未知と無知そして無恥?
昔、『未知との遭遇』という映画があった。
未知なるものとの出会いは、ワクワクする。
ふと、『無知との遭遇』という言葉が頭に浮かび、調べると映画などがあるらしい。観たことがないので何とも言えないが、同じようなことを考える人がいるものだ。
未知と出会うことに、恥ずかしさはない。
それは、初めて出会うことだから。
無知であることを言われると、恥ずかしくなる。
それは、知っているべきことを知らないから。
こういう、先入観を持っていないだろうか。
未知は、“未だ” 知らないことなので、知らなくて当たり前。しかし無知は、“何も” 知らないことなので、知っていないことを揶揄するように使われる。そう、ある意味軽蔑の、バカにするような言い方で使う。
では、私たちは何でも知っているのだろうか。
情報が多すぎて、知っている人と知らない人がいて当たり前。知っていても入ってくる情報が多すぎて、整理しきれず忘れていることも当たり前。
知っている情報なんて、氷山の一角に過ぎない。それに、無知と未知との境界が実はわからない。こういう考えを持っているから、無知だと揶揄されてもあまり気にならない。無知なんだから、「教えて」「知りたい」と思ってしまう。
しかし、待てよ。以前はそうでなかった。
会社に居た頃は、組織が大きすぎたこともあって、知らないことが多すぎた。知らない情報が頭上を飛び交うのが何よりも嫌で、必要な情報が私を経由するようにした。結果、知らなくてもいい情報まで入ってきた。
未知な情報と、無知な情報が同時に私に入ってきた。そして思った。未知と無知に違いはないと。厳密には違うけれど、わざわざ分けることに意味はないことに気づいた。
何でも分けること、分けることで優位性を保とうとすることこそが、問題。
無知を揶揄したり、批判したりするよりも、教えてあげればいい。
知ることで、ワクワクするかもしれないから。
少なくとも、ネガティブな感情にはならない。
今、池田晶子さんの『新・考えるヒント』を読んでいる。
池田さんらしい、無知に関する表現があったので紹介して終ろう。
「無知が無恥に通じるのは当然と言うべきか」