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第48週:キ・テツェ(あなたが出て行った時)
基本情報
パラシャ期間:2024年9月8日~ 9月14日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 申命記 21:10 ~ 25:19
ハフタラ(預言書) イザヤ 54:1 ~ 54:10
新約聖書 エペソ 5:1 ~ 5:33
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
戒めの精神を理解し、喜びを持って御心を行おう
ユダ・バハナ
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彼の無事のためにも、ぜひお祈り下さい。
今週のパラシャは、生活の様々な分野に関する非常に豊かな内容を提供している。戦いの規則から親鳥を逃がす規則、そして屋上の手すりに関する規則まで、本当に幅広い。
その後モーセは夫婦関係や誘拐者についても語っており、その後(ユダヤ的には)よく知られた戒めが続く。
「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」
この戒めは非常に美しく、なおかつ重要だ。
動物が(その労働の成果を)食べて楽しむことを、妨げてはいけないと述べている。この意味を考えると、畑で働く牛はその畑で採れたものを食べて当然であり、その権利がある。この聖句が単なる動物の例であり、牛のみを扱っているだけでないのは明らかだ。この聖句から、神は動物の権利や福利厚生に関してでさえ、神のトーラー(律法・戒律)を通して守られていることが分かる。であるならば、私たちは人の権利や福利についてそれ以上に大切にすべきなのだ。
実際に私たちは、人が自身の仕事に対する成果や代価を享受するのを妨害することを禁じられている。
そしてパラシャの最後には、アマレクの記憶を消し去れという命令がある。
あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。
申命記21章は1つの物語?
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このトーラー箇所は次のように始まる。
敵との戦いに あなたが出て(キ・テツェ)
ここからパラシャは戦争(暴力)と、それによって生じる欲望(家族関係を破壊し得る)を話題として取り上げる。パラシャの入口は戦争における、勇敢なイスラエル兵士の物語からだ。兵士は戦利品を携えて帰国し、その中には美しい女性が含まれていた。
ラビたちは、この時点で「この話に良い結末はあり得ない」と述べている。注解者はこの申命記21章を、三つの部分からなる1つの物語として繋げるような形で読んでいる。
第一部は、兵士が美しい女性を連れて帰り、新しく妻に『加えた』という事象。
そして第二部はこう始まっている― ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれ…(申命記21:15)
その男性は元居た妻に加え戦場から帰った後に新しい女性を第2の妻とし、その新妻をより愛したかも知れない。そして両方の女性から子供が出来た場合―それは男性と2人の女性だけの話では無くなり、それぞれの息子と相続を含めたより大きな問題へと発展するのが常だ。ここにある「嫌われた長子」は、男性がそれほど愛を注いでいない/注がなくなった妻の息子だ。しかし律法は愛憎といった私情ではなく、相続法を遵守し長子を尊重するようにと命じている。
そして物語の三番目は、この家族の混乱・カオス状態で生まれた子供の話だ。その子は次のようになると言っている。
かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、
ここからラビたちは、人によるあらゆる決断やそれによる行為が、反応・結果を引き起こすと論じ、次のような結論を下した。
ある戒めは新たな戒めを、ある(戒め・律法の)違反は新たな違反を生む。
さて、財産分割・相続について扱う第二部に戻ろう。
律法には、正義がなければならない。それゆえ私たちの個人的な感情や愛が介入することによる不公平・不義を避け、個人的な好みに基づく選択への予防線が引かれている。お気に入りの妻の子であろうとなかろうと、長男に対してはその地位にふさわしいものを与えなければならず、人には公平であるべき責任がある。
放蕩息子とパラシャ
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放蕩息子の帰還
新約聖書でイェシュア(イエス)は、頑固で反抗的な息子のたとえを語っている。彼は遺産をすべて無駄にした。ルカ15章のこのたとえ話で、イェシュアは二人の息子について語っている。
今週のパラシャに出てくる頑固で反抗的な息子の解釈と同様、イェシュアのたとえで末の子/弟は自分の分け前が欲しかったので、父親に遺産を分割するように頼んだ。そして自分の分け前を持って遠い国に行き、そこで暴飲暴食して全財産を浪費した。イェシュアはこのパラシャをベースとして用いている。
町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。
しかしこのパラシャの石打ちによる死という苦い結末とは対照的に、イェシュアのたとえ話の結論は「希望はある」と言うものだ。
ユダヤの有名な話に出てくる靴屋がこう言ったようにだ―
ろうそくの火が燃えている限り、作業と修理の時間はまだあります。
頑固で反抗的な息子が自分を恥じ、無一文で帰って来た。
それにもかかわらず、父親は両手を広げて息子を歓迎し、その祝いとして盛大な素晴らしい宴を開く。これは罪人が悔い改めるときの大きな喜びを象徴している。このたとえ話の背景には、罪人たちと座って話していることが多かったイェシュアに対する不平がある。人々はイェシュアに、なぜ罪人のために貴重な時間を無駄にするのかと不平を言って尋ねた。彼らと関わるよりも、神の知恵の真珠・真髄を研究したいと思っている賢明な生徒たちを教える方が良いのではないか?
この考えには一理あり、実際には多くの人がそういった選択をする。しかし私たちの社会的責任は、人々を切り捨てて行くことではなく、頑固で反抗的な息子を含めや全ての人々に手を差し伸べることだ。
そんな放蕩息子たちや、罪人にも悔い改めれば希望がある。彼らに対しても父は、両手を広げて大きな愛をもって迎えてくれるのだ。
このたとえ話に出てくる父親が神であり、神はこの子供に対して「(命の)書を閉じる」ことはない。息子は後に悔い改め、イェシュアはさまざまなたとえ話で(このたとえを含めて)人はいつでも神の元に帰ることができ、そうすれば歓迎される/愛をもって迎えられることを教えている。
しかし父親とは異なり、長男は反抗的な弟を受け入れずにいる。
この長男は様々なものを象徴している可能性がある。しかしイスラエルやユダヤ人は、聖書の多くの場所で「神の長子」と書かれている。またはこの長男は、神の道を忠実に歩む様々な義人を象徴することもあるだろう。
悔い改めが常に赦しにつながるという事実は、時としては苦しみの種にもなり得る。
私たちがこの譬えの長男のように正しい生き方をしていれば、不公平だと感じるだろう。愚かで不道徳な生活に財産を浪費した弟が無一文で戻って来、それでも彼は家族の農場で熱心に働き続けた兄と同じ扱いを受けることになる― これを理不尽と考えるのは、至極当然だ。長男は父親の戒め、つまり父親の規則に従ってつつましく暮らしていた。大都会で無駄使いし、派手な生活を送った弟とは大違いだ。私たちの正義感からすると、それは納得がいかない。
イェシュアのたとえ話の主要なポイントのひとつは、慈悲とあわれみのない正義は人間に対する適切な尺度ではないということだ。人にはそれぞれの個人的な事情や境遇があり、法律の文面を超えた恵みを必要としている。私たちはみな、暗闇の中を盲目的に歩いているようなものだ。今この瞬間どこに向かっているのか正確に知る人は誰もおらず、時として誰もが正しい道から外れてしまう。だからこそ私たちは、イェシュアの血による神の恵みによってのみ、救われることができるのだ。
イェシュアはこのたとえ話を、興味深く正しい方法で締めくくっている。
父親は彼に言った。
『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。』
神は忠実な方で、戒めを守る者たちに相続財産を約束している。しかしその約束とともに、兄弟たちが悔い改めて家に帰ってきたとき、私たちは喜ぶべきなのだ。イェシュアを信じる私たちは皆、罪人と同じ船に乗っていることを知っている。本当に、私たちを安全な岸辺に導いてくれるのはイェシュアの血だけで、それがなければ私たちは皆一緒に溺れてしまう。
律法・戒めの『意図』を理解する
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頑固で反抗的な息子の後にパラシャは、隣人が失くした財産を無視してはならないという戒めを取り扱っている。また、母鳥を追い払うという戒めにも続いて行く。これらの戒めの目的とその背後にある論理については、未だにユダヤ教の中で様々な見解があり未解決のものもある。
ある人は、戒めの目的は探るべきではなく、ただそれを神からの至上の命令として受け入れるべきだという。神は全知であり、すべての主だ。一方、私たちは全体像を見ているわけではないので、すべてを知り得ず、すべてを知る必要もない。実際のところ、戒めを守ることは私たちの信仰の深さと神への従順を示すものだ。特に、戒めの理由が不明瞭な場合はそうだ、と考える。
その一方で、戒めを真に理解し、喜んで守るために、その目的を理解しようとする人もいる。 戒めの目的やロジックを理解することで、歴史的な背景・設定が大きく変わりもとの意味でその戒めを守ることが出来なくなった時、エッセンスが分かればその戒めを更新し、ちがった形でも守り続けることができるのだ。
たとえば、什分の一の戒めを考えてみよう。
この戒めは土地の相続を受けられず、したがって農業に従事することで生計を立てることができない、祭司とレビ人を社会的に守るのが目的だった。それがイスラエルの民が十分の一を納めるよう命じられた理由だ。今日、私たちには神殿・祭壇もそこで仕える祭司もレビ人もいない。そこで私たちは聖書を信じる者としてこの戒めの意味を理解し、今日では十一献金を礼拝する場所(神殿の代わりに)に持っていく理由となっている。
信者として、戒めの「精神」を探求することが非常に重要だと考える。この理解は、私たちが神の御心を実現するために役立つからだ。私の意見によるとイェシュアは、私たちが喜びを持って神の言葉を実行できるように、戒めの精神を理解する重要性を教えている。
これはラビを律法解釈に対して駆り立てるのと、同じ動機だと思う。
さてこのパラシャでは、紛失物を正しい持ち主に返還することが求められている。次の例を見てみよう。
あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が探している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。
彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。
私たちはこれを文字通りの意味― つまり何かを見つけた場合には、真の所有者がそれを取りに来るまでそれを保管しなければならないという意味― と受け取ることもできる。しかし、ユダヤ的解釈に従えばさらに一歩進み、紛失物を返すために所有者を積極的に探すことが求められている。
ユダヤ教では、私たちはそれ以上のことをするよう神から求められている。
このユダヤ法を見てみよう―
友人宅や自分の畑を破壊するような大水が流れているのを見た人は、その前に柵を作らなければならない。
『同胞の損失はみな』自身の土地の損失と、言われているからだ。
ビリーバーとしてまた神を畏れる者として、私たちは紛失物の返還というこんな単純な戒めでさえも、非常に奥が深いことがわかる。この戒めの精神は、紛失物を返すことだけではなく、(一般なユダヤ的解釈によれば)損失が起こる前に損失を食い止める必要がある、ということなのだ。
その例は、洪水を見たりまたは堤防を超えて川が増水したりした時、助けられるなら助けるべきだ、というものだ。そうしなければ損失が発生し、畑は洪水で流され収穫物・将来の収入が失われてしまう。あるいは家と、その中にあるものがすべてだめになってしまう。今日、これは私たちの周りの人の所有物すべてに当てはまる。
この戒めの精神はそのような損失を、起こる前・未然に防ぐことだ。それが起こるのを待ち送ってから対処するのではなく、できればそれが起こらないように私たちに求めている。
母鳥を逃がすことから学ぶ、配慮・気遣い
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その下には「父と母を敬え」とあり、この2つの戒めはよくセットで語られる。
(エルサレム大シナゴグ)
戒めの精神を探る重要性を示すもうひとつの例は、親鳥を逃がす律法だ。
たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。
この戒めは、「鳥の巣に出くわしたら必ず親鳥を行かせて、卵をとらなければならない」と、字義通りの理解もできる。
しかし、この戒めの真の目的・核となるのは動物の保護だと私は考える。卵を取って食べたいと思っても親鳥がいる間は取ってはいけない、という動物への配慮だ。
この考えの背後にはいくつかの理由がある。 第一は、種を危険にさらさないことだ。自然のバランスを損なうことは避けなければならず、自然界と直接関わる狩猟・漁などでは稚魚や子供の魚に関しては取ることが禁止されている場合もある。
第二の理由は、私たちが無慈悲にならないようにするためだ。動物に慈悲深くなれば、ましてや人に対して私たちはその何倍も、自然と慈悲深くなることができる。
この戒めの根本にある私の理解は、周囲にに対して敏感に配慮するということだ。
こうして親鳥を追い払うという戒めの報いとして、私たちは長く良い人生を得るのだ。
必ず、母鳥を去らせて、子を取らなければならない。
それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。
タルムードによれば、エリシャ・ベン=アブヤが異端者になった理由は、母鳥を送り出すという律法にあるという。彼は母鳥を追い払うという戒めを守るため、息子に木に登るように言った父親を見た。その子は父親のことばに従って高い木に登ったのだが、木の上でバランスを崩して落ちて死んだ。
律法には次のことがはっきりと述べられている―
「母鳥を送り出す」と「父と母を敬え」という2つの戒めを守ることによる報いは、
どちらも長生き、長い人生だ。(出エジ 20:12; 申命 22:7)
この悲劇的な出来事を見たことで、エリシャは異端者になった。
彼は尋ねたのだ―
「父親を敬い『母鳥を追い払う』行為をした子供が、
長生きを与えられず死ぬー このようなことが、どうしてあり得よう?」
しかし律法は私たちの周囲と、そこに潜む危険に注意・留意することも求めている。
興味深いことに、この箇所の直後の戒めは、屋根の手すりの作成に関するものだ。
新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。
つまり注意することが重要であり、危険を無視して放置することは許されないのだ。私たちは転落の危険から守るために、手すりをつけるべきなのだ。
そしてここでも手すりは単なる一例であり、手すり以上の大きなメッセージを理解することが重要だ。律法はリスクを制限し、けがを避けることが求められている。
あなたがたは十分に気をつけなさい。
本来のこの聖句の意味は偶像礼拝、あるいは神の像や彫像を作ることに対する注意だ。しかし時間が経つにつれて、全てにたいして注意するように、という新たな意味を加えられた。
例えば滑りそうな高い木に登ってはいけない― 十分に気を付けなければ、危険だからだ、といったような使い方だ。または自転車に乗る際にはヘルメットをかぶりなさい、あなたがたは十分に気をつけなければいけないからだ―といったようにだ。
戒め自体もだが、より深く大きい意味や神のメッセージを探求し続け、喜んで理解し、信仰を持って神の言葉を成就していこう。
だからこそ私たちは、神の御言葉を学び続けるのだ。
神が皆さまを、多いに祝福してくださるように。
シャバット・シャローム!