“でもね” から描く未来。
「そもそも、管理統制はできない。」を載せてから、思ったことがある。
綴ったことに対して、共感してくれる人としてくれない人がいるとは思う。
では、「その違いは何だろうか。」と考えてみた。
私の綴ったマネジメントの考えは、ある意味理想論である。
現実的なマネジメントではないと言われるだろう。
実際、話をするとそう言われる。
しかし、思う。
現実路線のマネジメントの先に何が待っているのだろうか。
性善説と性悪説
楽観的と悲観的
私の考えは性善説と楽観的かもしれない、いやそう。
その自覚はある、言われるまでもなく。
以前の私は、今とは反対の性悪説と悲観的だった。
今までの私の載せた文書からは、意外に思われるかもしれないけれど。
何事にもおいても、否定的・批判的な意見をまず言った。
性悪説の考えから、管理統制し罰則などの厳格を求めてきた。
今とは反対に居たからこそ、今は当時と反対の側にいるから、
みえてくるもの・感じるものがある。
これは何も私だけではない。
実は、結構多い。
ただし、全体からするとまだまだ少ないが。
少し話が変わるが、どんな風に未来をみるのだろうか。
願い・希望から未来をみるのか、それとも絶望から未来をみるのか。
誰もが、最初は願いや希望から未来をみる。
しかし、実現できないことがわかると、悲観して言ってしまう。
「○○であってほしい(理想)。“でもね”、△△だから(現実)。」
この “でもね” は否定で、よく否定の“でもね”は言うなと怒られる。
未来とは、夢、願うもの、そして想い望むもの。
誰もがいい夢をみたい。
いい夢を想像(イマジネーション)する。
想像? いや妄想かもしれない。
ただ、どちらも「想う」。
たまに悪夢をみてしまう。
悪夢が現れると不安になってしまう。
誰も始めから、悪夢を想う人はいない。
「未来がない」「夢がない」という言葉をよく耳にする。
願いや希望を悲観・否定する未来になっている。
現実の「未来がない」「夢がない」の後に、「でもね」 の後にも実は、
願いや希望はある。
その願いや希望を聴けるようになればいい。
「△△だから(現実)。“でもね”、○○だったらいいよね(理想)。」
この “でもね” には、願いや希望が込められている。
否定だと耳を閉ざすより、その先の世界観を聴いてみたい。
その人の願う・想う未来や希望を知りたい。
現実からだけでは未来をつくれないと、よく耳にする。
“でもね”、未来を想像することが、本当は今大切なんだよ。