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(思索の足跡④)責任と意志の関係
前回でふれたメカニズムを、次のように本では簡単に示している。
「免責」から「引責」へ
この言葉だけだと、何のことかよくわからない。
そこで、本にある文章を引用したい。
一度それらの行為を外在化し、自然現象のようにして捉える、すなわち免責すると、外在化された現象のメカニズムが次第に解明され、その結果、自分のしたことの責任を引き受けられるようになってくるのです。<43頁>
責任が誰やどこにあるかを一度置いておく(免責)ことで、
結果として、責任を引き受ける(引責)ことになる。
このように考えると、そもそも責任とは何かがふと見えてきた。
私が考える責任とは、
「自分のしたこと(行為)に対して、自分で応答すること」。
この“自分で”という言葉の中に、“私の意志”が働く。
私の意志が働くことで、“私の責任”を自然と引き受けることになる。
言っていることはシンプルなので、よくわかる。
しかし、いざ実践するとなると難しいことも、よくわかる。
なぜ、一度免責する必要があるのだろうか。
多くの場合、当事者(?)に責任を帰属させようとする。
しかし、当事者の周りの環境にあることもある。
実際、そのようなこともよく言われている。
私も本人よりも、環境にあると思っている。
だからといって、環境がすべてとは思わない。
同じ環境でも誤りを犯さない人が大半だからといって、
責任を当事者に負わせすぎだ。
多くの他者と比較して、その人自身を見ようとしないことに違和感がある。
客観的に/普通は/一般的という言葉が社会に溢れているが、
これほど怪しい言葉はない。
本当は“どこに”あるかを知るためにも、一度免責する必要がある。
この“どこに”が、前回でふれた“メカニズムのどこに”と通じる。
このように、本を読み続ける中で、
意志と責任がどこで交わったのかが気になった。
興味深い仮説を、國分さんはたてている。
行為における意志を問うようになって、中動態がなくなった。
私たちは責任を負わせる時、
暗に“あなたの”意志があることを前提に、盾にとる。
その行為は、あなたの意志で引き起こされたのだから、
その行為の責任をあなた自身が負いなさいと。
意志はなかったと言ったら、そんなことはないと言い返す。
あなたの意志があったからこそ、あなたは行為をしたのだと。
意志があったかどうかを、尋ねるというよりも、問い質す。
それも、(曖昧な)前提があることを立派な盾のようにして、
ごりごりと押し込んでくる。
この話のあとに、「意志の誕生」の話がある。
すごく興味深い内容だった。
特に、意志が起こるとともに、
それに反発しようとする別の意志が別の場所で現れるという話は、
社会で世界で起こっている対立構造を示しているように思えた。
自分の意志で行為するというのは、どういうことでしょうか。<110頁>
その答えを、次のように示している。
その行為の出発点が自分にあることを意味します。<110頁>
この問いと答えが明らかにしているのは、
責任の帰属先がどこにあるのかということ。
行為を誰かに帰属させることで、その誰かに責任を負わせようとする。
いや、本当は、自分でない誰かに責任を負わせるために、
行為を自分でない誰かに帰属させようとする。
しかし、行為の帰属先、出発点はその人にあるのだから、
わざわざ、敢えて、他人が問い質す必要性は本当はない。
また、責任を負わせようとすることもない。
その人自身が考え、自ら応答すればいいだけのはず。
この話は、他の本でも同じような意味合いで書かれている。
多くの人が、責任の押し付けに違和感、いや不快感を抱いている。
少なくとも、私は不快でしかない。
次の、最後の章で、帰属先についてさらに思索を深めていきたい。