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2.5はブロードウェイを超えられるのか? 舞台芸術の歴史とその楽しみ方入門 2/3

▼1.序▼2.年来楽しみ上々 ▲6.王戯▲7.花集▲8.口伝

3.者学上々

 舞台上をいろんな人が右往左往しても、一々目で追う必要はありません。それぞれ役者は脚本に割り振られた役割を舞台上で果たしていますから、舞台を素直に観て感想を抱いた方が、自然と個々の役を知れます。役者は舞台上で役を演じていますから、役者を役と思って見た方が舞台の完成度合が分かって、舞台の出来栄えから動きの大小を抜きにした役者の力量を知ることができます。
 舞台には目立つ役とそうでない役がありますが、舞台上の役の印象と、役者の実力は別です。どんな役をやっても当たり役といわれる役者は極一部で、当たり役で上手いと言われても、外れ役で下手と言われるのが役者の普通です。主役を演じる役者が脇役を素晴らしく演じられることも、脇役を演じる役者が主役を感動的に演じられることも、稀です。そうした、役によって評価が分かれる役者に差はありません。
 舞台上で役者は役によって目立ったり引っ込んだりしますが、目立つ役を演じている役者が目立たない役者より優れていることはありませんし、目立たない役を演じている役者が目立っている役者より劣っていることもありません。
 ピーター・セラーズという役者が「Dr.Strangelove(博士の異常な愛情)」という映画で三役を巧みに演じ分けているのですが、彼が他の出演者よりも優れた役者かというと、そんなことはありません。ピーター・セラーズの演技は素晴らしいのですが、他の出演者の演技も素晴らしいので、豪華な俳優陣が名を連ねる名作として語り継がれています。しかし、三役を演じ分けるピーター・セラーズが役作りが得意な俳優であることは映画を観た人には一目瞭然で、彼が最も注目される出演者になることは監督のキューブリックも分かっていました。
 当たり役で上手いと思われる役者は、役者の得意だけで役を演じている、役に恵まれた幸運な役者です。得意が多い役者が演じる役は見所が多く感じられて、得意が少ない役者が演じる役よりも、役も役者も魅力的に思われて人気になります。
 舞台には、‘型’と呼ばれる舞台映えする表現が先人から伝わっていて、‘型’が得意な役者は不得意な役者よりも人気があって花形になります。‘型’は、数百年研磨された表現の基礎で、舞台上で役者が到達するべき理想の表現形態です。‘型破り’という言葉も、型があっての‘型破り’ で、型のない型破りは型なしと言われるほどに、役者にとって‘型’は有用な舞台表現の結晶です。舞台上での役者の見栄えの違いは、型の体得の優劣で決まります。また、コンパスの針が長いほどに、大きな円を描けるように、役者の身体は大きければ大きいほど客席の端々まで表現を届けることが可能であるという発想があります。蝋燭の灯りで舞台を照らしていた時代では、薄闇でも見える衣装の柄と舞台化粧が役を表す重要な目印だったので、衣装と化粧を広く纏える表面積の広い上背のある大顔の役者は、役作りが得意という理由で重要な役を任されて花形役者になれました。また、日本では、雨の滴や滝の水の落ち方に似た重力の流れに沿う表現が、動作に宿る自然の節理が生々しくも見所に思われて、そうした動きが得意な役者は「色気」があると言われて人気になります。対して西洋では、「色気」の対義語のような「セクシー」な感性が人気で、重力に逆らうバレエダンサーの爪先立ちや、ストリートダンスの重力と絡むような動きで際立つ生命力が人気です。「いのちを削る」という言葉が表すように、重力に逆らったパフォーマンスは、役を演じる役者のスタミナと体力を消費させて、表現を過酷にしていますが、そうした負荷を振り払って表現する姿も「セクシー」で人気です。
 注目される役者かどうかは、役者の芸の得意と不得意が観客にどのように知られるかによって違います。得意の多さで役者を見分ける観客と、舞台の士気に敏感な出演者は役を演じる役者の才能を気にしますが、才能がなければ演じられない役はありませんし、得意がない役者の演技だけで破堤する演劇もまずありません。それはそうとして、舞台を端から端まで網羅しようとしても、楽しめる時間は有限ですから、得意が多い役者の演技で芝居を楽しみたいか、役者の見所を舞台で観たいのか、自分の嗜好をはっきりさせるために、一度考えてみるのもいいかもしれません。
 本当の意味で技量のある役者は、他より優れた芸があるとか、舞台に貢献できているとかではありません。舞台ではセットが、衣装が、照明が、音響が、演出が、脚本が、それぞれ舞台に貢献しています。役は役者が演じますが、他の役割を(セットを、衣装を、照明を、音響を、演出を、脚本を)役を演じる自分の役割の手柄に変えられる役者は、技量のある役者です。技量のある役者は、セットが作る景色や、衣装の情報、照明の効果や、音響の表現、演出の意味や、脚本の趣きを演技に取り入れて役の一部にしてしまいます。そうした役者は、舞台の出来の良し悪しに関わらず見た人の心に残りますし、技量のある役者が出ている舞台はいいものです。
 もちろん、役者を技量の有る無しだけで分けて考えるのは狭量で、役者の魅力は一概ではありません。舞台上の役者の演技に関心が集まるのは、役らしさと、役者らしさと、役と役者の相性の、三味が同時に役者の演技で引き立って、それだけで見所だからです。同じ人間がこの世に二人といないように、どんな役者も二人といません。役者と役と演じ方は無限のバリエーションを生むので、演技は飽きようがありません。とりわけ、素の役者が見えない演技は面白く思われます。役者本人が面白いというより、日常と切り離された非日常に没入する舞台の面白さを役者の演技で分かりやすく楽しめるからでしょう。
 役と役者は光と影の関係で、役を前面に押し出した演技は役者の力量が一層強く感じられますし、逆に役に役者らしさを取り入れた演技は、役らしさも役者らしさも原型が残らず、あまり面白く思われません。観客に面白く思われようと工夫する役者の演技は、同ことを考える役者と必然的に技巧が被って似ます。演じ方に注目して観ている観客には、役者が皆同じ演じ方をしている様に見えますが、役者も人の子ですから、例え世界中の役者が一斉に同じ演技をしたとしても、違いが出るので全く同じになりません。同じ役者ですら、全く同じことを二度も三度も繰り返せませんから、同じように見えるのは見方の問題です。同じ演じ方でも全く同じにならない人の違いを、演技の違いと思って区別すると、演技が分かる役者が増えて、舞台の楽しみが増えます。

4.問答上々

 舞台には入口と出口があります。開演が入口で閉演が出口です。親切な舞台は、入り込みやすい入口を用意して、分かりやすい出口まで案内してくれます。開演の合図で日常を忘れた観客が閉演で迷わず後にする舞台は、観客に大層盛り上げられています。たまに、入口の案内がない舞台や、出口を用意していない迷路のような舞台もあります。そうした舞台は、舞台のカタルシスを楽しむ趣向なので、王道の舞台ではないと分かると、舞台に関する新たな発見があります。裏を返すことで表をよく知れるように、舞台も色々な試行錯誤が試されていますから、そうした舞台も楽しめる人はとても楽しめます。
 何度も上演される舞台は、過去の公演の評判がリレー形式に繋がって再演できています。バトンが繋がらないリレーに復活劇がないように、一度評判を落とした舞台は再演できません。再演される舞台の良さは過去の公演で明らかになっているので、過去の公演の良さを無視して再演は成功しません。過去の公演と同じでは、わざわざ再演する意味がないという意見もあります。しかし、オリジナルの完成度を上回れなかった変更は、新鮮味が感じられるだけで良い評判に繋がりません。オリジナリティは、オリジナリティだけではただの違いで、他より優れて初めて注目されますから、より一層の良い評判を得られない変更は面白く思われてもあまり良くは思われません。多くの人の興味や関心を惹きつける舞台には、それだけ多くの取り掛かりがあります。沢山の人に観られた舞台ほど、多方面から寄せられる評価に埋もれて、公演自体の印象は薄ぼんやりしがちです。しかし、そうした舞台には、沢山の役者に演じられた有名な役があります。過去に演じられた役が魅力が増したキャラクターになって復活しているかどうかは、再演の印象が決まる重要な鍵です。
 何人にも演じられた役であっても、役者の良さに演じられた役は息を吹き返して好演になります。さらに、役の悪さに役者の良さが活かされていると名演になります。役者は役と同一人物になるために、舞台上で多少なりと変わらなければなりません。役者は役とは違いますから、役でない役者が脚本の通りに演技をしても役になれません。役者は役にまずならなければならず、その時に、うまく役になれる部分と、うまく役になれない部分が役者にはあります。上手く役と役者がシンクロする部分は、役者が役を自分だと思って脚本に従うと良い演技になります。役と役者がシンクロしない部分でも、役者が役を分からないまま演じようとせずに、自分とは違う役にひたすらなりきって演じると、役者の預かり知らない所で役に役者が活きて、良い演技になります。ときには、ありのままの素の役者の演技であっても、舞台上での動作や台詞がスラスラと流れるようだと、自然体よりも更に清涼な出で立ちが好ましいと評判になります。役者が役を演じているのか、役が役者を演じているのか、ぼやけた演者とはっきりした演技が超常的な演出になって面白いのです。
 役の良さを持たない役者の演技や、役の悪さに役者の悪さが重なると、役の日常と役者の日常が舞台上でダブって見えて、舞台の正体が透けて白けます。舞台は、観客に非日常として楽しまれる人工の日常ですが、非日常なりの日常が欠けたエンターテイメントは人工臭いと悪く思われます。舞台に飾られた文字を役者が読んだり、舞台上で表現されていることを役者が台詞で重複したり、舞台から観客が感じている事を役が驚いたり、怒ったり、悲しんだり、舞台の表現と役者の表現が重なっていたり、違う表現が同じリアルを追求していると、リアリティを補正する舞台の仕掛けが目立って舞台全体が白けます。表現が間に合い過ぎて重複してしまうのなら、盛り込み過ぎています。
 舞台上では小道具や、大道具や、衣装や、照明や、音響など、様々な表現が飛び交いますが、あくまで表面上は自然で、道具が悪目立ちしないように考えられている方が巧みに思われます。道具の良さで飾られた舞台はもちろん、道具の良さで悪さを表現した飾りは舞台らしさを見る人に伝えて、舞台のクオリティーを二段階も三段階も上げます。悪さがそのまま道具の悪さで表現されていると、観客に日常の煩わしさを思い出させてしまい、没入願望を抱かれず良く思われません。中には、舞台上に何の道具も置かない素舞台もありますが、無によって無限の有を表現する手法は、目に見えない飾りで舞台を彩る大技です。人工物で自然を表現するのは難しい試みですが、観る人の心を誘導するために足し引きされた舞台は貧しくなります。誰が観ても自然と惹きつけられるような魅力が細かく重ならないように配置されていると、大仰でも切り詰めた感じもなく、ただ豊かに思われます。
 それでも、最善が尽くされても舞台が白けていたら、非日常なりの日常に日常そのものが紛れてしまっているのかもしれません。人の手で自然を再現するのは難しいとはいえ、無理を承知で試みる舞台の試行錯誤を観客は冷静に観ています。魅力的に思われるのは、日常よりも日常らしい非日常に仕上がった、本物よりも本物らしい偽物です。嘘と本当を取り違える観客がいて、はじめて舞台は成功して仕上がりに漕ぎ着けるまでの過程を終えられるのです。

5.新技

 近代のミュージカルを音楽と台詞が交じった劇と区分けするよりも、ワーグナー以前とワーグナー以後で区切ると分かりやすいです。1世紀前にワーグナーは、ギリシャ悲劇から進化したオペラを更に進化させようとしました。ワーグナーは芸術だけで作られた舞台を目指して、お菓子が置いてある家を、お菓子で作られたお菓子の家に進化させます。舞台は芸術で出来ているという考えを徹底的に舞台に組み込むことが、ワーグナーの舞台改革でした。それまでの舞台芸術を総括する「楽劇」と呼ばれる歌唱で物語を繋ぐ舞台ジャンルを新しく作って、既にあった音楽劇と分けるために「全体芸術」という新たな呼び名までつけました。「楽劇」という名称よりも「全体芸術」という呼び名の方が有名かもしれません。それまでの舞台はオペラであれば、独立した歌唱パートを上手く歌う歌手が話題になるだけで、名作として爆発的に評判になる舞台は存在しませんでした。ワーグナーが用いたスタイルは、音楽パートと芝居パートを分けずに最初から最後まで音楽を途切れさせることなく繋げて、舞台上の表現を一繋ぎにする斬新な方法でした。それまで舞台の見所を総評するだけだった観客は、舞台の全編が音楽で繋がれた「楽劇」を新しい刺激に満ちた舞台と褒めそやしました。ワーグナーは舞台を通して理解させたい作品のイメージやメッセージを音楽に込めたので、「楽劇」を観た観客は舞台の作品性について話題にすることに夢中になり、それまで議論されなかった舞台の芸術性が世間で注目されるようになりました。ワーグナーの舞台は、聞き慣れない評判が飛び交う舞台として世界に轟かんばかりに有名になり、現今の舞台が過去のどの舞台よりも偉大に思われる稀有な時代を到来させました。
 観客の芸術体験を音楽が先導する「楽劇」の発想には、ワーグナー自身の音楽への強い信頼が表れています。音楽の力は劇場にいる観客を異世界に連れ出せる、観客は音楽で無尽蔵に広い世界に旅立てる、異世界を知り、味わい、芸術が生む国の住人になれる、音楽は観客の情感を何処へなりとも移すことが可能である、という考えが根底にあります。ワーグナーが楽劇の題材に舞台としては有り得ないほど巨大な演目を選んだのも、それは可能であるという確信があったからです。ワーグナーは超長編の複雑な題材であっても、物語の起伏はそのままに更に見せ場を増やした舞台にすることができたので、20世紀最大の芸術家の評判を思いのままにしました。
 後にワーグナーの作品は、観客の手綱を舞台が握る捕縛的なやり方が、自由が欠けた芸術と非難されました。ワーグナー批判も歴史の一部になって暫くたちますが、ワーグナーが世界を狂喜させた「楽劇」の発想は、今日の演出効果の基礎になっていたり、大作と呼ばれる芸術の必要性が議論されたりと、今も社会に活きています。特に、現在世界中で上演しているミュージカルの類は「楽劇」の芸術観を引き継いだワーグナーの考えた「総合芸術」の後継です。
 台詞や演出も芸術表現に取り込んでいるミュージカルは、沢山の楽器の演奏で構成された交響曲のようです。ミュージカルの役者は、時に主旋律を奏でたり、時に和声を補ったり、楽器を梯子しながら演奏に交じり続けるスペシャリストです。様々な芸術の表現で紡がれるミュージカルでは、役者はシーン毎に異なる役割をこなして、一役を演じるに留まりません。芸術だけで作られた舞台では、役者でさえも純正の芸術です。舞台上を自由に動ける芸術として、様々な役割を芸術的にこなすミュージカルの役者は、何かしらの部分で誰にでも関心されます。役割の多いミュージカルの役者観は、最新の多様な表現者としてのアーティスト観と結びつきます。表現能力の高い精鋭が活躍する舞台なだけに、マルチに活躍できるミュージカルの役者は、現代のエリートアーティストでしょうか。しかし、ミュージカルが現代の総合芸術かというと、そうではありません。お菓子の食い合わせで味を落としたお菓子の家に魅力が無いように、組み込んだ芸術を反駁し合わせている「総合芸術」に良さはなく、要所が評価される一般の舞台の評価に落ち着いてしまっています。
 演出を連ならせる演出で舞台を成功させたブロードウェイミュージカルは、ワーグナーの「楽劇」から新発想を生んだ期待の新種でした。ドイツのウィーン・ミュージカルは、音楽で舞台を纏める「楽劇」の発想を正当に引き継ぎましたが、ブロードウェイはワーグナーが打ち出した「楽劇」を野心的に進化させて、演出を繋ぎ合わせる新しい方法で舞台を一作品に纏め上げました。豪華なブロードウェイの演出を見るために世界中から人が集まった時期もありました。しかし近年は、時代が進むにつれて増えた新しい芸術を組み込めずに、ブロードウェイミュージカルは「総合芸術」の看板を下ろしてしまいます。演出に次ぐ演出の評判も、新しい総合芸術から、ブロードウェイらしさに変わりました。何度でも観たくなる素晴らしい演出がある舞台には、感動の大作と言わしめる説得力があります。ですが、芸術を網羅しない舞台は、見所のある舞台としか評判になりません。進化する演出技術が話題になっても、ブロードウェイミュージカルの「総合芸術」としての未来は尻すぼむ一方です。
 芸術が年々増え続けると尚更に、大掛かりに芸術を一括りに纏める作業は難しくなります。「ニーベルングの指環」が「総合芸術」として芸術の頂点を極めた時代は、芸術の頂点を舞台が極めた舞台にとっての黄金期でした。舞台を一つの大きな芸術作品として大成させたワーグナーは、音楽の才能に恵まれた天才で、偉大な芸術家を目指した野心家でした。ワーグナーは後世の表現者に舞台を大成させる方向性を示しています。しかし、拡充し続ける芸術観に埋もれずに舞台を進化させ続ける手掛かりまでは残しませんでした。長尺の音楽を使わずに「総合芸術」を作る方法はまだ分かっておらず、ワーグナーを超える芸術監督は未だ表れません。今後、巨匠と呼ばれる作曲家や演出家が彗星の如く表れて、舞台を手掛けて名声を得るかも知れませんし、誰も活躍しないかもしれません。舞台が芸術の頂点を極める時代が再び到来するのか、嘗ての栄光には二度と返り咲けないのか、ワーグナーの手腕で「楽劇」として生まれ変わった舞台の1世紀を振り返ることはできても、未来のことは誰も何も分っていません。

「2.5はブロードウェイを超えられるのか? 舞台芸術の歴史とその楽しみ方入門 3/3」へ続く

©2023 陣野薫


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