第26週:シェミニ(8日目)
基本情報
パラシャ期間:2024年3月31日~ 4月6日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) レビ記 9:1 ~11:47
ハフタラ(預言書) サムエル記第二 6:1 ~ 7:17
新約聖書 マルコ 7:1 ~23
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
神の神聖さ
ユダ・バハナ
今週のパラシャも、とても意味が深いものだ。その内容は明白ですぐに理解できるものもあれば、隠されており注釈・解釈によって初めて明らかになるものもある。
このパラシャはきよいものと忌むべきもののリスト、現代で言う『コシャー』という食物規定が主要テーマになっている。パラシャのほぼ半分がコーシャについての説明だ。これらは何世代にもわたってユダヤ人のコレクティブとしてのアイデンティティーを構成してきた。そして異邦人にとっても「ユダヤ人=豚肉を避ける」という共通認識が紀元前よりあり、ユダヤ人を示す象徴となった。
より深く隠された意味を持つのは、幕屋の奉献の直後のアロンの息子たちの罪と死だ。想像以上の悲劇であり、これはアロンたち祭司たちに恐ろしいトラウマを残した。しかしそこでは何が起こり、なぜ起こったのだろうか。
イエス/イェシュアは食物規定を否定したのか?
まず、食用するべきでない動物=コシャーのリストから始めよう。
ユダヤ人氏を通じてどの世代でも、なぜそれを食べることが禁じられているのか、説得力のある説明を探しているようだ。
コーシャがあったので、イスラエルが世界中に離散していた時も他の国から区別・分離させ、民族が同化/混ざり合わずに保たれたと考えることもあれば、コーシャは健康上の理由から与えられたと考えられることもある。つまりユダヤ的食事法は健康な生活を送るためのレシピ、といった具合だ。またはその両方の理由から、神がコシャーを守るよう命じた可能性もある。
このように私たちは神からの戒めの背後にある論理を、理解したい傾向がある。その戒めを守る意味・意義を考え、自身の置かれた時代や年齢に合わせて答えを出そうとする。
そしてこの戒めについての学びや理解は、ユダヤ人としてのアイデンティティを維持するために役立つ。コシャーを守るということは、(特にイスラエル以外の離散の地においては)自然と一般的な食生活から一線を画し、少し距離を取ることを意味する。過去2000 年間の離散の歴史を通して、コシャーを守っていた家は(たとえ迫害があるような環境にあっても)ユダヤ人としてのアイデンティティ維持に成功したことは明らかだ。
神は私たちイスラエルを「聖なる者」と呼ぶが、聖なる、それは「世から分けられた」という意味だ。そしてコシャーではない動物の長いリストの後に、次のような神の呼びかけがある。
この戒めは、コーシャの食品と関係がある。
私の理解では、神が私たちを他の国・民族から区別され続けるように召され、そのために最も効果的だったのは私たちに周囲の民とは異なる料理・食事の文化・習慣を与えることだった。そしてこれは、歴史を通して証明されてきた。
そしてこのコシャーというトピックは、ユダヤ・キリスト教の世界で最も一般的な議論に行き着く。口に入るものについて語ったイェシュアの言葉から見た、コシャーついてだ。イェシュアは私たちに、非常に重要な原則を教えている。
このイェシュアの言葉は、一般的にコシャーとそれを規定しているトーラー(律法)の否定・反論として理解されている。
しかし実際にはそうではなく、イェシュアは預言者イザヤの精神で語っているのだ。イザヤは「神は犠牲・いけにえを必要としていない」と語っているが、トーラーでは犠牲の捧げ物が明確に命じられている。しかしこれはイザヤが犠牲・いけにえを否定・廃止した訳ではない。
イェシュアが意図したのも、同じ精神だ。人の口に入った汚れたもの=コシャーではない食物は人を汚すが、翌日にはきよくなる。人に(汚れという)悪影響を及ぼすのはほんのわずかな期間だが、私たちの口から出る言葉は、私たちとその言葉を向けた他の人というより多くの人を傷つけ、それによる悪影響(傷やトラウマ・嫌悪など)はより長く続いてしまう。
私はコーシャ法を守っているが、トーラーによれば食品からの不純物(ノン・コシャー)は1日の汚れという非常に軽度の違反であることは、理解している。
イェシュアがこの言葉で意図したは、私たちが自分の口に入るものに気をつけているなら、それ以上に、他人への誹謗中傷、うわさ話、侮辱など、自分の口から出てくるものに気をつけなければならないとの教えなのだ。
イスラエルを再び襲った悲劇
今週のパラシャは「八日目(シェミニ)」という単語から始まっているが、その八日前には何が起こったのだろうか―8日目とは何の8日目なのだろうか?
一般的な解釈は、幕屋が完成してから機能し始めるのに七日かかったということだ。その間に祭司が任命され、会見の天幕のきよめの準備が行なわれた。
7日目までは天幕のきよめの日だった。そして8日目に、幕屋での神の奉仕が始まったのだ。
幕屋の建設中、イスラエルの子らは多くの寄付/献金・奉仕を行なっていたので、民全体が神との交わりが始まるのを心待ちにしていた。聖所での聖なる働きを始めるためだ。
そしてそれが、ついに来たのだ!
ここで今までを少し振り返ると、出エジプト記ではイスラエルの子らが、劇的な出来事が連続し、彼らの霊的な状態は大きな浮き沈みを味わった。世界有数の軍であるエジプト軍が彼らに追いつきそうになるという、体が硬直するような恐怖の瞬間。そして紅海を無事渡れたという、驚くべき奇跡。すべての困難と論理・常識を超越した奇跡、そして大きな罪に十戒の授与。
このようにイスラエルの子らは、想像を超えるような起伏を経験した。そして、出エジプト記の終わりに、神の栄光が全イスラエルの目の前で幕屋全体を満すという、霊的な最高到達点を迎えた。神はイスラエルの働きを受け入れ、その瞬間から私たちの中に住まわれた。
そして今すべての仕事が完了し、祭司の装束が作られ、祭司の交代が任命され、奉献の命令と仕事が詳細に渡って整理された。お祝いの最中、イスラエルをまた別のトラウマ・悲劇が襲うこととなる。
アロンの2人の息子、聖所で仕えるよう召された祭司たちが、神の罰で火によって焼き尽くされたのだ。ここでは、何が起こったのだろうか?
異なる火を捧げたアロンの息子たち
アロンの息子たちに対する厳しい処罰の理由は、聖書の中にはっきりと述べられている。
しかし、この説明は明確なものではない。
したがって何世代にも渡り、トーラー・聖書解釈者たちはその罪を説明し―
酔っ払った
手足を洗わず(清めを行わず)に来た
反抗心や精神的な快楽
などの理由を挙げてきた。これらの解釈には程度の差は異なるが、それぞれ聖書やロジックに基づいている。例えばアロンの息子たちが酔って聖所に来たという主張は、罰の直後に起こったことに基づいている。
彼らの死の理由が、酩酊状態で異なる火を捧げたと結論付けるのは簡単だ。
アロンの息子たちが酔って神に仕ようとして来て、彼らが死んだ直後に神は、幕屋で奉仕するときはアルコールを控えるよう警告を与えている。さもないと、あなたたちは死ぬと。
神聖さの問題を強調する解説者もいるが、私は聖書における彼らの罪に関する説明に焦点を当ててみたい。
新約聖書では、神は火として表現されている―
神と火
「神からの火」は、神がアブラハムと結んだ契約の時に始まっている。アブラハムと神が契約を結んだ時にいけにえの間を神秘的な火の柱が通過したように、イスラエルの歴史の重要な瞬間に神からの火が起こっている。
神の火は燃える茂みの中に再び現れ、その場所が「聖なる」場所であるとはっきりと語られた。神はモーセに立ち止まって近づかないよう命じた。そして、モーセは靴を脱いだ。
そして出エジプト記では、神の火がさらに大きなものとなっている。主ご自身が雲の柱・火の柱という形でイスラエルを導いた。
そして主は、火の中でシナイ山に降りて来られた。
そして今週のパラシャでは、天からの火が再び降りて来る。モーセは次の序文で、神との出会いのためイスラエルの子らに準備をさせている。
そしてすべての作業が最後まで行なわれた後には―
これらすべての例において火の源は神であり、人によるものではない。そしてこれらの火は、通常の火として機能しない。その火はいけにえを焼き尽くすが、火は燃えていても柴は燃えて行かず、手付かずのまま残った。神の火はエリヤの時のカルメル山のように、水に浸された祭壇の上にも降りて来る。水は神の火を妨げることはできず、水も燃え尽くされる。
では、この神の火とは何か?神の火は聖霊、神の臨在であり、それはさまざまなレベルの神聖さを現す。聖霊は人の中に宿ることができ、預言やその他の霊の賜物で私たちを満たし、また人と神をつなぐ。
新約聖書でイェシュアは、メシアに仕えるすべての弟子の中に聖霊が宿ることを約束している。ペンテコステ/シャブオットの日(伝統によれば、この日は律法を与えられた日でもある)、神の火がシナイ山に降りたのと同じように、イェシュアの弟子たちの上に神の聖霊が降りた―
新約聖書は、聖霊を火のように描写し、炎の舌が弟子たち一人一人の上にとどまったのだ。
神・聖霊の冒涜に故意か否かは関係ない
アロンの息子たちに戻ろう。
火は神から出、祭壇のいけにえを燃え尽くした。それは天の火であり、神聖で聖なるものであり、冒涜してはならない。しかし、アロンの子らは、書いてあるように、新しい人工的な火、彼ら自身が付けた火を外から天幕に持って来た。
これは別の異なる火であり、神の神聖な火に対する冒涜だった。そして聖霊・神への冒涜に対する赦しはなく、その罰は迅速なものだった。火が神からその直後に出て、アロンの子らを焼き尽くし、彼らは聖所の前で死んだ。
新約聖書も、神の御名や聖霊を冒涜することには赦しも憐れみもないことを教えている。
誤ってか悪意を持ってかは分かる由もないが、アロンの子らはモーセを通して与えられた神の火=秩序を変えようとした。後にコラと仲間を火が焼き尽くしたのと同様に、火は彼らを焼き尽くした。
ナダブとアビフの行動は故意によるものだったのか、それとも過ちだったのだろうか。これに関しても、解釈者たちの意見は分かれている。
私は彼らに悪意はなく、過ちだったと考える。そのヒントが、ハフタラ(パラシャに対応する預言書)の第二サムエル記6章だ。神の箱が荷車でエルサレムに移されたとき、ある時点で荷車から落ちそうになり、反射的にウザは手を伸ばしてそれに手をかけた。そして彼は契約の箱に触れると、すぐに死んだ。
ここを読むと、ウザに悪意があったとは思えない。それどころか、契約の箱のことを着に欠けてのことだった。しかし彼はその神聖さを冒涜したため、彼は契約の箱に触れた代価を支払うこととなった。
このハフタラから考えると、アロンの子らは誤って罪を犯したのではないか。彼らは天幕が完成・奉献された喜び・祝いを目にした。彼らは神の臨在という人々と神の近さに興奮を覚え、共に高揚するイスラエルびとを見た。
しかし神は人々に近づけば近づくほど、自身の神聖さをはっきりとは表されなくなる。シナイ山のように山のふもとと言う遠くから見るとそれは強力な火に見えるが、群衆の中であればそれは頭上のろうそくのように小さく見える。人は神を見ることができず、神に近づけば人は生き続けることができないからだ。
モーセに対して神は、このように言われている―
イスラエルの民の目には、神の啓示も満足ではなかったのかもしれない。または、ナダブとアビフはその神の臨在に対して何かを追加し、増幅させたかったのかもしれない。
恐らくそんな純粋な神への接近への求め、そして民が神とさらに近づくために、彼らは火を加えたのだろう。そしてそれは彼ら自身の手による、聖所の中への持ち込みは禁止されていた異なる日だった。
そしてその意図に関わらず神の神聖さを冒涜した彼らは、代償を払ったのだ。
今週のパラシャは、神の神聖さを故意にであったとしても冒涜しないよう細心の注意を払う必要があることを教えている。
そしてそれへの予防策は、集会所・教会・シナゴグといった神の家で適切な敬意を払うことから始まる。
敬意と謙虚な精神を持って、祈り賛美し、主の御顔を求めよう。
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。