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“あわい”、おぼろげながら心にとどめておきたいコトバ

先日紹介した『あわいゆくころ』を読み終えた。

クラウドファンディングの御礼として届いた本だったので、いつもの赤線を引かずに綺麗に読もうと思った。読み進めていくと、記憶(記録)に留めたい言葉があった。もう一度本を読み返して、赤線を引くことにした。

ということで、この本を2回読んでいる。

もうじき8年が経つ、東日本大震災が起こってから。被災していないにも関わらず、多くの人が影響を受けた。少なからず、私もその一人。特にアーティスト関係の人たちは、自分の仕事が社会に役立っているのかを問われ、悩み苦しんでいたという話をよく耳にした。

著者の瀬尾さんもそんな一人。

震災後すぐにボランティア活動をまず始め、その後陸前高田に移住して暮らしながら、制作活動を始めた。実際の活動は、本の著者紹介で次のように書かれている。この“語れなさ”という言葉が印象に残った。

土地の人びとの言葉と風景の記憶を考えながら、絵や文章をつくっている。
“語れなさ”をテーマに各地を旅し、物語を書いている。

藝大の大学院で絵画を専攻されていたせいか、彼女の文章からはときどき、絵(風景)が浮かび上がってくるように感じることがある。また、彼女の絵には彼女の人となりが顕れているようで、やさしい絵を描かれている。

震災関係の本はいろいろ出版されていて、何冊かは持っている。ただその多くは、現地へ取材しての本。彼女のように、その土地に暮らしながら、土地に暮らす人の声を届けている本は珍しいし、それだけで意味がある。
震災直後から、2018年3月11日までの備忘録といっていいかもしれない。土地の人に寄り添いながら、寄り過ぎずに、言葉を丁寧に紡いでいる。

本は、その日その日の出来事をSNSで投稿し、それを纏めた本になっている。読み物としては正直物足りなさを感じるかもしれない。ただ、本から何を感じるか、受け取るかが、問われている気がしてならない。

本から、土地の人の声を聴いていく。その声を聴いてどう感じていくか。

そういう一冊。面白いのは、年の経過とともに、文章が少し変わった気がする。ときには、彼女の葛藤を感じたりする。ときには、彼女からの問いかけを感じたりする。

特に印象に残った文章を一部紹介したい。

目に見えなくなることで生まれる明るいきざしと、記憶に残すことの難しさが同時に現れてきているように思いました。
うつくしさは、そこに確実に存在するさみしさを押し返す。
平面になることはこんなにもさみしい。でもそこを人が歩けば、景色は立ち上がる。
彼女の言葉は、風景に奥行きを与えて、鮮やかな色をつけた。
過去を忘れないこと、いまを放棄しないこと、未来への想像を怠らないこと。それはきっと、同じ過ちを繰り返さないということ。
こころはどこにあるのか。こころは、風景の中にもあったのではないか。
物語は、語る聞くという複数の身体を往復することによって、豊かなブレを孕んでいく。
引っかかりを忘れないでいる、という役割を引受させてもらいたいような
そんな気持ちが、どこかにある。
当事者と非当事者という存在がもし分かれてあるとしたら、その間にあるグラデーションを繋いでいくことが大切ではないかな。

他にもいい言葉が数多くある。ただ、本を買うかどうか、悩ましいかもしれない。そんな人にはまず、彼女の文章にふれてほしい。

『二重のまち』

この本は過去について書かれた本だけではない。未来に書かれた本でもある。著者の瀬尾さんは実際、『二重のまち』でそれを書いている。

最後に、土曜日届いて読み終えたばかりの『往復書簡 緋の舟』(若松英輔・志村ふくみ)の中で、“あわい”という言葉を、志村ふくみさんは次のように表現していた。瀬尾さんの文章は、好きな作家の志村ふくみさんとどこか似ている気がする。ふくみさんは染織家で、同じように作品を創りながら、言葉も紡いでいる人。

闇と光のあわいにある「くもり」、灰色の世界です。そこにこそ永遠に割り切れることのできない人間の業の世界が存在し、限りなく美しく、哀しく、汚れに汚れ、一寸先は闇なのか、光なのか、すれすれのあわいに私たちは生きている。( P67より )

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