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第45週:エケブ(もし・~の結果)

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基本情報

パラシャ期間:2024年8月18日~ 8月24日 

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 申命記 7:12 ~ 11:25
ハフタラ(預言書) イザヤ 49:14 ~ 51:3 
新約聖書 ルカ 4:1 ~ 15
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

戒めを守るのは己の益か、それとも神への愛からか
ユダ・バハナ 

予備役中のユダ・バハナ師(左)と、
偶然にも物資を基地に届けに行っていた、
『ティフェレット・イェシュア』のリーダー、ギル・アフリアット師(右)

今週のパラシャット・ハシャブア(ユダヤ的通読箇所)は、「エケブ=それゆえ」という言葉で始まる。 

それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り

申命記 7:12

ここの聖句にあるように、まず聞くことから始まりその後に行いが続く。その見返りとして神は契約を守り、私たちに憐れみを示して下さる。例えば、神は私たちと家族を祝福してくださる。私たちはこの箇所の最初の二節からこれを学ぶ。
 
さらに進むと「シェマ(聞け)」の祈りの、続きの聖句がある。これは全てのメズザ・テフィリンに記されているもので、次のように始まる。 

もし、私が、今日、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら…
主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が長くなるためである。

申命記 11:13, 21

言い換えると、この箇所は聖書における罰と報酬について語っている。
ユダヤ社会では、この問題についてこう深く考える―
戒めを守るのは「自分のため」か、それとも「天のため」なのか?
 
私たちは報いや祝福という、『ご利益』のために戒めを守っているのか、それとも神への愛からなのだろうか?
 
今週のパラシャット「エケブ」は、この議論に多くの資料を提供している。前述のように、この議論はトーラーを読み始めた時点ですでに始まっているとも言える。「エケブ」つまり「~が原因で、なぜなら」という言葉は、私たちが神の指示を守る『ならば』、と同じように条件付きの構文だ。
その代わりに/そうすれば、神は私たちの先祖に与えた約束を守られる。
この条件は「尺には尺を」という原則に従っている。 

尺には尺を

(lawlaw.co.il より)

「尺には尺を」の原則は聖書全体を通して出て来るが、新約聖書ではこの問題をより詳しく説明している。イェシュアはしばしば「尺には尺を」の精神で教え、こう宣言している。 

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。
これが律法であり預言者です。

マタイ 7:12

イェシュアは律法と預言書=(当時の)聖書が、あなたがすることはすべてあなたにもそうされる、という原則に基づいていると語っている。これは「尺には尺を」の、典型的な例だ。そしてイェシュアはこう付け加えられた。 

さばいてはいけません。そうすれば、自分も裁かれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
... あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。

ルカ 6:37~38

もう一つのイェシュアの古典的な言葉にも、同じ原則が見られる― 

あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

マタイ 5:7

イェシュアのこの重要な教えは、私たちにこう祈りなさいと直接的に教えられた大切な祈り、『主の祈り』の中にも見られる― 

私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

マタイ 6:12

これらの聖句は、新約聖書における「尺には尺」の重要性を示している。
この原則は、今週のトーラーの箇所に表現されている。

もしあなたがたが、主の命令を守り行なうなら、主はあなたにあわれみを示される。 

そしてさらにこう続ける。

もし私たちがそれにふさわしければ、神は私たちに雨を降らせてくださる。
しかし、私たちがそれに値しなければ、雨を降らせてくださらない。 

この概念はイスラエルの地に関して、特に明確だ。 

なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。

申命記 11:10~12

世界の他の国々とは異なり、イスラエルの地は神の目から見て特別な地位を占めている。
神は一年中その地の住民を調べて神が望まれれば、いつでもこの地に祝福の雨を降らせる。これは、一年中ナイル川の水で無条件に土地を潤すことができるエジプトとは対照的だ。
 
イスラエルの地では文字通り、天から雨を降らせ土地に水を与え、私たちを養ってくれる神に頼っている。伝統的なユダヤ人の祈りのひとつ『アミダ』の始まりに、冬には毎日雨が降るように、夏には露が降りるようにと祈る。私たちは神を『風を吹かせ、雨を降らせて下さる方』とも呼んでいる。
 
神が私たちを養っていてくださるという目に見える依存は、神が私たちを支え、すべてが御手の中にあるという理解を強める。いつ雨を降らせるか、いつ東の門を開けて太陽が昇るかは、その方が決められるのだ。 

神による試み

悪魔による誘惑があったとされる、エリコの「誘惑の山」

新約聖書には、イェシュアが40日間断食した後に誘惑が来たことが記されている。悪魔が、イェシュアを誘惑するためにやって来た。そして空腹だったことを知っており、悪魔はイェシュアに石をパンに変えるよう命じるよう誘惑した。するとイェシュアは、トーラーのこの箇所からの引用で答えられている。 

人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。

マタイ 4:4、申命記 8:3

イェシュアが引用した聖句は、イスラエルの人々に対するモーセの演説からの引用だ。 その目的とするところは、人々を励まし、次の戒めを守るようにさせることだった。 

私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。
そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

申命記 8:1~3

モーセは、マナや荒野の旅、さらには様々な奇跡さえも、イスラエルの民が主の戒めを守るか守らないかを見極めるための、試験のために起こったとしている。
この文脈に照らすと、私たちはイェシュアの言葉の意味を完全に理解することができる。私たちは、試されているのだ。神ではない他のものや他の力に、頼るべきではない。私たちは主から出ていない約束や情報源を、信頼すべきではない。
本当に神は祝福、雨、そしてパンの源だ。
 
その後、イェシュアは私たちに次のように教えられている― 

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

マタイ 6:31, 33

神の戒めを守り続けるなら、パンが備えられ、雨が降り、祝福を与えると約束している。 

戒めを守るのは、何のためか

拉致被害者・人質の広場の壁の1つ。
SOSの上にシェマ・イスラエル(שמע ישראל)が…

ここで到達するのは、最も重要な疑問のひとつ、つまり戒めを守る理由だ。
雨やパンという祝福を受けるためか?それとも罰を恐れてか?
または、何か足りないもの・不足があるから?
そして、愛から戒めを守るという義務さえもあるのだろうか?
 
ユダヤの伝統で最も重要な『シェマ』の祈りは、二つの部分で構成される。最初の部分は「聞け、イスラエルよ(申命記6)」、そして次は「よく注意して聞くならば(申命記11)」だ。 

もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、
「わたしは季節に従って、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」
気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことがないように。
主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。
 
あなたがたは、私のことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。
これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。
 
それは、主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。

申命記 11:13~21

「もし」という言葉は、この朗読箇所の冒頭に出てくる「エケブ」という言葉によく似ている。「だから」ということばには意味があり、基本的に「注意深く聞くならば」という条件を意味している。そしてそれは、私たちが戒めを守るべきなのは、あなたが良く長く生きることができるようにするために、という理由を正確に説明している。
ここでモーセは神の戒めを守ることが価値あることだと約束し、私たちに語る。
 
メシアニック・ジューとして、またメシア/キリストの弟子として、私たちは自分自身に問いかける。報酬や利益のために神の戒めを守ることは、適切なことだろうか?
 
このパラシャが提起している、神への従順の見返りとして祝福を受けとるという考えは、ビリーバーである私たちにとって、受け入れがたいものがある。
その理由は、私たちは報酬ではなく、神への愛から神の言葉に従って生きるよう教えられているからだ。
 
それにもかかわらず、イェシュアは私たちに報酬があることを明確に伝えている。
そして私たちが報酬を(今受け取るのではなく)遅らせて、宝を天に蓄えるように、と教えている。
これは実際に、イェシュアの教えに基づいたものだ。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。
そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

マタイ 6:19~20

確かに報酬はあり、来たるべき世のためにそれを取っておく価値がある。
シェマの後半で約束された報酬とは対照的に、 前半の部分では報酬は約束されておらず、むしろ深い愛にスポットが当てられ語られている。 

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの、神、主を愛しなさい。
私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

申命記 6:5~6 

行いの重要性を再考

ユダヤ教にもトーラー(学び)とアボダ(働き)という、
私たちの「信仰と行い」に似た表現があり、
建国前のシオニズムに参画した正統派たちは、この両立をイスラエルで体現しようとした。
(kedem-auctions.com より)

愛を動機に神に仕えることを最高とするのは、メシアニック・ジューやキリスト者だけの専売特許ではない。実際、何世代にもわたって数多くの律法学者・ラビたちがこれと同じ見解を強調してきた。 次の例を見てみよう―

「あなたの神、主を愛せよ」
トーラーを学ぶのは、私が賢い人と呼ばれ、イェシバ(ユダヤ教の学校)で学び、来るべき世で長生きするためだと、あなたが言わないためにだ。 

つまり、「あなたの神、主を愛する」ことが最も重要なのだ。
私たち自身のために神の言葉を守るのか、それとも天のために(神への愛から)守るのか。この緊張は、常に存在する。多くの人は、報酬のために戒めを守ることは重大な欠陥だと捉えている。もし報酬を受けるために戒めを守るのなら、その人は神ではなく自分に仕えている、と。
 
しかし、トーラーは私たちに何と教えているだろうか。
私は、律法と新約聖書が主に神の言葉の『実践』を強調していると信じている。新約聖書は信仰と愛を非常に強調しているが、これは御言葉の実践を無下にしているわけではなく、依然として私たちにとって実践・行いは非常に重要な義務である。
 
そしてトーラーは生ける神の言葉であるというほかに、社会を維持するための憲法でもあるということを覚えておく必要がある。律法は、望ましい行動やあるべき家族関係、権威の遵守に関する規則を含め、社会に正義・公義をもたらす命令であり、社会の弱者や困窮者の世話をするという福祉的側面もある。
 
ゆえに律法は、私たちに神の意思を学ぶだけでなく実行することも、当然ながら求めているのだ。神の国の国民である以上、国民の義務について公民の授業で良い成績を取るだけでなく、実際に法を遵守しなければならない。ではどうやって私たちは、律法を守るべきだろうか?
あくまでもだが―初めは特定の報い・報酬を目当てとして、またはそれを履行しないことによる罰への恐れから法律を守る、それで問題ない。あるいは善良な国民だから、またはそんな国民でい続けたいから守っている、というのもアリだろう。
最も重要なことは、まずは法律に従うことだからだ。
 
そして信仰や愛といった心の中を非常に重要視している新約聖書の中でも、イェシュアは法を守ることによる報酬について何度も教えている― 

喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。

マタイ 5:12

山上の垂訓の最後にある、岩の上に建てられた家のたとえ話にもこうある― 

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父の御心を行なう者がはいるのです。

マタイ 7:21

ここでイェシュアは私たちに、神に「主よ、主よ」と呼びかける信仰や祈りだけでなく、神のみこころを行なうようにと明確に教えている。
 
報酬に関するイェシュアのもう一つのたとえは、マタイ20章のぶどう園の労働者のたとえ話だ。このたとえ話で、イェシュアはビリーバーたちを日当 1 デナリで働く労働者にたとえている。
この話では、雇い主は何度も追加の労働者を雇い続けている。一日中、仕事が終わり給料を受け取りに来るその直前までだ。
 
したがって一日中働いた人もいたが、半日かそれ以下しか働かなかった人も居た。それにもかかわらず雇い主は、労働時間に関係なくすべての労働者に一人当たり1デナリを支払うと約束した。一日中働いた人にとっても良い給料だったが、半日以下しか働いていていない人にとってそれは、法外な給料になった。
 
このたとえ話は報酬について語っており、私たちに対して報酬を伴うイェシュアの働き人となるよう勧めている、という譬えの背景がある。しかしこのたとえ話は同時に、雇い主がぶどう園で示した計り知れない恵みについても示している。
 
たとえ話の中の労働者と同様、イェシュアを信仰するようになる人々はみな、同等の恵みを受ける。
実際にはすべてのビリーバーが、神の恵みと救いという給与を満額で受け取ることができる。さらにこのたとえは、私たちはみな何らかの形で、受けるべき以上のものを恵みとして受けていると指摘している。確かに私たちは有給の働き人で、支払いを受けて当然だ。しかしこのたとえ話では、私たちが本来受け取るべき以上のものを受け取っていることを明らかにしている。
 
しかしそうは言っても、私たちが正当化されるのは自分自身の力や行動によるのではない。 むしろ、私たちが値するその何倍もの報いを与えてくださるのが神の恵みだ。このトーラーの箇所は、これを完璧に次のように述べている。 

あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。

申命記 8:17~18

このように私たちは、「私自身の力、私自身の手の力だ」と言うことはできない。すべては上からのもので、それは私でも、私の行為ではないからだ。
 
今週のパラシャは、最も重要なのは行動であることを表している。そして聖書は、自身の(報い・報酬・罰からの逃れの)ために神の言葉を守ることを許可している。それは理想的ではないが、許容はされている。
 
しかしもちろん理想は、私たちが報酬などといった自己を主体とした思考回路から離れ、神への純粋な愛に基づいて行動し、真実と純粋さをもって神に仕えることだ。私たちはアミダ(『起立』を意味する、ユダヤで最も重要な祈りの1つ)の祈りを祈るとき、次のように祈っている―
 
真実にあなたに仕えるために、私たちの心をきよめてください。
 
理想はトーラーそしてイェシュアが教えているように、愛に基づいて行動することだ― 

そこで、イエスは彼に言われた。
『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

マタイ 22:37~40

日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!

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