第36週:ベ=ハアロテハ(あなたが設置する・載せる時)
基本情報
パラシャ期間:2023年6月16日~ 6月22日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 民数記 8:1 ~12:16
ハフタラ(預言書) ゼカリヤ 2:10 ~ 4:7
新約聖書 ルカ 10:1 ~ 24
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
外側を見る前に内側を見る
ユダ・バハナ
今週のパラシャ(通読箇所)「ベ=ハアロテハ」は、「あなたが設置するとき/際」という意味だ。
ヘブライ語で読むとこの節は、メノラ(燭台)のそれぞれのランプが内側・中央のランプ・灯を向き、照らしていたと読める。ミドラシュ(ユダヤ的な聖書解釈)によれば、これらのメノラのランプを見た人は自分自身とその灯たちとを比較する、と言う。
何よりもまず私たちは、自身の内側に対して光を向ける必要がある。まさに神殿・幕屋のメノラと同じように。私たちはまずベクトルを外に向けるのではなく、自分自身と向き合わなければならない。特に何かで批判するときは、よりこの点に気を付けなければならない。
内側を照らす光の重要性
私はこの考えこそが、イェシュアの教えと新約聖書の基礎だと思う。
他人の間違いを裁き指摘するのではなく、むしろイェシュアは自分自身の良い特質・信仰に対してこそ熟考することを求めている。私たちのランプがその内側を照らした時に初めて、私たちの内のメシア・イェシュア(イエス・キリスト)の光を通して、私たちは世界を照らすことができるのだ。
このパラシャの終わりには、内側を照らす光の例が示されている。
ミリアム、アロン、モーセの三兄弟の興味深い物語を見てみよう。ミリアムはアロンと共に預言の賜物に関して、モーセを批判している(12章)。彼らは、「神はモーセにだけ語られるのは、おかしい」と感じ、その後「自分たちにも語られている」と結論づけた。しかし実際は、彼らから批判の的となっていたモーセについては、こんな聖句がある―
モーセの柔和・謙虚さは、この場面で兄姉たちの間違った指摘・非難を浴びた時に自分を守ることをしなかったことからも分かる。モーセは中傷や嫉妬であるという点を一切指摘せず、淡々と彼らの言葉を(賛同はもちろんしていないが)受け入れている。
その後神は、アロンとミリアムにモーセは他の預言者たちとは違うと説明している。
神は幻・夢・謎を通し、すべての預言者に語りかける。しかし、モーセに対しては、面と向かって話されたとある。そこで際立ち、恐らく決め手となったのが、モーセの柔和・謙虚さだ。しかし周囲の人々(彼自身の兄弟を含む)は、モーセと神との特別な関係に気づいていなかった。私たちも同様で、おそらく主にミリアムが罰を受けた後に、モーセの偉大さを見ることができる。ミリアムはツァラアトという罰を受けたが、これは神による報復のしるしだ。モーセはそれを喜んだ、またはそれが当然だと感じていたのだろうか。
しかし神がミリアムを罰した際、彼はすぐに神に向かって叫んだ。
モーセはたとえ自分が傷つけられても、姉がその報いとして傷つけられることすら望んでいなかった。 モーセは真の愛に満たされており、パウロはそんな真の愛を次のように定義している。
人とは、不満を言うもの
批判が内向きに、つまり内省から始まらないとどうなるだろうか?私たちが責任をとらないと、どうなるだろうか?苦い気持ちが心を支配し、そんな心を持った共同体には暗雲が立ち込め、リーダーにとっては大きな問題となる。
おそらく歴史を通じて、人々は時の指導者に対して腹を立ててきた。
私たちは良いか悪いかに関係なく、過去のリーダーたちを振り返って懐かしむ傾向がある。人の記憶は、本当に非常に短い。このパラシャでも同じ現象が見られ、たった2年しか経っていないのに、イスラエルはすでにエジプトでの苦しみを忘れ、エジプトがいかに良かったかと懐かしむ。
顔と顔を合わせて神と語った、預言者モーセについて振り返ってみよう。
神の怒りと民の間の緊張を緩和する者となった、偉大な指導者だ。心身をすり減らし、その頑固さとイスラエルの民への愛を原動力に、私たちを救ってくれた。このようなリーダーが、現代にも立てられることを願いたい!
ではなぜ、イスラエルの子らはモーセへの不平を言い続けたのだろうか?またモーセの近親者を含めて、なぜモーセは常に攻撃されたのか。
なぜなら、それが人に内在する傾向だからだ。
私たちは快適な形でソファに座り、他人を批判するのが好きなのだ。私たちは外野という安全な場所から、野球やサッカー選手に向かってこう叫ぶ― あんなミスをプロでするとはなんということだ/ あれぐらいなら私だってできる!
私たちは他人を非難し、それにより満足・快感を得る傾向がある。他人に批判の矢を向けることで、自己批判という自身へのベクトルを一時的に忘れることができるからだ。
人である私たちは利己的・自己中心で、自身が何に値し何を受けるべきかを考えがちだ。私たちはそれに対して変化を起こすべきで、それは私やこれを呼んでいるあなたといった、一人一人から始まるのだ。
敵とは外か、それとも内か
このトーラーの箇所には有名な祝福が含まれている。
この祝福は、何だろうか。敵とは誰を指し、どんな敵のことだろうか。「内なる敵」だろうか?しかし内なる敵は、外の敵より有害ではない。しかしこの考え方は、祝福の直後に出てくるようなことを引き起こす― 人々は不平を言い、暴動を起こし、泣き始めるのだ。そしてこれらすべてのことは、キブロテ・ハ・タアワで起こった。これは「欲望の墓」という身であり、これはこの反乱・反抗によって命を落とした多くの人々の墓にちなんで名付けられた。人が内に持つ敵によってイスラエル内部は冒されていき、多くの死傷者が出た。そしてこの騒動は、ミリアムとアロンというモーセの『身内』による更なる騒動に繋がって行くのだ。
来週、私たちは「シェラフ・レハ(13:1~)」のパラシャを学ぶ。
ここではイスラエル国家のさらなる反乱の後に、全世代が死ぬまでの40年間の荒野での放浪という、罰が与えられることになる。
さて、ここでもう一度問いかけてみよう― 外と内の敵、どちらがより悪いものだろうか?
イスラエルの人々は出エジプトの間、絶えずモーセに不平を言う。
そうした内から出る葛藤や問題=敵は、指導者モーセに致命的なダメージを与えた。共同体は外部からの敵と対峙する時は、団結し強く意欲的に行動するものだ。例えば現在のイスラエルが、それを鮮やかに体現している。昨年10月7日以降、国には一致と団結が満ち溢れている。
しかし内部からの敵に直面した時、道徳は徐々に崩壊し絶望へと転がって行く。
モーセはどうすべきなのか?
偉大な指導者モーセでさえ、たとえ根拠がないものだったとしても、絶え間ない暴言や批判に耐えることはできない。だからこそ燭台や私たちの人生が灯す光は内側を向き、照らさなければならないのだ。自信にベクトルを向け、自問すべきだ。そして立ち上がり実行し、また向上しようとしている人をサポートするべきだ。
メノラ(燭台)は、イスラエル・ユダヤ人の主要な象徴となっている。実際に、メノラはイスラエルの国章となり、その左右にはオリーブの枝があしらわれ、平和への願いを象徴している。
これは、ゼカリヤ書4章に基づいている。
そして続く6節には、あの有名な聖句だ。
パウロは、この「人間の力ではなく、主の霊によって」という言葉に対する理解を、次のように説明している。
救いは人間の力によるのではなく、神のあわれみの結果であることを意味する。
その一例はエジプトからの脱出にも見ることができる。イスラエルが救われたのは、自らの救うだけの強さがあったからではなかった。400年もの間、イスラエルびとは自身を救うことができなかった。そこで神は彼らをあわれみ、力強い御手と差し伸べ、その御腕によってイスラエルをエジプトから救い出した。
それは人間によるわざではなく、完全に神の救いだった。
イスラエルという『ひな形』
イスラエルの歴史はまさに救いや神とのつながり、主への奉仕という概念のひな形だ。そして今週のパラシャの最初の部分では、幕屋での務めのためのレビ人のきよめを取り扱っている。
この幕屋の奉献やレビ人・祭司のきよめなど一連の出来事は、出エジプト記での記述と似ていることに気づく。
では両方の書に言及されている、時間に注目してみよう。『出エジプト記』にはこのようなタイムスタンプが、言及されている。
民数記の対応する、今週のパラシャにはこうある―
このように、同じ時期のできことであることを示している。
出エジプトもまた、救いのひな形。そしてトーラーにはヘブライ人の奴隷からの救出・イスラエル国家への移行というプロセスが、非常に詳細に記されている。
しかしこの記述の大部分は、神の幕屋の建設というプロジェクトによって占められるのは興味深い。後代の第一神殿の落成式で、ソロモンは次のような修辞的な質問をしている。
天が神を入れることができないなら、人はどうして(神が入り住まうことのできる)神の家を建てることができるか?
今週のパラシャやトーラーの大きな部分を占める幕屋を建てる手順などの、「退屈な部分」を読み飛ばすと、私たちは神の言葉の偉大で意味深い深みを逃してしまう。実は重要なのにその大きな意味を理解できず、自分のもの・信仰生活の糧にすることができない。
たとえば天地創造と比べると、明らかに幕屋やそこでのきよめなどについての記述の方が長い。しかし私たちはより簡略的に記されている天地創造についてを、より好んで読み学ぶ傾向がある。幕屋の建設やその内容は何章にもわたって、細部に至るまで説明されているのに、だ。建設だけでなく幕屋で行なわれる奉仕の種類、レビ人および祭司、犠牲に関する指示も非常に詳しく描かれている。
神に私たちの何が必要だろうか?
ソロモン王は「神に家が必要だろうか?」という質問をしている。
そしてこのパラシャからも、同様の疑問を投げかけることができる。例えば冒頭で神は、アロンにメノラの燭台に灯火を灯すよう求めている。しかし神はメノラ・燭台の光を必要とするだろうか。神は人のように、何かを見るために光を必要とはしない。
黙示録を見ると、神と新しいエルサレムが光として描写されている。
もし神が光ならば、イスラエルの子らが灯したメノラの火に何の価値があるのか。
この問題に光を当てるために、民数記8章に関する興味深いミドラシュ(ユダヤ的聖書解釈)の言葉を紹介したい。
王が友の家にやって来たが、友は高貴ではない平民だった。しかし彼は彼なりに、王室訪問の準備に全力を尽くす。王に敬意を表して食事を作り、家具を準備する。しかし王の栄光・富・輝きを見ると、自身の用意した全てを恥ずかしく思い、それを隠す― 自然な反応・高位だ。
しかし王は友人、正確に言えば友人の心と愛に応え、友情のために高価なものを喜んで放棄すると言った。あなたが用意したものだけを使おう、と。
なぜなら王は、彼の努力と心意気のこもったもてなしを知っているからだ。
これは、教会やコングリゲーションにも言えることだ。
いくら賛美音楽で有名な教会やシナゴグがあったとしても、人である私たちの歌や礼拝は、とれも天で奉仕する天使たちの歌声には比べられない。比較にすら、ならない。しかし、神は私たちの心から出た祈り・礼拝・感謝が天国の門に届くのを、愛を持ってご覧になっている。
私たちも、先ほどの話の王の平凡な友人と同様に考えるかもしれないが、神は先ほどの王のように、私たちの努力を愛をもってきちんとリスペクトされているのだ。
新約聖書で、イェシュアはこう教えている―
この義人たちは王に尋ね、神に尋ねる。天の父よ、いつ私たちはあなたにこれらのことをしましたか? 神に服が必要でしょうか? 神に、私たちのような人間の訪問が必要でしょうか?
すると主はこう答えている。
神への私たちの愛と奉仕は、周囲の(神の姿・形にかたどって創造された)人々への愛と奉仕から始まる。 新約聖書は、どうすれば神に仕えることができるかという私たちの疑問に完結かつ実践的な答えを与えているのだ。
神は私たちにメノラの灯をともすよう、命じられている。たとえ、ご自身が光であってもだ。
メシア・イェシュア(イエス・キリスト)と新約聖書は、神の被造物に仕えることが神に仕えることだと教えている。神がご自分の姿に似せて造られた、人々に仕えることによってだ。
神は私たちの心を試し、そして神の目に最も適い、価値あるもの、それは私たちの心の意志から来る行為なのだ。
日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?