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(思索の足跡①)扉が開く瞬間

“責任”という言葉の響きに、違和感を抱いたのはいつだっただろうか。

その思いを言葉として顕したのは、2019年の初秋だった。
< 揺れ幅 >

マネジメントにおいても、“責任”は常に付きまとってくるので、
  新しいマネジメントの研究文章に、責任について先日追記した。
< 響きが嫌な言葉、<責任> >

追記したものの、“責任”の違和感は溶けずに、残ったままだった。
ふとしたことで、その溶けなかった違和感が、元のカタチに戻ってくる。


いろいろなところで毎日、責任という言葉が飛び交っている。
無責任に、責任という言葉が、私の内にずけずけと入り込んでくる。

私は、京都人。
ずけずけと土足で家に入られるのが、とてつもなく苦手。
だから、責任という言葉が苦手になったのかもしれない。

苦手という扉の中に籠って一年ほど経ったある時、
  その扉が開く日が突然訪れた。

関心のあったこの責任について書かれる本が、
  年末に出版されることを知った。

それも、『中動態の世界』の國分さんが著者の一人だったので、
  心がざわざわしだした。
本の紹介文に、心躍った。
久々に、好奇心の光で、目が覚めた。

まずは、Amazonの紹介文。

責任(=応答すること)が消失し、「日常」が破壊された時代を生き延びようとするとき、我々は言葉によって、世界とどう向き合い得るか。『中動態の世界』以前からの約10年にわたる「当事者研究」との深い共鳴から突き詰められた議論/研究の到達点。

「うん、うん」とうなずきながら、出版社のHPものぞいてみた。

責任(=応答すること)が消失し、「日常」が破壊された時代を生き延びようとするとき、我々は言葉によって、世界とどう向き合い得るか。『中動態の世界』以前からの約10年にわたる「当事者研究」との深い共鳴から突き詰められた議論/研究の到達点。
『中動態の世界』の副タイトルには、意志のほかにもうひとつ、重要な概念があった。それは「責任」である。そして、本書における最大の収穫の一つは、この「責任」の概念を中動態的に捉えなおすことができた点にあると思う。

この本は、私の立ち止まった扉を開けてくれることになった。

私は、著者二人のように、哲学者でも研究者でも実践者でもない。
土足で入り込むことなく、私自らが門を開けるのを外で待ってくれた。
そう、私が自らの意志で扉を開けるのを。

扉の向こう側は、明るく眩しかった。
ただ、目が痛くなるような明るさではない。
どちらからといえば、やさしく温かい明るさだ。

次から、扉の向こうの話を続けていく。

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