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第35週: ナソ(行う・調べる)

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基本情報

パラシャ期間:2023年5月21日~ 5月27日 

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 民数記 4:21~ 7:89
ハフタラ(預言書) 士師記 13:2~ 25
新約聖書 使徒の働き 21:17~ 26
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

バランスの取れた、神中心の生き方
ユダ・バハナ 

ユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

今週のパラシャ(朗読箇所)『ナソ』は、トーラーの中で最も長い。そしてパラシャの内容は部族の族長によってささげられたささげ物と犠牲のリストであり、各々の部族が何をささげたかについてが12回繰り返される。
 
族長たちのささげ物に加え、レビ人の人口調査についても書かれている。また幕屋の組み立てや移動、幕屋でレビ人に与えられるさまざまな仕事やそれに伴う責任を学ぶ。また宿営の聖さにも触れており、すべてのツァラアト(らい病患者)や汚れた人は宿営の外に留まるよう命じられている。
そして別のテーマとすると、夫に不貞を疑われた女性に対する「苦い水」のテストもある。さらに、ナジル人の誓いやアロンの祝福に関する指示もあり、多彩なパラシャとなっている。 

神を中心に置いた共同体

死海のホテルに避難中の、ガザ周辺のキブツの女性たち。
困難な時もコミュニティーとして、立ち上がろうとしている。
(globes.co.il より)

神の言葉は家族について、多くを語っている。家族は神によって創造された、最初の共同体の単位だからだ。家族という最小単位は、あらゆる社会や国家・民族というより大きなコレクティブには欠かせない、重要な基盤になっている。
さて、私たちが住んでいるこの世界は、怒り・痛み・嫉妬・被害者意識などネガティブなものに満ちている。こうした困難に私たちは、共同体としてどう対処すればよいだろうか?
 
トーラーと同様に新約聖書も、家族とそれが生み出す複雑な関係を取り扱っている。新約聖書は私たちにあらゆる種類の解決策を提供し、実際に相互尊重・パートナーシップ・神への信頼に基づいた独自の生き方を教える。神への信頼は、ビリーバーとしての私たちの自信・プライドの基礎となっているのだ。
 
全ての源は神ただひとりであり、私たちはどんな状況でも神に感謝しなければならない。
人生のあらゆる状況において、私たちが捧げるべき祈りは「あなたの御心がなりますように」だ。自身の欲や益・不純な心ではなく、人生において神の御心を全面的に受け入れる― そして私たちは自分にとって何が本当の意味で最善か、必ずしも理解はしていない。仕事・キャリアを変えるべきか… 人生の岐路に立たされた際、私たちはしばしば迷う。家を買うべきか?買うならばここか、あそこか?
私たちはこれらの質問を主の前に提示しつつ、最終的には「あなたの御心が行なわれますように」と祈るのだ。
 
明確にしておきたいが、私は何か心理的なケアや瞑想について話しているのではない。私たちは神へ真に従順することを目指し、神を人生の中心、第一に置く。自分を中心から外せば、怒りや傷み、復讐心を感じなくなり、被害者ではなくなる。そして代わりに、助け構築し、歩み寄りたいという欲求が生じる。互いに喜んで歩み寄り建設的に譲り合うなら、物事は確実に成功に向かっていく。
 
さて、使徒ヤコブは修辞的な質問をしている。 

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。

ヤコブ 4:1 

ヤコブは同時に、私たちに答えを与える。
争い・戦いの根源は、利己主義だ。「~が欲しい/私は~の中心にいたい」といった、自分を中心に置いたものだ。私たちは他人へ害や傷を生じさせずに、自分の欲望をすべて満たすことは極めて稀なため、最終的にそれは他人そして自分を傷つけることになる。場合によってはこのサイクルが裏目に出続けて止まらなくなり、薬物・アルコール・ギャンブルなどへの依存や被害者意識につながる可能性もある。結果的に、私たちは周囲の人々から距離を置き、また距離を置かれるようになる。
 
メシアニックやビリーバーとしての態度は神が中心で、全てが神を中心にしているべきだ。
では神に仕えるために、どのように他人と協力できる/するべきだろうか?どのように協力し、使命・召しを果たすことができるだろうか。このアプローチは、自己中心的な態度と大きく異なる。なぜならあなたも重要なので、私たちは相互に尊重する方法を見つけたい。
しかし現実生活で、理想が常に実現できるとは限らない。私たちは肉のある人間として、嫉妬し怒り、疑う傾向がある。その証拠に今週のパラシャ・ナソでは、疑う夫と苦い水の試練を描いている。トーラー自体も人間関係が傷つき、家族が信頼関係を失うというケースを否定せず、想定している。 

神が御名を消されるほどの、家族の聖さ

苦みの水を飲む、女性

「もし人の妻が道を外して夫の信頼を裏切り(民数5:12)」とあるが、読み進めるとすぐに彼女の罪は確定していないことが分かる。夫がひどく嫉妬したのかも知れないし、彼は彼女の言い分を信じず、被害妄想からの想像をしてしまったのかも知れない。ユダヤの賢者/ラビたちは、トーラーのこの箇所を家族の平和・相互信頼の回復、または家族関係の修復という観点から捉えようとしている。 

祭司はこののろいを書き物に書き、それを苦みの水の中に洗い落とす。

民数記 5:23 

ラビたちはこの聖句を、家族の神聖さを物語っていると論じている。
苦い水の準備には特別の儀式や規則に加えて、文字を洗い流すことが含まれる。そこには神の聖なる名(יהוה の4文字)も含まれている。家族の平和・信頼の回復のため、羊皮紙に書かれた神の御名は水に溶かされ洗い流される。家族のために、神は自身の名が消されることを良しとされているのだ。
ここからラビは、家族の重要性と神聖さを主張している。
そしてイェシュアも家族という共同体の単位に関し、同じレベルの神聖さを与えられている。 

しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。
『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。
こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。
…中略…
だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」

マルコ 10:6~12 

不貞な妻の話に戻ろう。
ミシュナ(西暦約200年に編纂されたラビ文献)は家族の平和と信頼を回復するため、夫も苦い水の試練を受けなければならないと述べている。 

水が彼女を試しているのと同じように、水もまた、『来い』と言った主人を試しているのだ。

ミシュナ ソターの巻  5 

そしてその告発に根拠がなく無実が晴れたのであれば、その女性は害を受けず、子を宿すようになるのだ(民数記5:28)。ミドラーシュは、もしその女性がそれまで不妊だったなら、今はもう不妊ではなくなっていると説いている。そしてもし今までは痛み・苦しみと共に子を産んでいたのなら、これからそれらに苦しまされることはないだろう、と。
この夫婦は、疑いによって結婚生活の危機を経験した。人が目指すべきなのは、傷付きながら争いを続けることではない。これらユダヤ的な解釈では、この危機を乗り越えたふたりが和解し、より良い方向に前進することを奨励しているのだ。
彼らは辱めと屈辱を与え、傷を伴う経験をした。しかし彼らが正しい選択をするなら、彼らはこのどん底の状態から神の祝福に満たされ、幸せで実り豊かな人生を送るチャンスがあるのだ。 

ナジル人という、極端な例

最も有名なナジル人、サムソン。

苦い水の後、パラシャはナジル人の誓いについて教えている。
全てのトピックがそうであるように、意見は分かれるだろう。ナジル人を称賛する人もいれば、この考えに対して懸念を表明する人もいる。誓いの日々が終わると、ナジル人は罪を犯したかのように、罪のための犠牲を捧げるように命じられる。一部の解釈者はこれを、神から人々への喜び・祝福をナジル人が受けることを控えたから、とも言っている。祝福を妨げていたので、犠牲が必要になるという理論だ。
 
ナジル人に関する永遠のテーマは、ナジル人の禁欲主義的な神へ伝える方法が理想的なものかどうか、というものだ。私たちもそのような誓いを立て、奮闘すべきだろうか?
私は個人的には中間の、バランスのとれた態度が理想的だと信じている。
 
ナジル人のやり方は真ん中・中間ではなく、間違いなく極端な道だ。したがって誓約に時間が掛かり過ぎれば、利益よりも損害の方が大きくなるだろう。バランスを失うのは簡単だし、すぐだ。そうなるとリバウンドのように霊的なステップを上がる代わりに、すぐに情欲と欲望の泥沼の中に堕落してしまうだろう。
 
ナジル人のように全てを神に捧げ、自身の財産を放棄し教会・シナゴグや慈善団体に寄付することもできる。だがそうすると、彼の家族はどうなってしまうだろうか。またイスラエルを含む各国の国防軍を暴力と反対する人も居るが、では現実問題として誰が国を守るのだろうか。自分を傷つけた人を無条件に許し告発しなければ、罪のない人を傷つけ続ける加害者を誰も止めなくなり、悪ははびこり続ける。
ナジル人は、祈りと聖書の研究にすべての時間を費やす。しかしでは、地上における生産的行為で国を養い、経済を成長させるのか。
 
歴史的にも、コミュニティのほとんどがナジル人になった場合、機能する社会を構築するのは不可能だ。いずれ、機能不全に陥る。ただし目標を達成するために、それを妨げる特定の物や人から避け、自制することは時として重要だ。 

バランスを取りつつ、ナジル人から学ぶ

使徒パウロは、コリント人に次のように書いている。 

競技をする人は、あらゆることについて節制します。
彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

コリント人への手紙第一 9:25 

スポーツ選手は自分の身体を大切にし、パフォーマンスを妨げ悪化させる食べ物・習慣を控え、自身を律する。試合という場に最高の状態で臨み、勝利を勝ち取りたいからだ。使徒パウロはスポーツ選手が一時的・この世のメダルのために霊・肉共に『整える』のであれば― 天の御国での永遠の命のためには、なおさら霊肉ともに整え、罪に落ちないように自身を律するべきだ、と教えている。
そして周囲や自身を傷つける罪や悪い習慣、そして否定的影響をしないように勧めている。もし自分が周囲に対して影響を与えるような依存症に陥っている場合、周囲の環境・友人から距離を置く必要もあるかも知れない。
パウロは誘惑から遠ざかり、また遠ざけるよう勧めている。
 
ナジル人の誓いのテーマには、さまざまな取り上げ方がある。
例えば特別な時を設定し、祈りと自分自身について熟考するという神聖な時間を取る。というようなことも出来るだろう。ナジル人の規定については、こう言及されている。

彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。

民数記 6:5 

これらは、一定の期限を指している。
パウロはこの誓いを夫婦に結び付け、次のように述べている。 

互いに相手を拒んではいけません。
ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。

1 コリント 7:5 

パウロは一定期間であれば、自身とその時間を神に捧げてもよいと言っている。ただし合意の上で行なわれるべきだと強調している。誓いが一方的であれば、それは家族に対して害を及ぼす可能性が高い。愛する人たちを合意なしに犠牲にし、誓いを立てることはできない。家族で一緒に決める場合であっても、期限というのは不可欠だ。 

アロンの祝祷/祭司の祝福

旧市街近くのケテフ・ヒンノムで見つかった、
2600年前の『アロンの祝祷/祭司の祝福』

ナジル人の規則の後には、祭司の祝福が続く。
子供の頃の私は安息日に父と、一緒に地元の(メシアニックではなく正統派の)シナゴグを訪れた。祭司の祝福は、私にとって最も強い思い出で印象的な経験の一つだ。
 
コハニーム(祭司たち)は靴を脱ぎ、祈りのショール(タリート)に身を包み、そして神聖さと畏敬のうちにシナゴグの前、舞台に進んで行く。その力強い感覚は、手で触れられるほどだ。契約の箱の前で、祭司はアロンの祝福を大声で唱える。
エルサレムの嘆きの壁では年に二回、仮庵の祭りと過越の中日に、祭司の祝福が行われており、そこでは霊的高揚と特別な雰囲気を体で感じることができる。 

レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。

II歴代誌 30:27 

安息日の夕食の初めに、私たちは最も古い祝福の一つであるアロンの祝祷(ヘブライ語「祭司の祝福」)を唱え、子供たちを祝福する。1980年代エルサレムのヒンノムの谷の発掘調査で、第一神殿時代に遡る二つの銀のお守りが発見された。それらのお守りはバビロン捕囚の前、預言者エレミヤの時代より前に遡る。お守りには、この祭司の祝福が刻まれていた。これによってアロンの祝福は現在までに発見された最古の聖書の本文となった。 

「主が御顔をあなたの上に輝かせ、
 あなたに恵みを与えてくださいますように。」 

多くの解釈者は、この一文を霊的な祝福と見ている。トーラーと預言者の中にある神の御言葉の正しい理解を神が与え、歴史における神の導きとその中での人生の使命について、私たちが正確に知ることができるように、ということだ。
 
私たちが神の霊に従って生きるなら、神の祝福・保護が私たちに与えられる。しかし同時に、それは私たちを周りから遠ざけることではない。それどころか、私たちの周りにいる人たちは、神の光が私たちの生活を通して輝くのを目にし、私たちを見て、その一部になりたいと願うようになるだろう。
これこそまさにイェシュアが私たちに求めていることだ。
 
つまりこの祝福または願いとは、神が私たちを知恵の霊で満たし、神の言葉、預言、約束されたメシアを理解し、それに沿って生きることができるように、備えてくださる。メシアを信じる者として、私たちはイスラエルの人々に約束されたメシアを見ている。
その方は私たちの預言者たちが指し示して預言し、待たれ続けているあのメシアだ。
 
この方こそ、生ける神の御子、メシア・イェシュア(イエス・キリスト)だ。 

わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。

ヨハネ 8:12 

日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!

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