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第43週:ドゥバリーム(ことば)

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基本情報

パラシャ期間:2024年8月4日~ 8月10日 

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 申命記 1:1 ~ 3:22
ハフタラ(預言書) イザヤ 1:1 ~ 1:27 
新約聖書 マタイ 23:37 ~ 24:28
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

神が求める、社会正義と配慮
ユダ・バハナ 

ユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

申命記=モーセによる演説

今週から新しい書『申命記』のパラシャを進めて行く。パラシャット・ハシャブア、最後の書だ。申命記は特別な書であり、トランスヨルダンでモーセが語った演説によって構成されている。それらはすべて、明確で基本的な同じメッセージだ。そしてそのメッセージの核となるのは、『神の戒めと律法はあなたの命の源だから、これを離れるな』というものだ。
 
モーセは自分の時代・リーダーシップが終わるので、その後の民のことを考え、民がイスラエルの地に入る準備ができるように最善を尽くしている。
 
そして申命記という演説を通し、私たちは過去の出来事を振り返り、さまざまな視点からそれを見ることができる。この書で繰り返されているのは、十戒や法改革、イテロのパラシャからの裁判官の任命といった司法システムの構築、そしてスパイの罪などのエピソードだ。このように繰り返しが多いため、申命記は「ミシュネ・トーラー」つまりトーラーの繰り返しと呼ばれることもある。
 
さてもうパラシャット・ハシャブアを継続されている方はご存知だろうが、各週のパラシャの名前はその週の箇所の最初の単語から来ている。今週のパラシャ名はドゥバリームで、これはこのパラシャの名前であると同時に、申命記のヘブライ語名でもある。そしてこの単語は「言葉」を意味している。

これは、モーセが、イスラエルのすべての民に告げたことばである。

1:1

申命記以前は、次のような表現が多かった。 

主はモーセに仰せられた。 

それを考えると、申命記の違いが少しわかってくるように思う。
ドゥバリームはことば・演説という意味なので、ここから多くの解釈者は燃え盛る柴の中でのモーセ(召命・始まり)と、旅の終わりのモーセとのこの大きな違い・対照的な姿を指摘している。
モーセは当初、自分の使命と責任から逃れようとした。 

モーセは主に言った。
「ああ主よ。私は言葉の人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

出エジプト 4:10

神はモーセの言い訳を受け入れず、『あなたはその任務に適任だ』と言われ説得を続けた。そして神はモーセにこう言われた。

「あなたは選ばれて、わたしとともにイスラエルの民をエジプトから連れ出す。
紅海を通過するとき、この国民を誕生させる。
でも話すのが苦手というなら兄のアロンが代わりに話してくれるだろう。」 

この流れを受け新約聖書は、神が私たちが処理できる以上のものは与えないと約束している。 

神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に合わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

1 コリント 10:13

通常、テストやトレーニングは肯定的なものだ。
訓練を受けテストに合格すると、訓練生はより強くなり自信がつく。コリント人への手紙のこの聖句で、神は私たちのストレスのレベルが限界に行くことはなく、私たちを守ると約束している。神は私たちに結果と自信を与えるために、あるレベルまで私たちをテストするだけ。私たちの能力を超えて試すようなことはされない。 

希望と力を与える信仰

ファラオ、モーセそしてアロン

したがって最初に神は、モーセの代弁者または通訳としてアロンを与えられた。そして今週のパラシャでは、かつてどもっていたモーセが、神のことばであるトーラーを平易なことばで繰り返し説明している。 

ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。

申命記 1:5

モーセは神の指によって書かれた、崇高な神のことばを伝えている。
彼はそれを人が聞いて理解するために解釈し、神の意志を明らかにして説明した。神に選ばれた吃音者が、最良の通訳・解説者となったのだ。
 
申命記では、イスラエルの民が40年間荒野をさまよった後の出エジプト物語の振り返りだ。
イスラエルの地に入る直前、あの荒野の旅の苦難を乗り越えたモーセの演説を聞く。モーセは、「自分はこの仕事に向いていない」と神に叫んだ吃音者だったが、そのモーセがイスラエルの民全体に対して語りかけている。
 
このように申命記は、モーセによる演説という特別な書だ。したがってモーセの心の機微を感じるためにも、すべての言葉・文字を掘り下げ分析するに、最適の書だ。私たちも行間を読むように努めている。「ことばも舌も遅い」モーセが、力を与えた神の助けによりどれほど雄弁に「ことば」を紡ぐことができたのか―興味深い。
ピリピ 4: 13 は、ここにぴったりと当てはまる聖句だ。 

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

ピリピ 4:13

イェシュアは、私たちが足りない時も豊かな時も、あるいは肉体的または霊的に困難な時、あらゆる状況に対処する強さを与えてくれる。私たちに力を与えてくださるメシア・イェシュア(イエス・キリスト)のゆえに、私たちはどんな状況にも耐えることができる。
 
信仰は私たちに大きな力を与える。
ユダヤ民族を見てみよう。長く暗い離散にもかかわらず信仰を守り続け、いつの日か―もしかしたら来年にも― 『再建されたエルサレム』を訪れる特権を受けることを、何世代にもわたって語り続け、願い、祈ってきた。
そして、私は、古代の預言の成就としてエルサレムに住む三代目の世代になる。このトピックはこの奇跡にも、非常に関連している。このトーラーの箇所は毎年アヴの月の9日に近い。このことについては、後で説明したい。
 
繰り返しになるが、メシアへの信仰が私たちに希望を与えることを強調したい。ここでの人生は無駄ではなく、私たちが行なうすべてのことは永遠の意味を持つ。イェシュアは私たちに大きな力を与えてくれる。 

イスラエルの地に住んだ多くの民族たち…

カナンびとたち
(renew.org より)

今週のパラシャには、過去の出来事の説明が含まれている。これは当時のイスラエルの民だけではなく21世紀を生きる私たち自身に対しても、同じ過ちを繰り返さないための警告だと考えられている。
またモーセはイスラエルの地での戦いと土地の占領について、地政学的な説明をしている。
 
しかし一方で、聞いたこともない国が出て来る。またその反面、ヘシュボン(シホンの都)などの有名な国家・王国も言及されている。シホンは、今日のヨルダンの領土にあるモアブの一部でアモリ人の王だった。
モーセはこれらの有名な地域や王に加えて、レファイム、エミム、ザムズミムなどの知られていない人々についても語っている。なぜ彼らが言及されているのだろうか。
 
これはモーセが、これらの国々すべてがイスラエルの地の一部を相続地として受け取っていたという事実をイスラエル民族に教え、それ以降も私たちがこの歴史を思い出すために言及したのだ。しかし彼らは― 強い恐ろしい巨人であったにもかかわらず― 絶滅し、姿を消していった。
 
バシャンの王オグはレファイムの最後の子孫といわれている。オグは巨人で、申命記 3: 11 に記されている。「レファイム」は文字通りには幽霊という名前で、それを見た人は恐怖でぐったりしてしまうとラビたちは解釈している。そんな恐ろし痛みであった彼らも、相続地が最終的には奪われた。
 
モーセは、アモン人がザムズミム人からその地を受け継ぎ、今はイスラエルの民が彼らの地を受け継いだと語った。夜アブラハムに見せられた神の約束、彼の子孫が天にある星のように増えるという神の約束を思い出す。しかしこの約束が成就したのは、400年後になった。
これについては、アブラハム時代にすでにその理由についても言及されている。 

それは、エモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。

創世記 15:16

つまり、土地の住民には一定の罪の割り当てがあるということだ。
その限界を超えると、その土地の住民は生存権を失い、神はその土地を取り上げて他の民族に与えられる。モーセは、それがザムズミム人、アモン人、アモリ人、そして巨人であるレファイムにさえも起きたことだと語る。
モーセは、人々の道徳と、特定の土地、特にイスラエルの地に住む時間との関係を明らかにしている。私たちもこれらの聖句を、自分に向けられたものとして読むべきだ。
 
モーセは、私たちがこの地の最初の住人ではないことを隠そうとはせず、語っている。
国の強さ、軍隊や経済の強さと発展に関係なく、私たちが罪の割り当てを満たした瞬間、神はこの土地の権利を再び割り当てられる。これは、イスラエルの地における私たちの生活ですら、条件付きであることを意味している。
 
この状態は、私たちの体力や経済・軍事力、知恵によって測られるのではない。その物差しは道徳的基準で、それによって測られる。そしてその道徳的生活の尺度は、私たちの手にある『聖書』だ。 

聖書的価値観に基づいた『批判』をしよう

stock.adobe.com より

モーセは人々を叱責している。同様に、トーラーと新約聖書は罪に陥った人々や正しい道からさ迷い出た人々を叱責するよう命じている。私たちイスラエルは一つの国家であるため、よりコレクティブのために、捧げなければならない。私たちの国が罰せられるとき、私たち全員がその代償を支払うことになる。罪の少ない人も、罪の重い人と一緒にそれを支払うことになるのだ。私たちは一つの、運命共同体なのだ。
 
批判は重要で必要だが、その目的は人を正しい道に戻すことだ。したがって批判という枠組みを遵守しなければならず、そこにはルールと境界線がある。これは、覚えておく必要がある。また、私たちは他人を罰するために批判・叱責するのではなく、彼らが改善するのを助けるためだ。
 
以下は、自問すべき基本的質問だ。 

  • 私のこの批判は私の怒りや痛みから生じたものか、それとも改善したいという純粋な願望から生じたものか?

  • 今はその批判に適した時期か? それとももっと良い時期が来るまで待った方が良いだろうか?

  • 声の調子: 私の話し方は改善という意図のために、合ったものだろうか?

  • 私は正そうとしている相手のことを、キチンとに理解しているか? 

イェシュアは次のように教えている。

なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、
自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

マタイ 7:3

イェシュアは私たちに、自分自身の視点からではなく、その人の視点から見るよう求めている。他人を判断するのは簡単だ。イェシュアは、私たちが彼らを批判する前に、彼らの立場となり少し歩くよう私たちに求めている。また、誰も神の律法の守護者や、神の法の執行者に私たちを任命したわけでもないことを、常に覚えておくと良いだろう。 

根拠なき憎しみ

第1・2神殿時代末期は、イスラエルの間で不義と同胞間の根拠なく憎しみがはびこっていた。
(cinema.co.il, makorrishon.co.il より)

私たちは一つの民族で、イスラエルの地に過ごす時間は条件付きだ。このトーラーの朗読は、アヴ月の9日に非常に近い。ユダヤ人とイスラエル人の共通の考え方は、この日の断食は、贖罪の日の断食の次に重要な断食だと考えられている。
これは宗教的な、民族的な追悼・嘆きの1日だ。 

イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。
「このすべてのものに目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

マタイ 24:1~3

西暦70年アヴの月の9日、イェシュアのことばどおり、すべての石はくずされた。第二神殿は、同法間の(無償の愛とは180度反対の)根拠のない憎しみによって破壊された。
 
そして今日も私たちは、根拠のない憎しみに苦しんでいる。罪が軽い人もいれば、罪の重い人もいる。だが、その責任は国民全体にかかって来る。私たちは、相手の宗教的観点や世俗的観点、あるいは政治陣営の右派か左派かに基づいて互いを攻撃し、それが憎しみの域にまで達している。
 
私が「私たち」と言うとき、私は宗教的な人も世俗的な人も含めて全てのイスラエルを意味している。宗教的な私たちは、儀式、祈りのことば、信仰の習慣や原則に焦点を当てる。しかしそんななか、隣にいる人のことはすぐに忘れてしまうのだ。
 
世俗的な私たちは、自分が民族として保たれ、奇跡によって祖国に帰還したことを忘れがちだ。それが、神のみわざだったことを。世俗的な私たちは、祖先が二千年間の離散の間中、血と汗と涙で守り続けたアイデンティティーを時として否定し、同化してしまう。
 
さて、今週のパラシャ・ドゥバリームのハフタラ(対応する預言書)はイザヤ書 1 章で、21世紀のイスラエルの世俗・宗教派、政治的右派・左派の両方にも向けられた言葉だ。すべての人に対してイザヤは、修辞的かつ嘲笑的な質問をしている。
 
神の家に来たのか? なぜ来たのか? 誰があなたに来るように頼んだのか?
来るな。 神はここであなたに会いたくない。
安息日、聖日、断食、あなたがたがすることすべてが忌まわしい。
 
イザヤの預言は、非常に厳しい言葉だ。
神はイザヤを通して私たちに、「私たちが祈っても、神は私たちの祈りを聞いてくださらない」と告げておられるのだ。私たちは神に犠牲を捧げても、神は私たちの犠牲を受け入れない。
なぜか?それは、私たちは社会で互いに傷つけ合い、弱者を利用しているからだ。
 
イザヤは続けて、神に耳を傾け祝福してもらいたい時に必要な、次のような公式を述べている。 

洗え。 身をきよめよ。
わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。 悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。

イザヤ書 1:16~17

社会として、私たちは弱い人、貧しい人、見知らぬ人を利用するという罪を犯し、お互いを利用している。
イザヤは正義を要求しているが、今日の大多数はイスラエルの司法制度を信じていない。この制度は非効率的で時間がかかり、加害者に対する処罰は非効率的だと考えている。そして本当の正義など、存在しないのだ。
 
イザヤと同様に、ゼカリヤも正義と社会の弱者への配慮を求めている。 

万軍の主はこう仰せられる。
「正しいさばきを行ない、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

ゼカリヤ 7:9~10

ゼカリヤの言葉は、ティシャ・ベアブ(アブ月の9日)の断食に関する議論に、重要な意味を加えている。7章の冒頭で祭司とレビ人は、今でも断食をして滅びの日を思い出す必要があるかどうか尋ねる。この質問をしたのは、ゼカリヤの時代には第二神殿がまだ建設中だったからだ。
当時、イスラエルの民がバビロン捕囚からシオンへ戻り、帰還していた。 そこで彼らはゼカリヤにこう尋ねる。 

「エルサレムは回復されつつあります。 それでも断食は必要ですか?」 

7章の神の答えは、非常に厳しいものだった。イザヤと同様に、ゼカリヤも尋ねる人たちを嘲笑し、こう言い返す。 

「預言者があなたに警告したとき、あなたはどこにいたのか? どうしてこれほどまでに道徳を悪化させてしまったのか? なぜ憎しみと分裂の火に油を注いだのか?
あなたは軍隊と経済への信頼を無駄にした。それなのに、突然、破壊と追放に驚くのか…」 

私たちは自問する必要がある。
そこから何か変わったか。今、それは良くなったのか?
ゼカリヤは慰めの預言者だ。彼は人々を励まし、力づけようと努める。捕囚を克服して、エルサレムの町の復興を励ましている。
 
そして私たちも今、同じような状況にある。
長く苦痛に満ちた離散生活は終わった。私たちはイスラエルに戻り、イスラエルの地を近代的で強力な国家として再建させた。ほんの三世代前まで、ここには何もなかった。預言者の約束通り、神はこの国を再建させた。
 
しかし私たちが聖書時代からの教訓に学んでいるかどうか、という疑問は残る。今、私たちは預言者と神のことばに耳を傾けているだろうか。
聖書は私たちの命の源であり、道徳の尺度だ。 私たちは聖書を決して放棄してはならない。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

2 テモテ 3:16~17

 日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!

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