( 無の探究の旅の前に ) 「ない」から「ある」へ
これは、“無の探究の旅” を書き記す前に、序文として2018年3月に書いた文章。以前から書こうと思いながら、書くことができなかった文章である。載せたのは2018年3月16日、当時のパラリンピックの話から始まる。
「ない」に意識を向けたきっかけ
今、パラリンピックが開催されている(注:2018年3月の話)。テレビなどでは大きく取り上げられないので、活躍する選手をニュースで読みながら、思い出したことがある。
「ない」ものから「ある」ものへと注意(意識)を向けるきっかけになった、ある映画を観ていた時の出来事を。去年6月にその映画を観ている時に、私の中で変化が起こったことを。
映画のタイトルは、「幸せを日々の中に。」。
鹿児島県にある知的障がい者施設「しょうぶ学園」で取り組んできた音楽活動のドキュメンタリー映画。上映される前から楽しみにしていた。映画が始まるとすぐに、映画の中に引きこまれていった。しかし映画を観てすぐに、頭に問いが顕れた。
「彼ら(障がい者の方々)は、私たち(健常者)をどうみているのか。」
強烈なメッセージとして、私の前に顕れた。なぜ顕れたのかは、わからない。私たち(健常者)の目線で語られているだけで、恐らく昔から気になっていたことが映画を通して一気に溢れ出た感じ。この問いが顕れてからは、その答えを映画の中に求めていた。答えは、映画の中にあった。
園長の福森さんも同じように疑問を持たれ、実際に障がい者の人たちに訊かれた。セリフは全部覚えていない。答えは、次のようなニアンスだった。
「私たち(障がい者)と何も変わらない」
「目もある、鼻も口もある。手も足もある。私たちと何も変わらない」
「ある」に意識が向いた
「障がい者と聞いて、どのようなイメージを思い浮かべるだろうか。」
「絵で表そうとすると、どんな絵を描くだろうか。」
視覚障害、聴覚障害、身体障害などは、健常者と比べ身体などの一部の機能などが「ない」状態を指してしまう。
これは何も障がいだけのことだけでない。
私たちは、「ない」ものに目を向けてしまう。
「お金がない」「仕事がない」「家族がいない」「居場所がない」・・・
自分に「ない」ものがあると、不満などを覚えてしまう。
「ある」人と比べることで、不満は膨らんでいく。
「ある」ものへ、意識を向けない。
あって当然のものとして、意識を向けない。
しかし障がい者の人たちは、「ない」ものを見ていない。
今見えている「ある」ものだけを、ただ見ている。
私たちは意識していないだけで、「ない」ものをねだる。
「ない」からねだる、「ない」から欲する。
今「ある」ものに目を向けることで、豊かさや幸せを感じることはできる。
豊かさや幸せは、人から与えられるものではない。
豊かさや幸せは、すでに持っている。
当たり前のことだから、気づかない。
あまりにも身近に在るから、気づかない。
豊かさや幸せの大きさを、人や過去の自分と比べてしまう。
より大きなものを求めてしまう。
求めすぎるから、益々在るものがみえなくなく。
そのことに気づいた瞬間、何とも言えない想いがした。一瞬恥ずかしくなった。それ以上に、このことに気づけて、嬉しくなり幸せな気持ちになった。
「ある」ことに、意識を向けるようになった。
「ある」ことに、感謝が素直にできるようになった。
「ある」ことに気づくと、楽しく嬉しくなった。
この時は「有る」だったが、その年の秋から「在る」に変わった。「在る」に変わった話を、5回続けて掲載する “無の探究の旅” にて書き記していく。
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