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第49週:キ・タボ(あなたが入った/来た時)
基本情報
パラシャ期間:2024年9月15日~ 9月21日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 申命記 26:1 ~ 29:8
ハフタラ(預言書) イザヤ 60:1 ~ 60:22
新約聖書 ガラテヤ 3:1 ~ 3:14
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
聖書を記憶し喜ぶ ~実を結ぶ鍵~
ユダ・バハナ
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今週のパラシャは、初穂の戒めから始まる。私たちは十分の一の捧げ物と共に、この良い土地に対して神へ感謝を捧げるのだ。
乳と蜜の流れる地
これこそ神が私たちの先祖に約束し、イスラエルに相続地として与えられた土地だ。
そしてこの初穂の戒めは、イスラエルの民と土地が持つ密接なつながりを表している。この特定の戒めは、11節にもわたって戒めのさまざまな要素を段階的に説明している。
これらの要素が一緒になって、初めて戒めが完成するのだ。
まず初穂は祭司に捧げられ、神の祭壇の前に置かれなければならない。それから、初穂を捧げた者は、周囲の人々にイスラエルの救いの物語を語らなければならない。この物語は、私たちが約束の地をどのように受け取ったかについてで終わる。私たちはこの肥沃で恵まれた土地を受け取った。これは最上の喜びだ。11 節はまさにその瞬間、私たちが持つべき感情を要約している。
あなたの神、主があなたとあなたの家に与えられたすべての恵みを、
あなたはレビ人および、あなたがたのうちの寄留者とともに喜びなさい。
神は私たちを耕される
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新約聖書、特にイェシュアは私たちを実のなる木に譬えている。私たちの最大の使命は、なすべきことを成し終える=実を結ぶことだ。義と正義の実だ。では新約聖書は、どのような実のことを具体的に言っているだろうか?
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
しかし実を結ぶということは、従順に神の言葉を宣言することを意味する場合もある。イェシュアは、たとえ話の1つで、イスラエルまたは信者の共同体を、ぶどう畑に植えられたいちじくの木に例えている。
イエスはこのようなたとえを話された。
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。
『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
番人は答えた。
『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」
このたとえ話はイザヤ書 5 章1節の、ベン・シェメン(「肥えた山」と和訳されている)にあるぶどう園の詩を思い出させる。イェシュアの譬え話では、所有者はいちじくの木の実を楽しむために毎年ぶどう園を訪れるが、いちじくは実を結んでいなかった。そこでぶどう園の所有者は、その木を切り倒そうと考えた。しかしぶどうを栽培していた番人(=イェシュア)は、いちじくの木に投資をし、肥料を与えて周囲の土を耕し、木に十分な水を供給するよう提案している。
同様に、イザヤのたとえ話に出てくるぶどう栽培者も、ブドウ畑の周りを掘ったり、石を取り除いたりして、実際に投資をしている。 その後、彼は厳選したぶどうの木を植える。
そんな全ての作業や投資にもかかわらず、ぶどう園は良い実を結ばなかったとイザヤは説明する。最終的にぶどう畑の周囲の壁は取り除かれ、よそ者や敵が無防備なぶどう畑に侵入するようになる(5:5)。これは、敵の呪いと勝利について語る今週のパラシャの二番目の部分に繋がっている。私たちが神の戒めを放棄したら、私たちにもこのようなことが起こり得るのだ。
聖書の原則:親から子へ
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(facebook.com/Alonim.Mgar より)
これらのたとえ話は、私たちへの警告として、また反対に希望を与えるために書かれている。私たちには行動を修正し、悔い改める時間が残されている。イェシュアのいちじくの木のたとえは、神がいかに忍耐強く喜んで、私たちに惜しみない投資をしてくれるかについて教えている。まだ希望があり、悔い改めて実を結ぶ時間はまだある。実とは義と神に従順なライフスタイル、そして神の言葉・トーラー(教え)を全世界に伝えることだ。そしてこれは、神の言葉を宣言するという神からの要求に繋がる。また、すべての親が子供に伝えなければならない事柄にもつながっている。
これは、私たちの先祖がエジプトで受けた恐ろしい拷問から始まる物語だ。しかし、出エジプト記の冒頭に書かれているように、神は苦しみと並行して、この民の本当に祝福して(出生率を通じて)増やして下さった。
しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がった。
エジプトで人々は叫んだ。
私たちが私たちの父祖の神、主に叫ぶと、主は私たちの声を聞き、私たちの苦しみと労苦と虐げられている有様をご覧になりました。
そこで、主は力強い御手と伸ばされた御腕によって、恐ろしい力と、しるしと不思議をもって私たちをエジプトから導き出し、この場所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに与えてくださいました。
私たちの民の物語は約束の地へと入るまで、荒野での長い旅が続いている。
そしてこの物語とそれを語る目的とは、私たちのアイデンティティと集団的記憶を次世代に伝えることだ。そしてその物語のクライマックスこそ、収穫の初物を神に捧げて行う神への感謝なのだ。
私たちのナラティブを次世代に伝えることは、本当に重要なことだ。実際それは、ユダヤ人のアイデンティティの根本・コアとも言えるだろう。私たちの物語は聖書に記録されており、そこには私たちは誰で、どこから来たのか、そしてなぜ今ここにいるのか、などについて記している。そして私たちほど自身の民のナラティブを語り、継承し続けた民族は地球上にいないだろう。
私たちの(エジプトとそこでの奴隷からの)救い・救済の物語を後世に伝えるという戒めは、初穂の戒めや今週のパラシャのみに見られるものではない。実際には聖書の中を通じて何度も登場し、出エジプトに関連する聖句にはよく見られるものでもある。
私たちの祭りも、そのナラティブに関連したものだ。1月後に迫った仮庵の祭り/スコットの期間中、私たちはスカー/仮庵を建て、子供たちはそれを飾り付ける。これは荒野での放浪の旅を再体験するものであり、過越の祭りも出エジプトによる救いを祝うものだ。
あなたは、あなたの神、主の前で次のように告白しなさい。
「私の父はさすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。しかし、エジプト人は私たちを虐待し、苦しめ、私たちに激しい労働を課しました。
私たちが私たちの父祖の神、主に叫ぶと、主は私たちの声を聞き、私たちの苦しみと労苦と虐げられている有様をご覧になりました。そこで、主は力強い御手と伸ばされた御腕によって、恐ろしい力と、しるしと不思議をもって私たちをエジプトから導き出し、この場所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに与えてくださいました。
スコットやペサハなどの祭までもが出エジプトの物語を伝えるためなのだが、次世代に伝えることがなぜそれほど重要なのだろう。なぜなら、私たちの物語は救いと奇跡の物語であり、希望やビジョン、あらゆる困難を乗り越えた成功体験に関する物語だからだ。これらの物語は、「十戒」や「プリンス・オブ・エジプト」など、数々の名作にもなっている。
しかし、大切なのは、私たちの物語が美しく特別かどうか、どれだけ多くのベストセラー映画を生み出すか、ではない。世界中にはもちろん素晴らしい物語が数多あり、それを取り扱った名作映画もある。
なぜ私たちは神から、物語を語るよう命じられているのか?
子供たちに伝えることが、なぜそれほど重要なのか?
これは私たちが世代から世代へと教えるよう命じられている物語で、私たちに帰属意識とアイデンティティ、存在する権利・意義と人生の意味を与えている。
キリスト者が旧約を記憶する意味
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この現代において自身の歴史を学ぶことは軽視されてはいるが、これは非常に重要なことだ。なぜならイスラエルは、物語を語り集団の記憶を(神からの教え・トーラーにより)保持し続けたからこそ、地上から姿を消すことなく生き続けた。その歴史の大半を、希望がなく客観的に見て存続する可能性がほとんどない民族であったのもかかわらず、だ。
そして今日私たちは父祖の地に戻り、ここにいる。新しくなったエルサレムの町に住んでいるのだ。
こうして私たちの物語は、宗教・信仰的的習慣を通じて忠実に受け継がれて来た。実際この物語を受け継ぐ伝統によって、イスラエルは約束の地に戻ってきたとも言えるだろう。
またメシアニック・ジューである私たちにとって、思い出すこと、という考えは非常に重要だ。この戒めにより私たちは、今でも出エジプトを鮮烈に覚えている。そして私たちの信仰は聖書というルーツに、根付き続けている。力強い御手・差し伸べられた御腕によって、イスラエルはエジプトから救い出された。そして私たちはそのことを、日々の生活の中で思い出している。さらに終わりに来るであろう主の日まで私たちは、この救いの物語を覚え続けるだろう。
これは私たちを救い出し、永遠の命へを与えたメシア・イェシュアを記憶する、そのベースなのだ。
約束の地や幕屋、祭司の奉仕など、毎週のパラシャで触れられているテーマは全て、私たちの完全なる救いへの重要なステップだ。そしてこのプロセスは死後終了し、来るべき世で義人はほうびを受けることになる。そして私たちはイェシュアこそがメシアであると、信じている。聖書の全体に約束されている、あのメシアだ。イスラエル全土と全世界が待ち望んでいるメシア。神は私たちをイェシュアを通じて救い、永遠の約束の地へと入りそこを相続することを保証された。
だからこそ、これら出エジプトとその救いの物語を覚え、学ぶことがビリーバーである私たちにとって非常に重要なのだ。私たちはそのストーリーの延長線上に位置し、私たちのこれからの歩みもその上を歩き続けることなのだから。
神の言葉を学ぶことは、私たちの信仰の基本であり生き方だ。さらに、信仰におけるアイデンティティを確立し、生きた記憶とするのに役立つ。
そのための儀式の代表例が、主の晩餐だ。
主の晩餐・聖餐式は安息日の「キドゥッシュ(聖別を意味する食事前の祝福)」に似ており、パン(またはマッツァ)とワインによる祝福から成っている。この儀式は、イェシュアの救いの行為の記念として現在でも記憶され続けている。
このような儀式や行為が、ビリーバーとしてのアイデンティティを保ち、強めるのだ。
喜びをもっての奉仕
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したがって「この祭の時には喜べ」との聖句が書かれた、パンを覆うカバーも売られている。
(mina-artstudio.com より)
初物の戒めに戻ろう。
これは喜んで実行しなければならない。
あなたの、神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、
あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。
これは、何を意味するのだろうか?
確かに喜びは、神に仕えることからもたらされる。私たちはどのようにして喜んで神に仕える、そして仕えるべきなのだろうか? あるいは、そもそもどうやって神に仕えるのだろうか?
神に仕えることには、神の言葉を学ぶことや祈りももちろん含まれる。しかし私が考えるに、より重要なのは、聖書的な基準に従って日々の生活を送るという、行い・実践だ。トーラーは「人と隣人」の間、そして「人と神」の間という2つの軸で、正しく公正なライフスタイルを維持するため、トーラーというコンパスを私たちに与えられた。
「人と隣人との間」の律法・戒めを通して、私たちは自身の行いが正直で信頼されたものであるよう求められている。そして「人と神の間」の律法・戒めでは、家族でスカー(仮庵)を建てて安息日を覚え、初物を捧げラッパの日(ロシュ・ハシャナ/新年)にショファー/角笛を吹き、私たちの物語を語り続ける必要がある。もちろん私たちは、これを喜びと共に行なっている。この喜びがあってこそ、社会や共同体に対して忠実に奉仕し続けることができ、また神に捧げることができるのだ。
「喜び」という言葉はこのパラシャにもう一度出てくるのだが、それは警告の文脈だ。
これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついには、あなたを根絶やしにする。あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、主が命じられた命令とおきてとを守らないからである。これらのことは、あなたとあなたの子孫に対して、いつまでも、しるしとなり、また不思議となる。
あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、
あなたが繁栄している時、喜んで神に仕えなかったとある。なぜ、喜んで神に仕えないのだろうか?
さまざまな理由があるだろうが、その1つはこの箇所の最後にある「豊かさ/繁栄」という言葉に関連する。私たちがうまくいき成功しているとき、私たちの頭の中をよぎる考えがある。
私が、自分の力と努力でこれをしたのだ。
そして、私たちは少しずつ自分の力に頼り、神を忘れ始める。私たちは自分のことで忙しくなり、神のために過ごす時間はもうないのだ。
こうして私たちは、人生の指針となるはずの神の御言葉や原則から徐々に離れていく。イザヤのぶどう園の詩やイェシュアのいちじくの木のたとえ話にあるように、神は私たちを十二分に気遣い、養ってくださっているにもかかわらずだ。
だからこそモーセはこのパラシャで、次の明確な選択肢を提示している―
私たちは喜び忠実に、自ら進んで神に仕えることができるし、仕えるべきなのだ。そしてこれが私たちが選択するよう勧められているものであり、次の祝福につながる。
あなたがあなたの、神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに望み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。
しかしもう1つの道は、神も神の祝福もない道だ。
その道は次の恐ろしいのろいにつながる。
あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。
このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。
民はみな、アーメンと言いなさい。
イェシュアは私たちを贖い借金を返済し、それによってこれらののろいを一掃した。
この喜びのメッセージで、今週のパラシャを終えたいと思う。困難・苦しみ・孤独の影にあっても喜ぶことができれば、打ち負かされたり敗北したりすることはない。まさにユダヤ民族のようにだ。
だからこそ私たちユダヤ人、そしてアブラハムの子孫に加えられた全てのキリスト者は、喜ぶように命じられているのだ。
さぁ、もうすぐ秋の祭だ。
この1年はイスラエルにとってもつらい1年となったが、喜びと共に新しい1年を迎えたいと思う。
神が皆さまを、多いに祝福してくださるように。
シャバット・シャローム!