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第23週:バ・イクラ(呼んだ)

基本情報

パラシャ期間:2023年3月19日~ 3月25日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) レビ記 1:1 ~6:7(ヘブライ語聖書では5章最後)
ハフタラ(預言書) イザヤ 43:21 ~ 44:23
新約聖書 ヘブル人への手紙10:1 ~ 18
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

ヨセフ・シュラム師と読む、
パラシャット『バ・イクラ』

ヨセフ・シュラム師
(ネティブヤ・エルサレム)

主はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた。

レビ記 1:1

 今週のパラシャ(通読箇所)は、この「主は呼んだ」から『バ・イクラ』と呼ばれている。さてレビ記は非常に興味深い書ではあるが、多くのクリスチャンにとっては人気が無い書のひとつに数えられるだろう。教会でレビ記がテーマ聖句・主題となって説教されることは少なく、神学校であってもレビ記だけを取り扱うコースはあまり見られない。しかし、祭司たちに対する幕屋に関する規定をまとめている事から、モーセの律法(トーラー)の中では最も重要な書物の1つでもある。 

バル・ミツバでは思いトーラースクロールを、
父親の力も借りて持つ子供も。

現在は聖書がスマホに入っており、非常にコンパクトかつ手軽になっている。しかしシナゴグで読まれるトーラースクロール(巻物)は、通常やぎの皮でできており重いものだ。エルサレムにある私たちのコングリゲーション(ロエ・イスラエル)でも、実際の巻物を利用してパラシャを朗読しているが、その重さは15キロにもなるため持ち運びできる重さではない。
したがって製本された聖書のように、各書物間に白紙のページを入れるなどの大きなスペースを挟むと、巻物がより重くなるし、それだけ多くのヤギの皮が必要になって来る。なので出エジプト記とレビ記の間のスペースも、巻物の中ではそれほど大きくない。 

さてレビ記1:1には「主はモーセを会見の天幕から呼んだ」とあるが、ここからは、モーセが幕屋の中に入れなかったことが分かる。モーセはレビ人だったが、アロンとその末ではないため祭司にはなれなかった。兄弟アロンや甥っ子たちは幕屋の中に入れるが、モーセは入れなかったのだ。
そこで祭司に対する規則であるレビ記の最初で、神はモーセを呼んで、そして指示を与えている。 

イスラエル人に告げて言え。もし、あなた方が主に捧げ物を捧げる時は、誰でも、家畜の中から牛か羊をその捧げものとして捧げなければならない。

レビ記 1:2

これは奇妙だ。幕屋の建設が終わり、出エジプトの最後には記録・棚卸し(ペクデイ)があり、仕事の内容すべて、作業者、祭儀のための家具や器具、幕屋の構造についてのレポートだった。シナイ山に到着して約2年が経ち、彼らは聖別され、律法が授与される直前に金の子牛事件があり、その後幕屋建設を命じられ、それにイスラエルびとは時間をかけた。そして準備ができて「さぁ、出発」という時に、神は礼拝の仕方といけにえの動物について指示があるのだ。

いけにえの普遍性とイスラエルの特異性―

古代ギリシャにおけるいけにえ・犠牲の様子

神へのいけにえは、人間的な現象だ。神へのいけにえを捧げない宗教は、この世に存在しない。古の時から人類は、生まれながらに神との『目に見える関係』を求め、それを偶像やいけにえ・捧げものに見出そうとした。我々の隣人であるヨルダンではモレク(モロク)が礼拝対象だが、彼らは時として自らの子供たちを捧げていた。メキシコのインディアンたちも、自分たちの若い娘をいけにえとして捧げていた。それ以外にも人々は、動物・金銀・宝石などを捧げた。いけにえとは、人間が持つ自然な行為なのだ。 

なぜだろうか。
それは人間が、自身がコントロールできる範囲を超えた神のような超越した存在と関わる際、神(それ)を静めるため、または喜ばせるために、贈り物を捧げ、人々に対して怒りを燃やし、罰を下さないようにするためだ。
例えば古代エジプトでは、ナイル川が干上がるまたは反対に大氾濫してしまうと、作物に被害を与え、生死にかかわる死活問題となる。エジプトの民と経済に損害を与えないよう、季節ごとに必要な水量を得ることができるよう、人々は神にいけにえ・捧げものを行った。

カナンの地での主要な偶像のひとつは、バアルだった。預言者アモス、ホセアなどが語り聖書に何度も出てくる、あのバアルだ。

ちなみに我が家からよく見えるエルサレム郊外の谷で、最近まで鉄道が建設されており、そのためのアーチ建設の前に発掘が行われ、ユダ王国の王アハズ・ヒゼキヤ時代の遺跡が発見された。

これは神殿だったのだが、カナン人のではなくイスラエルびとの神殿であることが、レイアウトや装飾から分かった。これはエルサレムのソロモン神殿から数キロの場所に、同じ時代に存在していた。つまり、ダビデの末であるユダ王国はエルサレムとは別に、複数の神殿を建設し、いけにえなどの祭儀を行っていたのだ。
そしてそこでは、複数の神々を礼拝していたと考えられている。イスラエルの神(יהוה の4文字で表現される)以外に、バアルやアシェラなど、カナン人たちの神々とその偶像があり、崇拝されていた。もちろん、これは神が禁じられたことだ。
同時にそこにはソロモン神殿のと似た祭壇があり、ダビデがエブス人アラウナの打ち場を買い取り、そこにソロモンが建てたものに擬似していた。
イスラエル特有の祭儀や信仰観に、周囲のカナンびとの持つそれらが混ざりシンクレティズムが起こっていたのだ。 

このようなシンクレティズムは、程度の差こそあれどの宗教にも存在する。ユダヤ教やキリスト教も、例外ではない。なぜなら宗教は周囲の(精神的)空気と全く接点のない、真空パックの中でできたものではないからだ。取り巻く環境や隣国の文化に触れることで、影響しまた影響される。ユダの神殿を発掘したところ異教の偶像を発見したのも、その一例だ。エルサレムの祭司家系の家、そしてヨルダン王国の王女の宮殿を発掘した時にも、偶像が発見されており、一神教を信じながらも彼らの生活に偶像が忍び込んでいた。 

それぞれに応じたいけにえ―

さてレビ記には、幕屋そして神殿でどのように礼拝するかが書かれているが、そこには大切な原則がある。

1つ目は「人をいけにえにしない」ということだ。
レビ記の前半にはそれぞれのいけにえの種類が取り扱われているが、いけにえに捧げるのは牛、羊、やぎ、鳩などの清い動物、そして小麦などの穀物だ。神は人をいけにえにすることを、許さなかった。 

そして2つ目は「神はそれぞれの状況に応じたいけにえ・犠牲を設定している」ということだ。
ルカ2章に、マリアとヨセフが赤子のイェシュア(イエス)を神殿に捧げた時、彼らが捧げたのは、羊・やぎ・牛ではなく家鳩二羽だった。

このことが私たちに、神が私たちひとりひとりとその状況を個別に見られる、ということを教えている。神は私たちを絶対的・均一な条件や基準では見ておらず、相対的・個別に見られるということだ。例えば生活費の全てを捧げたやもめと、ありあまる中から少しを捧げたパリサイ人の例からも、それが分かる。
宗教はすべてを白黒の2色のみで色付けようとするが、新約聖書やイェシュアはそうではない。私にとってこれはとても喜ばしいことだ。 

そして今日21世紀のイェシュアの弟子として私たちも同様に、兄弟姉妹を全てに均一・絶対的なものさしではなく、それぞれを相対・個別的に見なければならない。これは現代のユダヤ教にも言える、課題である。
しかし会衆・コミュニティーにおいて、貧しい人々から裕福な人と同じことを求めることはできない。聖霊は裕福な人々にはさらに求める。

私たちが献金について話すのは年に1度、幕屋の建設の『テルマ』のパラシャの時だけだ。
私たちのコングリゲーションではシナゴグと同様、安息日の礼拝中に献金箱が回ってくることもなければ、献金への呼び掛けもない。これはイェシュアの教えとも合っていると考える。シナゴグで献金という、正しい行いをする時にラッパを吹き鳴らして、周囲に知らせるような形でするべきではない。

それぞれがイェシュアの言葉を真剣に受け止め、その教えを実践すればよい。そしてそれを神は、私たちひとりひとりの環境を考慮に入れたうえで、見て下さるだろう。

いけにえの目的とは―

アンダルシアのコルドバで、
セファラディー系ユダヤ人として生まれたマイモニデス。

世界中で、神や偶像に対していけにえが捧げられている。時には人を捧げ、自らの子を捧げたりした。12~13世紀のスペインを生きた、ユダヤ教で最も偉大な神学者・哲学者であるマイモニデス(モシェ・ベン・マイモン、通称:ランバム)は、人間の自由意志と神の摂理との関係について、「迷える者の手引き/導き」という哲学書の中で、こう問いかけている。
なぜ神は私たちに、いけにえを捧げよと言われたか?
 
レビ記の中に見るように、いけにえを捧げる方法について神からの複雑な指示があり、鳥をどうするか、その時の羽をどうするか、浄めるためにどうするか、開腹するためにどうするのか。焼いた時や焼いた後に内蔵などの各部位をどうするか―
幕屋でいけにえを捧げることに関する規定は、非常に細かい。
 
しかし、それはなぜなのだろうか。また、なぜ神はそれが必要なのか?
マイモニデスは、こう問いかける。
 
旧約聖書にも新約聖書にもある通り、神はいけにえを必要とはしていない。私たちは、神のために捧げているのではない。神は祭壇で焼かれた肉など、食べられない。預言者イザヤ、そしてエレミヤの答えは最も決定的だ。 

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなた方の全焼のいけにえに、他のいけにえを加えて、その肉を食べよ。私は、あなた方の先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、他のいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。ただ次のことを彼らに命じて言った。私の声に聞き従え。そうすれば、私は、あなた方の神となり、あなた方は、私の民となる。あなた方を幸せにするために、私が命じるすべての道を歩め。

エレミヤ書 7: 21-23

また、預言者ホセアを通してこう言われる。 

私は誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。 

ホセア書 6: 6

その通り、神は偶像ではない。そしていけにえを必要としない。ではなぜ神は、レビ記にある全てのいけにえに関する規定・命令を与えられているのか。レビ記の半分は、いけにえの命令に費やされており、レビ人の規定=いけにえについてだ。ゆえにこの書はレビ記と呼ばれている。ではなぜ神はいけにえを命じられたのか。

マイモニデスは言う―
なぜなら神は人の性格・弱さを熟知しており、隣の芝で隣人たちがしていることを見ると自分もしてみたくなる。それほど環境には力があり、人の意識を決定するほどのパワーがある。友人が悪いと私たちの子供もだめにしてしまい、逆に良質な友人に囲まれることは子供に対してプラスに働く。
それが100%ではないが、住んでいる環境が家族に及ぼす影響はとてつもなく大きい
そのために、神は純粋で神によって制御された、指示される崇拝という形で、隣人たちと似たような習慣を、自らの民に与えられたのだ… 

アッシリア・サルゴン2世のモチーフ。
レバノン名産のスギが、建築資材としてアッシリアへ運ばれている様子。

これが、マイモニデスによる答えである。
ソロモンの神殿でさえ、レバノンから労働者5万人がエルサレムに来て建設し、その様式はレバノンのツロの神殿によく似たものだった。全く同じではないが、よく似たものを造ったのだ。

そうすればイスラエルの神と異教の偶像を一緒にせず、偶像を礼拝する異教・隣の民の信仰を真似たりしないだろう。神はそのような考えを基に、神殿・幕屋での祭司職について、して良いこと・してはならないことを、はっきりとした秩序正しく組織的な形で、『神の規定』として与えられた。
しかし私の家から見える場所で発見された神殿から分かるように、イスラエルびとたちはのちに神が規定された枠を越えてまで、隣人たちの信仰・祭儀を模倣してしまった。 

まとめ―

親愛なる兄弟姉妹の皆さま、これを理解することが非常に大切だ。
物質的な幕屋・神殿でのいけにえは適切なことではなくなり、私たちの実生活に関連することではなくなったので、いけにえの捧げ方のひとつひとつについて、詳細には触れない。しかし私たちに関係していることもあり、それは「人には神にいけにえを捧げたい、という自然な思い・傾向がある」ということだ。
人は喜びの瞬間や悲しみの瞬間を、豊かさや欠乏を、超越した神やそれに準ずる存在に対して共有したい、という思いが本能的にある。そして神は、そういった人との相互的関係を喜ばれる。 

そして主の喜びは、私たちの力になる。「主を喜ぶことは、あなたがたの力(ネヘミヤ8:10)」とあり、それは100%正しい。私たちが自身や自身が属する共同体・社会(家族から国・民族まで)の行いや罪に対して、悲しみを覚える時― それはどれだけ正しいこと・良いことについて私たちが考え・意識を持っているかを神は見られ、神はそれを喜ばれる。(決して私たちの悲しみ=神の喜び、という単純な公式ではない)

さてクリスチャンの中では「退屈な書物」とされるレビ記だが、神は私たちがあくびをするため、または聖書通読の際のチェック欄に印を入れるだけのために、レビ記を聖書の中に残されたのではない。
祭司職や神殿・幕屋が目に見える形ではない21世紀においても、レビ記から私たちが学べることは無数にあるはずだ。

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