを、視覚・体験を通して教えるものだ。
またこのパラシャはスコットが終わって翌日の祭の日に読まれるため、多くの場合シャバットではない日に読まれる。これもこのパラシャが、他のパラシャと一線を画す要素のひとつだ。
 
1年を通じて律法を学ぶことができたのは大きな特権・喜びだ。そしてパウロは弟子の一人、テモテは神の教え/トーラーを次のように説明している。 

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

2テモテ 3:16

会衆として集まり、トーラーを継承する

スコット(仮庵の祭)中に行われる、大規模なアロンの祝祷。
(thekotel.org より)

私たちはトーラー(モーセ五書)という霊的な遺産を受け取り、預言者の口を通して神が語られた預言書に慰められ、詩編などの諸書を通じて困難な時も神が常に私たちのそばにいることを知り、それによって喜びと慰めを得る。
 
そして特にユダヤ人にとって、この聖書(タナハ)という遺産を継承することには、大きな重要性がある。これについてはパラシャの冒頭、 4 節で説明されている。 

モーセは、みおしえ(トーラー)を私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。 

申命記 33:4

私たちは神の言葉を世代から世代へと伝える、義務があることを指摘している。
例えば誰かがこの霊的相続を受け継いだものの、人生の他のことに気を取られていて、相続を先延ばしにしてしまうかもしれない。そんな場合であっても相続されるべき財産はその人を待ち続け、その人がその相続の準備ができた時にそれを手にする。
この聖句では、モーセからトーラーを受け取る/相続する準備が出来たため、コレクティブとしてイスラエル民族全体(ヤコブの会衆)が、トーラーを相続して自身の財産とした。
 
ちなみにこの聖句は、イスラエルのみがトーラーの排他的権利を相続しているとも理解でき、そのような解釈も存在する。しかしユダヤ教のミドラッシュで最も一般的で広く知られている解釈は、トーラーは普遍的なものでありすべての人有効、というものだ。
世界中で人々は誰もが、神のみ言葉=トーラーから学ぶことができるのだ。
 
そしてこれが私のアプローチだ。
世界中様々な場所に住む人が、どこの都市・シナゴグでも歓迎されるべきだ。そしてその週のパラシャ(トーラー箇所)を聞き、日常生活に実践できる人生の学びを行うことができる。こうして聖書の教えを聞き、日常生活や家庭生活に取り入れる人は誰でも祝福を受ける。もっと正確に言えば、聖書全体に約束されている多くの祝福だ。
 
解釈の中には「会衆」という言葉をヘブライ語を通じて、こう読み解くものがある― ヘブライ語で会衆は「ケヒラ(Ke-Hi-La)」と言い、集まるという動詞を「カハル(Ka-Ha-L)」と言い、同じ語根が使用されている。したがって、多くの人がヤコブの周りに集まり(カハル)、神の律法がそれによって世界中に広まっていくのだ。 

ヤコブの家やヤコブの子孫の相続とは書かれていない。ヤコブの会衆(ケヒラ)、とある。
それは多くの人がそこに集められて(カハル)、律法が全世界のためのものとなり「ヤコブと私たちのもとに集まった(カハル)すべての人は、神に仕え、ヤコブの家に加えられるために神に同行する外国人であり、全員合わせて神の会衆(ケヒラ)と呼ばれることになるのだ。

申命記33:4に対する、ナフマニデス(13世紀スペインのラビ)の解釈

律法はイスラエルの人々に、彼らがそれを世々守り続けるために与えられた。しかしそんなトーラーの目的は、全世界を神への信仰と奉仕という会衆(ケヒラ)に導くことなのだ。 

モーセか神か、それともメシアか?

(static.billygraham.org より)

次の節で、モーセはこう宣言する。 

民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。

申命記 33:5

この一節は特別難解な聖句には見えないが、歴史的に賢者や律法学者を悩ませ、そして今も悩ませ続けている。
この聖句はイスラエルの王とも言えるモーセについて語っている、と説明する人もいる。一方イスラエルの王である神について語っているという人もいる。またこの聖句は、メシアの時代について語っていると言う人もいる。
メシアを信じる者として私たちは、この聖句をヤコブの家からいずれ『王』が立ち上がる日について語る預言と解釈する。神がイスラエルの部族を団結させ、世を永遠に統治する、その日だ。
 
メシアを信じる私たちはこの預言の王に、イェシュアを見る。そして私たちの信仰は「イスラエルの民」に限定はされない。もちろんイェシュアはまず最初にユダヤ人の王ではあるが、この地球上全ての部族を団結させるイスラエルの王であり、世界がイェシュアにのみ耳を傾けるようになる。イェシュアはイスラエルだけでなく、この世全体の王でもある。そして全世界、上の天もその下の地も、すべてが神の御前にひれ伏し、神が王であることを認める。 

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

ピリピ 2:10~11

申命記=警告→祝福

この預言の後、トーラーの最後に、イスラエルの子らと過ごす最後の日にモーセは、目の前の人々を祝福している。彼は各部族に、特別な祝福を与える。 

これは、神の人、モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福の言葉である。

申命記 33:1

イスラエルへのこの祝福は、パロのエジプト王宮での快適な生活や贅沢を捨てた男にとって、適切な結論であり、それが継承だった。モーセは支配者の地位を享受する代わりに、違う道を選んだ― 

こうして、日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。

出エジプト記 2:11

神がご自身を現して、民をエジプトの奴隷の苦しみから救い出すよう呼びかけられ、その後モーセはミディアンの自信の家族を離れることをいとわなかった。 

今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。
わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。

出エジプト記 3:10

申命記全体に約束されている脅威と呪いのバランスをとるために、この祝福と結論は重要だ。実際、申命記の全体がイスラエルの人々に対するモーセの演説で構成されている。この演説には徹底した霊的なストイックな探求が含まれており、モーセは第一章からすでに次のような戒め・警告と共に演説を始めている。 

しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。そしてあなたがたの天幕の中でつぶやいて言った。
「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出して、エモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。」

申命記 1:26~27

この聖句そして申命記全体を通して、多くの戒めと警告がモーセからイスラエルびとに発せられている。
したがって、モーセが最後の日に与えるこの祝福は、美しく感動的な結末だ。ほんの数日前にモーセは厳しい言葉でイスラエルを叱責したにもかかわらず、1つのことを保証している― モーセは心の奥底から、本当にイスラエルの人々を愛していることを。
 
そこでモーセは明晰な鋭い心で民の前に立つと同時に、心の奥底から民を祝福し、それぞれの部族をそれぞれ独自のかたちで祝福している。モーセはイスラエルの民全体に対する祝福で、次のように述べて祝福を終えている。 

しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。

申命記 33:29

モーセの埋葬の謎と新約聖書

ネボ山

最後の祝福の後、後ろを向いてモーセはただ立ち去った。
彼はネボ山に登り、そこで神は彼に約束の地を遠くから見せた。
そして今日に至るまで、誰もモーセの埋葬場所を知らない。
 
モーセの死と埋葬について書かれている、6節と7節は難しい箇所だ。誰かが彼をモアブのヨルダン川対岸の谷に埋葬したことは、間違いない。しかしその直後に、モーセがどこに埋葬されたのか誰も知らないと書かれている。
ここではもちろん、疑問または困難が生じる。モーセがどこに埋葬されたのか誰も知らないのであれば、誰がどのように彼を埋葬したのだろうか。
 
ミドラッシュはモーセが自分で自分自身を埋葬した、また自身で墓となる洞窟に入ったという解釈など、さまざまな可能性や推論を展開している。また神自身がモーセの埋葬をするため、血に下りてきたと解釈する人もいる。
 
新約聖書のユダの手紙にも、エリコを横切るネボ山の頂上での天の戦いが描かれている。 これはサタンと戦う天の勢力、つまり天使間の戦いだ。 

御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。

ユダ 9

よく知られるミドラッシュの1つでは、大天使ミカエルとサタンの別名である「邪悪なサムエル」と呼ばれる人物との間の闘争について似た形で語っている。
 
さて、誰がモーセを埋葬したかという難しい質問に戻ろう。
ユダの手紙を読むと、モーセは自身では埋葬しなかったことがわかる。次に、天使ミカエルとサタンの議論の記述から、神がモーセを葬るために天使たちを遣わしたことがわかる。なぜなら、モーセは「モアブの地の谷に葬られた」と書かれているように、誰かによって埋葬はされたからだ。そしてユダの手紙から、それはおそらく人の手によって行なわれたのではないことが、推測できる。 

最後に

さて、これでトーラーの朗読サイクルを終了する。
モーセ五書の学びと朗読のサイクルの終わりに際し、私たちに命を与えて支え、ここまで来ることを可能にしてくださった天の父にすべての栄光と賛美を捧げたい。私たちに、神の聖地であるエルサレムで御言葉を読んで学ぶ特権と能力を与えてくださった神以上に、偉大な方がどこに居ようか。
 
もちろんトーラーの学びや探求は、ここで終わらない。私たちの文化では、聖書を読んで学ぶことに決して終わりはない。したがって律法の最後の節を読んだ後、私たちはすぐにトーラーの巻物を巻き直すのだ。これは数分掛かる作業だが、会衆(ケヒラ)全体が見るなかで行う。
そして私たちはベレシート(最初のパラシャ)の、この聖句から読み始めるのだ。

初めに、神が天と地を創造された。

創世記 1:1

親愛なる兄弟姉妹。
このパラシャの旅に一緒に参加し、皆さまの大切な時間と関心を私たちとの学びのために割いて頂いたことに関して、この場を借りて感謝したい。
 
ユダ・バハナという一個人ではなく、ネティブヤと言うミニストリー、そしてコングリゲーション(会衆=ケヒラ)である『ロエ・イスラエル』を代表して、皆さまに感謝の気持ちを伝えたい。
トダ・ラバ!!(本当にありがとうございます)
 
一人また家族・共同体として、これからも御言葉を読み、祈り、学び続けて下さい。
トーラーを最後まで読み終えた際に捧げる、伝統的な祝福で締めくくりたい― 

ハザク、ハザク、べ=ニトハゼク!
(強く、強くあろう。
そして、私たちが(主によって)強められるように!)


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