見出し画像

スコット(仮庵の祭)特別メッセージ

自身の場所を明らかにする、スコットの祭
ユダ・バハナ 

今週(16日日没)から来週(23日日没)にかけて、私たちはスコット(仮庵の祭)を祝う。
これもまた、エジプトからの脱出・解放に焦点を当てた祭りだ。またスコットに関する戒めや、それらを通して子どもたちにこれを教え教育し継承することの大切さ、そして「四つの植物」とそれらの価値・意味について学ぶのだ。
 
スコットにはパラシャット・ハシャブアとは別の特別な朗読箇所があり、トーラーからはレビ記22:22~23:44を、ハフタラ(預言書)はゼカリヤ書14:1~21、そしてメシアニック・ジューの間では多くの場合ヨハネの福音書 7:1~44を合わせて読む。

出エジプト=神が神である証明

さて、スコテの祭りの目的とは何なのだろうか。 

あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことをあなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。

レビ記 23:42~43

イスラエルの民がエジプトを出て荒野をさまよったとき、彼らは天幕・テントであるスコット(単数形ではスカ)=仮庵に住んでいた。スカ(仮庵)を作りそこで過ごすのは、イスラエルの人々が当時荒野において仮庵に住んでいたことを強調し、出エジプトを思い出させるのだ。
 
出エジプト記は聖書の礎石であり、ユダヤ人の歴史と文化のまさにルーツだ。
神は奴隷だったこの一族を紅海に連れ出し、自由の民になるため私たちを渡らされた。神が「イスラエルの民」を再び創造されたのは、まさに歴史上のこの時点だったのだ。
 
神とは誰か?もちろん聖書であり、イスラエルの神だ。神は私たちを奴隷から解放し、自由を与えてくださった。したがって私たちの民全体が神に属しており、神は「イスラエルの神」であり、私たちは神のアイデンティティをこの地上において背負っている。
 
十戒はトーラー(神の教え)の土台であり、そこの冒頭にはこうある。

わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

出エジプト記 20:2~3

全世界に宇宙、そしれ人類を創造した神はここで、「イスラエルをエジプトから連れ出した神」という名を通じて自身を表すことを選んだ。こう神が自身を形容したことによって、「イスラエルの民」が創造されたとも言える。
そしてこの言葉は、神を他の神々から分離することを可能にする。「神」という言葉自体はどの神かを特定したものではなく、神性を持つとされるものに与えられる普遍的なコードネームだ。そしてこの『神』という単語から、どんな神を信じていたとしても全人類は究極的には同じ神に仕えていると主張する人々がいる。異なる名前で呼んでいるかも知れないが、最終的には私たちはみな同じ存在に仕えているのだ、と。ちなみに、これはもちろん真実ではない。
 
では、私たちの真実神と他の神々とを、どのように分ければよいのだろうか。
私たちは次の簡単な質問で、その区別が可能となる。

  • その『神』は、イスラエルをエジプトから連れ出したのか?

  • そしてイスラエルに約束の地を与えたのか? 

これらに対する答えが「NO」であれば、その神は偶像であって真の神ではないことを意味している。神はアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、イスラエルをエジプトから連れ出した聖書の神だ。神は「ヤコブの力あるお方(創世記49:24)」、そして「イスラエルの聖者(イザヤ30:15)」であり、そのほかに神は存在しない。 

聖書の祭の2つ軸:出エジプトと継承

筆者の息子(1歳)が通う保育園。
毎週木曜日には安息日のための小さなパンを作り、安息日に触れる。

したがって、安息日を含む聖書の祭りのほとんどは、エジプトからの脱出を記念している。出エジプトとは、神がエジプトでの奴隷制からイスラエル民族の脱出し解放されただけでなく、私たちを永遠に解放してくださった出来事だ。そして主は、我らの父アブラハムになさったのと同じ約束に従い、私たちを約束の地に導かれた。
 
そしてキリスト者としてより重要なのは、出エジプトがメシヤ・イェシュア(イエス・キリスト)による救済・究極の贖いの原型だということだ。イェシュアは私たちを奴隷から救い出し、永遠の自由をもたらした。
 
これは私たち自身そして子どもたちとにとって、最も不可欠で重要な点だ。神は私たちに命じて、出エジプトを永遠に覚えるよう命じた。私たちはアブラハムの非常に遠い子孫としてここにいるが、今でもこうして覚えている。
 
私たちの現世代もまた、この救いの物語を、自分の子どもたちや孫たちに伝えなければならない。この私たちの贖いの物語(エジプトからの脱出)、さらには全世界の救いの物語を。 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネの福音書 3:16~17

そして世界の救いの物語は、私たちのメシヤ・イェシュアによって、私たちの個人的な救いとも直結し相互関係を築くこととなった。
 
さて、スカを建てる主な理由は次の箇所に見ることができる。 

これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。

レビ記 23:43

私たちが我が家そしてコングリゲーションとして建てるスカは、次の世代に継承し、私たちの未来そして未来での存続を保証する、という目的を果たしているのだ。
出エジプトと並ぶ聖書の祭の本質・コアは、子どもたちに自分たちの歴史を教え、自分たちの文化・トーラー(教え)を次の世代に教えるという、継承だ。
 
スコットなどは、その代表的な例だ。
毎年子どもたちは、両親と一緒にスカを建てて飾るのを楽しみにする。彼らにとって、「今年も美しく魅力的なスカを建て、そこで過ごすこと」は非常に重要なのだ。
 
そしてスコット中には家族が外に出、素敵な家族のピクニックを楽しむという素晴らしい経験が可能になる。しかしもっと重要なのは私たちがスカにー週間住み、一時的な家に住む感覚を持つことにより、出エジプトを味わい体験することができるのだ。これは私たちの家族をつなぎ、子どもたちに投資するという体験的な方法だ。これは次の世代に伝統を伝える方法としては、神が与えたベストな形だ。 

四つの植物

israel21c.org より

スコットのもう一つの重要な戒め・要素は、『四つの植物』と呼ばれるものだ― 

最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。

レビ記 23:40

私たちは

  1. 美しい木の実としてエトログ(シトロンとも呼ばれる柑橘系の果物)、

  2. ナツメヤシの葉であるルラブ、

  3. 茂り合った木の大枝をハダス(ミルトス・ギンバイカ)、

  4. 柳の枝であるアラバ、

のこの4つを伝統的に、スコットに用いる『四つの植物』としている。
 
そしてこの四つの植物は、ユダヤの世界観を深く表している。
伝統的にユダヤ人は、物事を四つのカテゴリーに分けることを好む。善・悪や善人・悪人といった、二元論的な世界観とは少し違う。そしてこの四つの植物は、味と香りという2つの植物の持つ特徴から、人類全体を象徴していると考えられている―
 
① エトログ(柑橘系)― A. 味とB. 香りの両方を持っている。
② ルラブ=ナツメヤシ― A. (ヤシの実)味はあるが、B. 香りはない。
➂ ハダス(ミルトス)― A. 味はないが、B. 香りはする。
④ アラバ(柳)― A. 味もB. 香り、両方ともが掛けている。
 
これは、味に象徴される信仰(トーラーの学び)と香りに象徴される善き行い、という2つに対するさまざまなタイプの人々を表しているのだ。
 
① エトログ― 信仰(味)と善き行い(香り)の、両方を持っている人。
② ナツメヤシ― 信仰(味)はあるが、善き行い(香り)を行わない人。
➂ ハダス― 信仰(味)はないが、善き行い(香り)を行う人。
④ 柳― 信仰(味)も善き行い(香り)の、どちらもない人。
 
私たちが四つの植物を両手で手に取った時、それは4種類=世界中の全ての人々が密接に結びついており、私たちはお互いに補完し一致の中に居るべきだという教えを体感し、それを子どもたちに教えるのだ。私たちが目指すべきなのは信仰・行いを両方兼ね備えたエトログ(柑橘系)ではあるが、「神はエトログ=信仰・行いにおける強者だけしか見ておられない」と言う訳では、決してないのだ。そしてエトログに求められたことは、片方またはその両方を欠いている人々に良い影響を与え、引き上げることなのだ。

そして片方だけを持っているハダス(ミルトス)とナツメヤシに対しても、神はもちろん恵みと共に目を掛けておられる。そして神がこの両者に求めておられることは、互いに影響し合って自身の欠けているものを体得してエトログに近付き、また両方を欠いた柳の人々に対して良い影響を与え前向きなライフスタイルを持つよう、導くことなのだ。
そして民族・社会や国またはコミュニティーには、信仰も良き行いも持たない少数派も必ず含まれている。彼らが加わることによって私たちは不完全ながら完成して1つになり、同時に密接に結びつくことによりお互いを補完し、また高め合うことができるのだ。
 
この団結・一致があってこそ、私たち全員が味と匂い=信仰と行いの両方を持つことが可能となる。そしてそんな集団こそが、主の目に恵みを見いだす。

同様の例はペサハ(過越祭)でも見られる。四人の息子― 賢い人、悪い人、単純な人、質問することを知らない人、だ。これらも大きく分けると、良い(賢い)人と悪い人という対極の点、そしてその2つの中間にある2つの人、と言うことができる。これもまた、お互いにコミュニティーとして補完し、高め合うというのがその背後にあるメッセージだ。 

四つの植物のように1つに

今週初めにはネティブヤでも、スカが建てられた。
ユダヤ人と異邦人がひとつとなって建てられたスカで、祭の間は愛燦会の食事を行う。

この考えは、善悪の二元論的な西洋・ギリシャの世界観とは一線を画している。
この四つの食物の理解は、新約聖書の種まきのたとえ(マタイ13章)に繋がって来る。この譬え話でイェシュアは、二つではなく四つの種類の土壌がある、すなわちこの世には四つのタイプの人々が居るのが、と語っている。
 
私たちビリーバーは時として、善悪・白黒という二元論的な考えに慣れ、これによって疲弊してしまっている。完全な善でなければ悪であり、完全な白でなければ黒である― この理論は信仰における強者に対しては何ともないことかもしれないが、多くはこの考えに対して希望よりも絶望を感じることもあるだろう。
 
イェシュアの譬えを読むと、たくさんの実を結ぶ良い土壌があることがわかる。コングリゲーションや教会と言った主の宮に入り、私たちはみな祈り、歌い、礼拝する。その瞬間、私たちは良い土壌だと胸を張って言えるだろう。
 
しかし他の日はどうか?私たちの日常生活はどうか?
もしコングリゲーション・教会よりも少しでも霊的に劣った環境は、悪い土壌・希望のない闇なのだろうか。
イェシュアの譬えの中に灰色の部分を見た時、私たちはそれに対して「NO」と答え、希望を持つことが出来る。私たちはみな、日々の肉のある人間として蓄積される心配や悩みから、息が出来なくなる。私たちは100%で完全な良き土壌で居続けることは、不可能なのだ。
 
しかし私たちは、コレクティブ・共同体の一員であることを理解する。そしてコレクティブとして、特にイェシュアの名によって集まった共同体は、スコットの四つの植物やイェシュアの四種類の土壌のように、自分が欠けている領域を埋めてもらい、そして他の兄弟姉妹の欠けている部分を埋めることにより、ひとつのメシアのからだとして初めて完成するのだ。
 
会衆として私たちは互いに助け合い、誰かが倒れていればエトログとなって他者が立ち上がるのをアシストしなければならない。これがまさに、ビリーバーが会衆として活動している意味だ。どの群れであってもそれは二分できるような単純な構図ではなく、多くの種類の兄弟姉妹が居る。一致とは皆が同じ、均一であった際には成り立たない。様々な種類の兄弟姉妹が居るからこその、一致なのだ。
 
この相互の助け合い・高め合い、そしてそれによる究極的な霊的一致を、スコットの際に利用する四つの植物は、私たちに教えている。
この4つが全て揃って意味を成し祭りを祝えるように、私たち多種多様な兄弟姉妹にも同じことが言える。私たちはイェシュアという一つのからだではあるものの、それは色鮮やかな神による美しいモザイクなのだから。
 
スコットの祝福、喜びの祭(ハグ・サメアハ)を、
エルサレムより皆さまに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?