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音が聞こえない世界。
スーパーの近くの歩道を歩いていたら、
真横を自転車が走り過ぎていった。
音が全くしなくて、
もし私が横にふらついたりズレたりしたらと思うと、
以前から感じていたある“危険性”に深く息を吐いた。
自転車は前かごに小さいお子さんを乗せていて、
自転車と接触していたら大怪我になっていたと。
ふらついた私を避けようと車道に流れて車と接触したらと思うと、
本当に怖くなった。
なぜ、自転車のベルを鳴らさないのだろうか。
昔、自転車によく乗っていた時は、
危険を知らせるために、そして自分の存在を示すために、
チリンチリンとベルを鳴らしていた。
うるさいぐらいに、昔は自転車のベルが鳴っていた。
最近は、自転車のベルを聞かなくなった。
同じように最近、車の音すら聞こえなくなった。
エコになるのは、環境にとって大変いい。
しかしそのおかげで、車が後ろから来ていることが全然わからない。
気づくと、横を駆け抜ける車がある。
それもかなりのスピードを出して。
歩いている人が足元に何かあって、横にズレたら車と接触してしまう。
夜道なんて、忍び寄る車に気づかないことによる危険性が益々増えている。
後、多くの人はイヤホンしながら歩いたり、自転車に乗っている。
ただでさえ、聞こえにくいのに、イヤホンをしたら全く聞こえないだろう。
私はイヤホンしないからか、音から来る情報も頼りにしている。
眼が悪く耳が良すぎるので、音から来る情報をより頼りにしている。
ちなみに、勉強なども音がしていても気にしない。
テレビの音、カフェの人の声など全然気にしない。
いや、ときどきそっちの音の方が気になったりして、
集中して勉強せずに、音の方に意識が向いていく。
そう、音は私にとって酸素のようなもの。
音のない世界は、酸素のない世界のように、息苦しい。
そういえば、昔職場があまりにも静かすぎて(当たり前?)思わず、
「無理。息苦しい。」と言った記憶がある。
騒音トラブルについてよく聞く。
だからといって、音が消すというのは別の危険性を秘めている。
何かを解決することは、別の何かの問題を生み出すことにもなる。
音が聞こえるから危険を回避することはできるので、
何でも消音そして無音にするのは、止めてほしい。
音のしない世界を想像するだけで、怖くなってきた。
便利になることで、別の不便が起こることを想像してほしい。