パラシャ第20週:テツァベ(命じなさい)
基本情報
パラシャ期間:2024年2月18日~2月24日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 27:20 ~ 30:10
ハフタラ(預言書) エゼキエル 43:10 ~ 27
新約聖書 テトスへの手紙 1:5 ~ 2:15
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
神のため聖別した服装の重要性
ユダ・バハナ
今週のシャバットの朗読/パラシャは、おもにイスラエル12部族を表わす12の宝石が付いた胸当てを含む祭司の装束の説明がなされている。そしてベストやローブ、ターバンにベルト、そして部族の名前が書かれた石で飾られた二つの特別な肩当てについても取り扱っている。
目に見える美しさを重要視
これら祭司のための装束を作るため、それに使用される材料や色についての説明がある。青、緋色や紫の染料、金と絹などが使用され、神から直接霊感を受けた職人によって作成された。神はこれらの装束を作るすべての人々を知恵の霊で満たし、こう命じた。
聖所の建設について読むと、黄金のメノラー、祭司の装束、聖所の様々な祭儀具、さらには水盤に祭壇やそれらを作るために使用された金、銀、青銅すべての材質など、そのすべての品が正確かつ厳格な形で行なわれたことがわかる。
これらすべては、神の指示に従ったものだった。
これら全ての祭儀に使う器具や装束は栄光と輝き、美と威厳に満ちており神の家にふさわしい品々だ。美しさは、神に仕え聖所を建てる上で望ましいものであり、さらには重要でもある。
実際に神殿に上った人々は門を入ると、その姿を見、途方もない畏敬の念を抱いたことだろう。
祭司のための装束が必要な理由
そんな品々のひとつである、祭司の装束の目的は何だろうか?
祭司の装束は2つ理由から重要だ。まず1つ目の理由は、人々に印象を与え、祭司への尊敬を生み出すことだ。祭司が幕屋で働く時、それは神への接近であり日常生活からの分離=聖別を必要とする。祭司たちが特別な服を着るのは、そんな日常・俗世界との分離・聖別のためだ。王のように人々の上に立ち神とのパイプ役として相応しい、特別な身なりをしなければいけない。
そして特別な衣服は、新しい見方や名誉・尊厳を生み出す。実際にすべての宗教・信仰体系において、礼拝所に行き少し観察すれば、霊的指導者が誰かを認識することができる。主任牧師や司祭・ラビは、特別な服を着る場合がある。ユダヤ教の中で言うとその良い例が、セファラディーム(スペインをルーツとする中東系ユダヤ人)のラビたちが来ている、ローブだ。そのラビが誰か知らなくても、人々は服によってその人物が偉大なラビだと認識し、それによって尊敬し敬意を払い、時として祝福を求める。
同様に祭司の装束には、他者と祭司たちを分け(聖別し)、人々からの名誉と尊敬を生み出すことだった。
そしてもう1つは、人々ではなく祭司側の理由だ。
祭司自身が自身の置かれた立場を十分理解し、その義務を真剣に受け止めるようにするためだ。王や祭司に限らず、一般的な団体・企業でも自身が一個人よりも大きなものに属し、代表していることを理解し、それによって正しい振る舞いに心掛けたりもする。そしてそれが名札やバッチ、名刺にある会社や団体のロゴなど可視化されている場合も多い。
目に見えるものには、私たちの心や行動を変える力があるのだ。
ユダヤの伝統にはこのような理由から、「安息日(シャバット)の服」という言葉がある。
イスラエルでは弁護士などを除いてスーツの着用が義務付けられている仕事は、多くない。そんななか安息日にはフォーマルな、平日とは違う服を着る。これを「安息日の服」と呼ぶのだが、これの霊的なルーツは祭司の装束だ。そして今週のパラシャから、神はある意味私たちが何を着ているのか、気にかけることもあると言える。
今週のパラシャからは、人が幕屋や(教会・コングリゲーションなどの)神の家に来て、霊的共同体の一員として神の前に立って祈る時、私たちは自分たちの身なりに対し注意を払うことも重要だということが学べる。
もちろんそれは高価である必要はないが、清潔かつ適切で神に対して敬意を持った服を着なければならない。「服は人を作る」という言葉は、本当なのだ。私たちがきちんとした服装をすれば、人々はそれに従って私たちに対して向き合って振る舞う。そして私たち自身も、神の宮に対してより敬意をもって扱うようになる。
安息日や聖日にコングリゲーションや教会に対して敬意を持った服を着ることは、神と神を拝するために集まった場所への敬意を示すことなのだ。
聖書の中で服が持つ意味合い
聖書のなかで衣服は多くの場合、地位や使命・役割、さらには罪を表している。服を変えることはしばしば人の地位の変化を意味した。
例えばヨセフは色とりどりの上着を着ていたが、それは彼の地位を示していた。そして兄弟がヨセフの上着を脱がせたとき、それは彼が自身の立場を失い、重要な変化が訪れることへの予兆だった。
別の例は、エリヤがエリシャに上着を投げたエピソードだ。これによって彼は、預言者の召しと使命をエリシャに渡し託した。第一サムエル記18章では、サウル王の息子ヨナタンが王室の衣服である自分の上着をダビデに与えている。それは将来的に王になるであろうダビデに対し、王権を引き渡すという象徴的な行為だった。
そしてその数章後になると、彼はそれを公然と認めている。
新約聖書はまた、着物と衣服を美しさの象徴としてこう語っている。
この言葉を見ると、一見イェシュアは見栄えに気を遣う私たちに反対し、私たちが何を着るべきかについて心掛けていることを、悪と捉えているようだ。
私たちに野の花を見せ、「神は適切だと思うようにこの世界と、私たちを創造された。私たちが着る衣服という人のわざと、自然界の花の美しさや栄光に比較することはできない」と、教えている。
イェシュアは服装に関する思考に反対なのか
しかしこの言葉は、バランスを持って理解する必要がある。確かにイェシュアは、私たちが何を着るべきか常に心配し気にかけることを、奨励はしていない。そしてこの言葉は今日のSNS・インスタグラム時代という、外見の重要性が最も重要視され明らかに誇張されている今においては、2000年前以上の重みをもつとも言える。
人々は莫大な金額を費やし、多くのポジティブなコメントや「いいね」を得るため腐心しているからだ。
しかしイェシュアの言葉から、「教会・シナゴグ・コングリゲーションに行く際には、何を着て言っても同じ」や「普段着で行かなければならない/少しも着飾ってはならない」との結論に至るのは、バランスに欠けている。
このパラシャは見た目の美しさ・素晴らしさには、霊的意義があることを教えている。そしてもちろん必要以上に服に対して投資する必要はないが、祭司の装束に関する規定から、私たちの礼拝所での身なり・衣服へのスタンスはバランスが取れたものでなければならない。
もちろん重要なのは、心持ちや信仰という『見えない部分』だ。しかしその見えない部分が、衣服や身なりと言った『見えるもの』によって変えられるというのも事実なのだ。
イェシュアのある譬え話を見てみよう。
マタイ22章で彼は、大宴会のたとえ話をもって私たちに教えている。息子のために婚宴を催し、民を招待した王についてだ。このたとえ話は、天の王国について語っている。
神は私たちに婚宴(神の王国)への参加を呼び掛け招かれるのだが、私たちの多くはそれに応じず婚宴を欠席する(神の王国に加わらない)。したがって王の婚宴の場に現れたのは、ほんの数人だけだった。それで王はしもべを町中に送り大量の人々を、宴会に招待した。
こうして祝宴の場はいっぱいになり、賑やかな宴となった。
そしてイェシュアはこう続けている―
何が起きたのだろうか。
なぜ王は適切な服を着ないで結婚式に来た人に、腹を立てて追い返したのか?そして、これは何を象徴しているのだろうか?
服=霊的な罪に関する状態
先ほども述べたように聖書では、衣服は人の霊的状態・その人の罪を象徴することがある。
例えば預言者ゼカリヤは、大祭司ヨシュアが裁きの座の前に立っているのを見ている。
着物はまた、イザヤ書の有名な聖句に見られるように、救いを意味することもある。
これら聖書的な衣服の持つ意味というのを念頭に置いて、イェシュアの婚宴のたとえ話に戻ろう。
婚礼に相応しい礼服ではなく普段着で参列した人は、自身のライフスタイルや行動が御国(婚礼)にふさわしくなかったのだ。そして彼はライフスタイル・行動という見える部分だけでなく、義・救い・正しい信仰も持ち合わせていなかった。
ゼカリヤからわかるように、神ご自身が私たちにこれらの衣服を与えてくださるのに、それを着ずに彼は婚礼にやって来たのだ。
ゼカリヤ3章を見ると、汚れた服を着ていた=咎のあった大祭司ヨシュアには、セカンドチャンスが与えられている。
主の使いが彼の古い汚れた服を脱がせて、新しいきれいな衣服を着せた。
しかしこれは無条件のゆるしではなく、大祭司ヨシュアに対しては条件が提示されていた。
古い罪は清められたが、大祭司ヨシュアは神の道と戒めを守って歩み、神殿で清い心と喜びをもって仕えなければならない、という条件があった。神ご自身は清い衣服を提供するが、それをきちんと着るか=信仰を持って歩むかについては、私たちにゆだねられている。
私たちにも前にも、咎なき清い服が
私たちは救いと義の服を身にまとい、メシアであるイェシュアの信仰とそこから生じる喜びをもって、婚礼に参加しなければならない。
婚宴のたとえ話では、結婚式の衣服を身に付けず参加した人は神からの(咎を除いた清い礼服という)セカンドチャンスを逃した人であり、したがって王は彼を婚宴から追い出した。これは何も、王による理不尽な行動ではないのだ。
私たちはイェシュアを通した悔い改めと彼の信仰により、二度目のチャンスを得ることができる。
過去の霊的状態がどれほど悪く汚れていたかは、問題ない。脱ぎ捨てる服の汚れ具合を、神は気になさらない。大祭司という民と神を繋ぐ、最も罪と遠くなければならない立場だったヨシュアの衣服は罪で汚れていたが、それでさえ神は許されたのだ。
イェシュアは私たちに新しく、1人1人にピッタリと合った最上の王室のような衣服を用意している。私たちの責任はその服を手に取って身に付け、悔い改めて神の御心を行ない御言葉に従って生きるかどうか、だ。
さて私たちはバプテスマを受けて悔い改めた、ということで神から与えられた清い礼服を身に付けている。そんな私たちに与えられている使命は―
婚礼に正しい形で参加すること、ゼカリヤの言葉を借りるなら(大祭司ヨシュアが)正しい心を持って神殿で奉仕するか
― 神の意志・御心を行っているかどうかだ。
そしてそんな「神の意志・御心」を理解するためには、ゼカリヤ書に戻る必要がある。
これはゼカリヤだけでなく、イザヤ・エレミヤをはじめ全ての預言者が教え警告した、神の意志だ。
-真実・正義を行うこと
-お互いに慈悲・思いやりを示すこと。(他人の世話をし、助けること)
-弱者を抑圧せず、助けること。
-お互いに対して悪を企てない。→「隣人をあなた自身のように愛せ」
新約聖書の中でも、ヤコブは非常によく似たことを書いている。
お互いに愛を持って助け合うことや弱者を守っているかで、神は私たちの霊的状態を判断される。これは旧約・新約を貫く、不変の神が持たれている尺度なのだ。
今週のパラシャでは祭司の装束から衣服や身なりなどの見えるものの重要性や、服の聖書的シンボリズムと重要性を通じてイェシュアの婚礼の譬え話を学んだ。
私たちが安息日や日曜日などで礼拝のため神の家に向かう時、自身の承認欲求のためではなく神(と神の家)への敬意、そしてその日を『聖別』するために、どんな服を着て行くか― 少し考えてみる機会になればと思う。
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。