人文学の勧め;日々の取捨選択のために
人文学はなぜ必要なのか現場感覚で考えてみたい。巷では人文学を地味な学問分野で女の子の「嫁入り学問」と結婚前の飾り的な学問とみなされる向きもある。極めつけは文部大臣や総理大臣による「人文学不要論」も流れたりするから情けない。
僕の職場の大学は「人文社会学」分野を除けばほとんど専門学校と見分けがつかない分野が多い。大学が就職予備校のような機能が期待される時勢だから仕方ない面もあるとは思う。しかし、学生を見ると明らかな「人間力」のサをあるのがわかる。この不思議な感覚は僕一人に限らず、人文社会科学を担当している他の教員も同感しているようだ。
まず、人文系の学生の文章力が他の実業系・理系分野の学生に比べると比較にならないくらい優れていると感じている。所属を知らない学生でも「レポート」の文章の書き方などで学生の所属がわかってしまう。今まで見当が外れた記憶がない。逆に、飛躍が目立ち、穴だらけの文章を書く学生に所属を当てるゲームをするとほぼあたってしまう。もちろん細かな専門までは当てられないが、偏差値順というか一定の傾向性が認められると思う。
イスラム圏の大学の専攻分野について調べたことがある。イスタンブル大学、バグダット大学など。どこも歴史学以外の人文学がすっぽり抜け落ちている。なので、当然ほぼ専門学校のような学科・専攻が並ぶ。人間を研究すること自体がタブーとなっているのだろう。
人文学は先進国の学問である。後進国で人文学を学ぶのは優雅な振る舞いになるのだろうかほぼない。あるとしても浅い。多分他の分野に比べ大学設置時にお金が比較的にかからないから低予算で大学づくりができるから、「おいてある」のかもしれない。日本でもそれを感じる。
人文学の教養がまったくない教員が「学生の成長」を熱く語るのには毎回参ってしまう。良かろうと思ってても結果が伴わないだろうと思っていても、数で負けてしまうとお手上げだ。このような異様な情熱ばかりでビジョンが伴わない「成長論」が日本の大学で溢れているような気がしてやまない。卒論発表会は贅沢な理想となって久しい。
社会も組織もそこに住んでいる人間の考え・判断の結果物でしかないだろう。みんなが豊かな国、「幸せ」な人生を夢見るが豊かさと幸せはまるで総量が決まっているかのように全員に平等には配られない。全ては人間の心構え・態度によるというふうにしか理解できない。人文学は「人が見ないことを見」、「人が考えないことを考えることを得意とする分野」である。子供の情緒不安の背景には「良かろうと思ってるのに、そうさせてしまう親」が存在することが多々ある。子供が思いっきり甘えられる絶対的な安全地帯なしで育った子供は残念ながら情緒不安定になってしまう。人間の成長について何の勉強もせず、子供を育ててはいけない。大学の教員も同じだ。勝手な思い込みで「自分の判断で何も踏まえず主張」するのは大変危険なことなのだ。先知について何も踏まえることなく、自己流の主張と判断を重ねる教員が大学にいてはいけないと思うのは僕だけだろうか?
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