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第51週:ハアズィヌ(耳を傾けよ)
基本情報
パラシャ期間:2024年9月29日~ 10月5日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 申命記 32:1 ~ 32:52
ハフタラ(預言書) IIサムエル 22:1 ~ 22:51
新約聖書 ローマ 12:9 ~ 21
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
イスラエルの存在=奇跡+神の働きの証明
ユダ・バハナ
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イスラエルの平和と、師の無事をぜひお祈り下さい。
モーセは今週パラシャット・ハアズィヌで、最後の歌を歌っている。
音楽は人生において重要な役割を果たしており、私たちの祈りの中心だ。「ペスケイ・デ=ジムラ」としても知られるユダヤの朝に唱えられる祈りは、あらゆるメシアニック・コングリゲーションやクリスチャンの礼拝の最初にある賛美と同様、神の御前で会衆として1つになる人々を霊肉ともに整える役割を果たしている。
なじみのあるメロディーは私たちを霊的な雰囲気へと誘い、祈りとメッセージを頭だけでなく体で理解し感じさせる。
イェシュアが生きたエルサレム神殿があった時代でも、巡礼者が神殿の丘に登る際にレビ人の歌や演奏を耳にし、霊を高めていた。
神殿でのレビびとたちによる音楽の再現を試みたもの。
(歌詞は詩編150篇)
天地を創造し、私たちを造られた神
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天体観測の聖地でもある。
(astronomy.org.il より)
今週のパラシャの中での重要な箇所は、モーセが死ぬ日にイスラエルの人々に朗読した詩だ。
当時のイスラエルびとを越えて歴代のユダヤ人たちに影響を与え、この詩が持つ時代を越えた重要なメッセージは人々の心に植え付けられている。この詩はイスラエル民族の歴史だけでなく、未来をも描いている。
このハアジヌ(聞け)の詩は一定の構造で構成されており、次の言葉で始まる。
天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。
この言葉は私たちに対して、天地を見てどのように神の意志が忠実な方法で実行されているかを知るようにと告げている。これに関してミドラッシュは、次のように説明している―
『天よ、耳を傾けよ、そうすれば私は話そう。』
主はモーセに対してイスラエルにこう言うよう命じた。
『わたしは、あなたがたのために創造した天と地とを見る。
それが変わるだろうか、あるいは太陽が東から昇るのをやめるだろうか、そして世界に光を照らさなくなるだろうか。』
このミドラッシュはモーセの言葉にさらなる意味を与えている。
天の秩序を創造した神は、まさにイスラエルの民を創造した神と全く同じ神。私たちユダヤ民族は天に目をやり、天体が務めを従順に果たしているのを確認して、自分たちの選べも天体の動きと同様に不変のものだと励まされるのだ。
個人的には、この比較は正しくないと思う。確かに神は天地の摂理や働きを創造し、私たち人も創造された。そしてその神はイスラエルを創造し、贖い出された。
しかし天地といった自然の働きは神によって創造された時、選択の自由は与えられなかった。例えばもし太陽が神が定めた軌道から外れたり、その他の惑星が軌道を外れたり動きを遅らせたりしたら… 大災害が引き起こされ、世界が破滅している可能性が多いにある。
筆者であるモーセが言いたかったのは、少し違うことなのではないだろうか。
おそらくモーセは私たちに空を見て太陽や月を見るたびに、これらを創造・配置したのは神であると覚え、メカニズム・規則を定めた神に思いをはせるよう、求めているのではないだろうか。
そしてそんな宇宙を創造した同じ神が私たち1人1人を造り、私たちの内に自然と同様に規則・メカニズムを定められたのだ、とモーセは私たちに語り掛けているのではないだろうか。こうして自身を含む神の驚くべき創造物を見て私たちは神の偉大さを思い、主に栄光を帰すのだ。
イスラエルを神が捨てない訳
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その前に西ドイツ・ラインラントで大規模なユダヤ人虐殺を行った。
そしてこの詩は続けてそんな神がイスラエルを選んだこと、そしてその神の民に対するメッセージを語っている。そして、イスラエルの道徳的衰退についてもあらかじめ語られている。必要が全て満たされて、不自由のない快適で繁栄の時代に、イスラエルの道徳は衰退する。モーセはイスラエルを叱責し、さらにイスラエルの記憶さえも消し去ると警告したのだ。
わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。
この聖句はイスラエルが存在する権利を失うほどの、神の失望の大きさを表している。
神はイスラエルを監督・保護して祝福を与え、成功と救いを与えた。イスラエルに与えられた仕事は、律法を高めて推進し、神とその驚くべきみわざについての知識を世界中に広めることだった。
しかしイスラエルはその任務に、失敗した。神の栄光を讃え、神の御言葉を世界中に宣伝することができなかっただけではない。国民として神に背を向け、世の偶像を追いかけて神を裏切った。地球上の他のすべての国々と同じようになろうとして、神とその良き心から切り離され、神の御名が称賛されるどころか、神の御名が恥ずかしめられた。その結果「イスラエル・ユダヤ人」という言葉は神の民の一員に対する名誉ある称号ではなく、否定的な言葉になった。
しかし神がイスラエルを地上から一掃しなかった理由を、モーセは説明している。その理由は、神の名誉と栄光に関係がある。
もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。彼らの仇が誤解して、『われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。』と言うといけない。
イスラエルが現存しているという事実が、イスラエルを憎み敵対する人々に対する神の答えだと、この聖句は述べている。イスラエルが生存しているのは、イスラエル自らの義によるものではない。イスラエルに敵対する人々がイスラエルを滅ぼしたならば、「我らの勝利・成功=イスラエルの神が真実でない証拠だ」と彼らは言うだろう。そして神は、それを許されなかったのだ。
同じようなことがモーセの時代、シナイ山で神自身が書いた律法を受け取っている時に起こりそうになった。イスラエルの子らは罪を犯して金の子牛を造り、この反逆によって律法授与が中断され、心の堕落という罪のために神はモーセを山のふもとに送り返した。
そして神はイスラエルを滅ぼし、モーセー人からやり直して新しい民族を立てることを望んだ。しかし、モーセは神の前に立ってこう言ったのだ―
主よ。あなたが力強い御手と伸ばされた腕と栄光をもって、この民をエジプトから導き出されました。それは、天の下に唯一の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神がおられることを誰もが知るためでした。もしあなたがこの民を荒野で滅ぼすとしたら、エジプト人は何と言うでしょうか?
『神は、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言うようにされるのですか。(出エジプト記 32: 12)
モーセが神を説得した際に訴えかけたのはイスラエルではなく、国々だった。イスラエルを滅ぼしたならば、諸国民はどう思うだろうか?注意しよう、「イスラエルはどう思うだろうか?」ではないのだ。
エジプトではなく荒野でイスラエルの民を滅ぼすため、奴隷の状態から解放したということなのか? 彼らを約束の地に連れて行くことができなかったから、滅ぼしたのか?
諸国民がそう思えば、どうだろうか。
モーセは続けてこう言った― たとえこの民のためでなくても、父祖のために、アブラハム、イサク、ヤコブとの約束のゆえに、この民を赦してください。こうしてモーセは、神の説得に成功した。
すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。
今週のパラシャ「ハアジヌ」の詩にも、同様のメッセージが見られる。
たとえ私たちのためでなくとも、神は自身と自信の約束・選択のためでに、私たちを滅ぼされることはされない。したがって敵に対して、私たちを完全に倒し破壊することも許されないのだ。
イスラエルとイェシュアという、2つの大きな奇跡
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この詩は続いて、神が自身の土地と民を救い出すところで終わっている。
そしてメシアを信じる者として私たちは、イェシュアが神の答えだと知っている。世界中で御名を讃える必要に対する、神の答えだ。私たちはイェシュアを、神の土地と民の贖いのための神の備えだと知っている。
イェシュアが居たことにより神の御言葉がほぼ全言語に翻訳され、地球上の大多数の人々に知られることとなった。現在ではアマゾンの人々でも神の言葉に触れ、多くの人が聖書の話に精通している。こうしてメシア・イェシュア(イエス・キリスト)の救いが、世界中の人々にとって選択可能なものとなった。世界中のすべての国々は神についての知識や、その知識を得る術を持っており、このイスラエルのメシアを通して、人々は神のもとに来て祈り、神の御名を礼拝することができるようになった。
そしてイスラエルの存在自体は奇跡であり、神の働きの証なのだ。同様に、聖書全体(律法、預言者、諸書、新約聖書)が翻訳されることによって、神の言葉が世界中に広まったのはイェシュアによるもの、彼の名のゆえに可能となった。
この2つは、大きな奇跡だ。
神の義
さて、ハアジヌの詩を読むと、神の裁きの正当性を私たちは目の当たりにする。
主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。
主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。
ここでモーセは神の正義を語っているが、これは非常に難しい問題だ。非常に多くの人々は「正義はどこにあるのか?」と尋ね、神に対して叫ぶ。私たちは神の啓示の大半を見逃しており、「神はどこにいるのか」と率直に尋ねてしまうほどだ。
詩編へのミドラッシュ( 92) は、モーセと最初の人間アダムについて語っている。
最初にモーセに尋ね、次にアダムにも自分の死について尋ねる。
神は義である―
そこで彼らはモーセにこう尋ねた。
『あなたがその地に入るのを妨げたのは誰ですか』
「それは私のせいだ」と彼は答えた。
彼らは『神のせいではないのですか?』と言った。
モーセは言った。
「そんなわけがない。主は罪人を義とすることも、信仰によって義人に対して義務(罪)を負わせることもでき、そこには何の不義も存在しない」
このミドラッシュで、モーセはイスラエルの地に入るのを妨げたのは何かと尋ねられている。誰に責任があるのだろうか。モーセが約束の地に入るのを阻止したのは、神ではなかったのか。しかしモーセはこう言った―
「いや、自分のせいだ!他の誰のせいでもなく、義なる方である神でも決してない。神のわざは全て汚れがなく、正しいからだ」
そして同じミドラッシュでアダムは、自分の死の原因についての質問にこう答える。
「それを引き起こしたのは私自身であり、神ではない。
禁断と知りながら禁断の果実を食べてしまったからだ。私はその果物が有害で、危険なことを知っていた」
さて、私たちは毎年のヨム・キプール/贖罪の日に何を祈り、宣言するのだろうか?
私たちの神、私たちの父祖の神よ、どうか私たちの祈りをあなたの御前に届かせてください。私たちの王、私たちの嘆願から目を背けないでください。
なぜなら、私たちの神、父祖の神である主よ。私たちは、あなたに向かって「自分は義であり、罪を犯していない」と言えるほど、強面で頑固ではないからです。
確かに、私たちも父も家族も、罪を犯してきました。私たちは他人に対して何かしらの侵害を犯し、裏切り・盗み・中傷し、悪い噂話をしました。
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私たちは自分の罪をこう告白し、神の憐れみに対して祈り続ける。
その後で次のように宣言するのだ―
私たちはあなたの良い戒めや儀式からは、はずれました。
それは私たちに利益をもたらしませんでした。
私たちに起こったすべてのことにおいて、あなたは義であられました。
あなたは常に誠実で、私たちは邪悪に振舞ったのです。
私たちに起こることはすべて正しく、責任を負うのは私たちなのだ。まさに、モーセがミドラッシュで語っているようにだ。
(私は実際に、モーセがミドラッシュに書かれている言葉を言ったとは思わない。聖書には描かれていないからだ。しかしモーセはそのように感じていただろう、とは思っている)
誰が、私たちを救ってくれるのだろうか? ハアズィヌの詩の最後で、神は私たちを贖うと約束している。もちろん私たちによってこれは、神のひとり子であり救い主であるメシア・イェシュアだ。
ビリーバーとして私たちは、光・救い・希望といった数多くの預言がイェシュアを指し示していると、知っている。イザヤ書9 章には、イスラエルの民は暗闇の中で道に迷った者と描写されている。しかしそんな中、突然光が見えて来る。
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
この光は実際、すべての国々が喜ぶ指導者を象徴しているとある。この指導者は、すべての人にとって、そして全世界にとって、光であり祝福となる。そしてこの預言は続けて、この指導者の誕生について語る。
ひとりのみどりこが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によって、これを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
イザヤのこの預言は、非常に興味深い。重要な責任・任務を背負った、非常に優れた指導者について語られている。この指導者の任務は神の王国を準備を行い、正義をもって「とこしえ」つまり永遠に王国を維持し、治めるというものだ。したがってこの指導者であるメシアご自身は、永遠の王国(神の国)を準備進めている。
イスラエルのメシアであるイェシュアの王国は、詩篇72章に描かれているように、地の果てまで広がるとある。
彼は、海から海に至るまで、また、川から地の果て果てに至るまで統べ治めますように。荒野の民は彼の前にひざをつき、彼の敵はちりをなめますように。
11節にはこうある。
こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。
これらの聖句は過去に存在したイスラエルの王の、誰にもあてはまり得ない。イスラエルの歴代のどんな王であったとしても、このような立場にいた人物は立てられなかった。
すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕える。
あらゆる勝利と征服を成し遂げたダビデ王でさえ、この描写には当てはまらない。
すべての国々が仕え、すべての王がひれ伏すユダヤ人の王― それは、イェシュアだからだ。
神が皆さまを、多いに祝福してくださるように。
シャバット・シャローム!