偽りをみつけることが、真実がみつかることにつながっていく
この文章は、5 年以上前の2013 年10 月に、以前使っていたブログに投稿した内容。改めてnote 用に文章や言葉をリニューアルにしてみることに。
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先日(2013年10月)、某ホテルの偽装? 誤表示?について綴ったが(補足:noteでは綴っていない)、別の視点からもう少し綴っていきたい。
何かにつけ定義づけしようとする風潮がある。
以前は、私も定義や原則などを求める側であり、作る側でもあった。しかしいつからか、定義を決めつけようとする考えに、疑問を感じるようになった。
定義をすることの必要性は、一見もっともらしく聞こえる。しかしそこには、大きな問題がある。
その一つが、価値観の押し付け。
価値観は、人それぞれある。何が正しくて何が正しくないかは、人に決められるものではなく、自分自らが判断すること。にも関わらず、価値観をもっともらしい定義で押し付けようとする社会になってきた。
窮屈で息苦しい社会になってきた。
定義やルールを決めること、これは、決める人が優位性を保つ以外何ものでもない。関わる人すべてで決めるのではなく、一部の人が決める。
実際、マネジメント部門にいて作る側にも立っていたので、よくわかる。まるで、正しいことを教えているという上から目線が、そこにあった。これがエリートという考えにつながっていくのかもしれない。
本当にすべきことは、定義をつくることではない。
自分なりの定義を自分で導き出せるようにする手助けをすること。
さて、タイトルとかけ離れた感を持たれたかと思う。前ふりが長すぎたので、戻ろうかと思う。
「偽りがなければ、私たちは身の回りのことの真実を追求するだろうか。」
先日も綴ったけれど、「高くて当たり前」「ホテルだから安心」など、それがあたかも真実であり常識だと、私たちは思い込んでいたと思う。実は作っている側にも、思い込み、いや思い上がりがある。
私は偽装を推奨している訳では決してない。世の中に真実があるということは裏返せば、偽りが周りには常にあるという意識を持つことが大切だということ。
ライフネット保険がでるまで、保険料が高くても将来の安心のため妥当だと思っていたはず。しかし、私たちの将来のためというより、生命保険会社の将来のためであった。ライフネット生命がでてから、生命保険はどのように変わったかをみればよくわかる。
先日綴ってから考えたことは、“偽りを見抜く力” を育むことこそ教育だということ。近い言葉でいえば、情報リテラシー力になる。なによりも、定義づけされたものが実は偽りかもしれない・・・。
真実があるということは、偽りがあるということ。
偽りがあるからこそ、真実の存在に気づくことができる。
この言葉を誰か言っていないか調べてみると、少しニアンスが違うが興味深い言葉を言われた映画監督がいた。この10月(2013年10月)に公開される「鑑定士と顔のない依頼人」という映画のトルナトーレ監督の言葉。
「偽りの中にも真実がある」
確かにこれも真だと思った。