反日のエクリチュール、雑感

 言葉の話をもう少し詳しく述べないといけないがエクリチュールというのがある。言葉は個人に属しているようで実は個人のものではなく社会の言葉を時限的に借用して使っているだけだ。そのため、個人が死んでも社会の言葉にはほとんど何の影響も及ばせられないわけだ。つまり、言葉とは社会に属するものだということになる。しかし、社会と言っても様々な階層・階級があり、階層階級別に独特な言葉遣いというのがある。貴族には貴族特有のアクセントと言葉遣いがあり、不良のヤンキーにはヤンキーらしくしゃべる言葉遣いや単語のチョイスがある。これをロラン・バルトがソシオレクト(エクリチュール)と命名した。ヤンキーの例がわかりやすいので彼らの言葉・言語生活を例に見てみよう。

 まず、ヤンキーには教養がありそうな言葉遣いは禁物だ。一瞬聞くだけで不良とわかるような言葉遣いをしなければならない。逆にいうとヤンキーだからこういわざるを得ない、そのようにいうしかない強制力が見えない力として作用しているということだ。どうしてもそうなってしまう避けられない言葉遣い、これがエクリチュールなのだ。

 そう!勘が鋭い読者なら色々と想像できてしまうかもしれない。韓国人には韓国のエクリチュールがあり、日本には日本のエクリチュールが厳然と存在しているのだ。10年前も20年前も30年前も新入生のエクリチュールは変わってないと感じる。どこか控えめで、懸命に空気を読み、周りをキョロキョロする姿はベネディクトが「アメリカの場合、精神に問題がある若者に見える行動」と戦前に語ってから何も変わっていない。これが日本人のエクリチュールといっても無理ないだろう。

 韓国人の反日のエクリチュールも実に興味深い。韓国民が善良な被害者で、日本が悪の加害者という図式は今日の教養人にも如実に見られる。至極わかりやすい白黒論法の図式が投射された言葉遣いだ。悪人の日本人の中で誰かが親韓的発言をしたら「良心的な日本人」となる。良心的な日本人とは反韓的な日本人の対立項である。つまり、日本人には2種類の人間しか存在せず、親韓的か反韓的か?という図式しか残らない。この盲目的で無条件の2分法が常に韓国人を苦しめてきた語法なのに当の韓国人は気づかない。もちろん、一般人がこのような言語の側面に気づくのは難しい。これに気づき啓蒙するのは学者の役割であろう。不幸にも韓国は人文科学が軽視されてきた国である。韓国のみではない。人文科学は先進国の学問である。ちょうど貧しい家庭の子供が早く卒業して就職して家族を養わなければならないとなると、すぐ金儲けとは結びつきにくい人文科学書を優雅に読んだり勉強することが困難な状況とにている。裕福な国で発達してきた学問分野といえよう。

 今度の尹当選者も言っていた。「人文学は周辺的で不要な分野」という趣旨の発言をしていた。確かに彼には教養の欠片も見られない。この状態が多くの国民には「許せる状況」と認識されるのであろう。ここまで書くと読者の皆さんは「随分厳しいことを書くな!」と思うかもしれないが、尹氏は自分の言葉を持たず霊媒師による予言の言葉を移動中の車で映像で確認して、ほぼそのまましゃべているのが確認できた(*<開かれた共感TV>、2022年3月21日放送、「緊急点検 再び注目される天空法師龍山移転予言ー尹のメントとしての影響力はどこまで?!」)

 尹に関する話題はここまでとし、話題をエクリチュールに戻そう。反日にも反日のエクリチュールが存在している。喋り方の図式がほぼ同じである。反日のエクリチュールの歴史は比較的に新しく、戦後と思われる。李承晩ラインは日本では評判悪いがそのときはまだ反日の機運が今のように高まったいたとは思えない。1965年の日韓協定の際に反対デモが見られたがこの以降から徐々に勢いを増してきたと思われる。反日の起源がいつからかは学問的な研究調査を待たなければならないが、僕が関心を持っているのは起源云々ではなく、反日から得る動力である。つまり、不幸にも韓国は社会を動かす原動力を自ら創出できていない。かつての高麗時代の仏教や朝鮮王朝時代の儒教のような社会の中心的な価値判断の基準となる思想哲学が今日は欠如している。みんなバラバラで中心がない社会となっているのだ。植民地時代には日本の価値観が支配したといえるが、その後は特に中心と認められるような価値観の存在が不在のままである。

 反日の情緒は理念・価値観の空白を埋める代替物となってはいないかと僕は考えている。憎むべき相手を共通の敵として設定しておいて、「無条件に憎み拒否する」ことで動力を得ているように僕には見える。基本的な視座がこのように歪んでいるため、国営テレビのKBSの記者が『日本はない』(日本に学ぶのは何もないという意味)という本を書きこれが大ベストセラーとなっていたのだ。無条件的な否定・拒否が二分法的な思考と相まって「100%あるか、100%ないか」という極端な主張につながっていると言ったら過言になるだろうか。実にもどかしい。 

 このような極端な二分法的な思考にこそ韓国社会のエクリチュールの特徴ともいえる。実は韓国だけでもない。北朝鮮でも全く同じだ。左派か右派かとだけ問われる。自分と意見が少しでも異なれば「赤(共産主義者)」で、北では「反動分子」といわれる。北も南も柔軟な考え方が極めて苦手だ。「雑巾は洗っても雑巾」といわれ、敗者復活戦が存在しない。いくら洗ったからといって布巾としては使えない一発勝負の世界である。逆に日本は柔軟すぎて戸惑うくらいだ。雑巾から布巾、再び雑巾と布巾の繰り返しが許される。

 「学ぶ」とは先生から教えてもらうことではないのは、同じ先生から教えてもらっても、成績に差が出るのを見てもと容易に確認できる。学ぶとは受動的な行為ではなく極めて主体的な行為だ。赤ちゃんからも学ぼうとすればいくらでも学べるのではないか。カナダのヘヤーインディアン部族の言葉には「教える」「学ぶ」という言葉がない。なのにどうして親世代の知識が子供世代に伝授されるかというと、「自分で覚える」という言葉があるからだ。自分で覚えるため小さな子供が「斧で薪割りをする」し親も積極的にさせる。異邦人の私たちからすれば危険極まりない薪割りであるが、怪我をした失敗経験から子供はたくましく成長していくのだ。

 子供が可愛いからといって子供に過度に介入・干渉している親が増えたように感じる。もちろん、その子供に多くの問題が見られる。不幸なことだ。親には共通点がある。妙にロジックが細かい。身勝手な理路で説明したがる。子供にも特徴が見られる。いつも一人ぽっちで、親友がいない。周囲の他人に揉まれたことがないので関係の構築が難しい。いい加減に済ませることが難しいようで執着を見せる傾向が強い。精神病患者はいい加減なことができないという。逆に僕のようなタイプ、今日やるべき仕事でも後日にやろうと伸ばすタイプの人は精神病患者にはなれないようだ。いい加減がちょうどいい加減だと誰かが言ってたな!


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