たわいのないことに、幸せがある。
いつから、冷え性になったのかわからない。
昔からだったのか、それともある時からかわからない。
ただ、ある日冷え性であることに気づいた。
ある日は、おそらく去年か一昨年ぐらいだった。
成分献血の献血時間は、いつも1時間を超えている。
説明には40分から90分とあるが、周りよりも時間はかかっている。
競争ではないが、後からした人が先に終わっていく。
時間がかかるから、いつも心配される。
「寒くないですか」
「しんどくないですか」
自分自身は全く、寒くもなく、しんどくもない。
すこぶる快調に、本を読んでいる。
好きな本を読みながら、人のためになる。
“豊かな時間”だと思っている。
ある日、看護師さんに言われた。
「手、冷たいですね」
自分の手をさわっても、冷たいかはわからない。
だって、さわる手そのものが冷たいから。
たまに献血中、カイロを渡される。
「冷たいですね」を何度か言われると、冷え性の自覚が芽生える。
「心は温かいですね」と言われている気になって、幸せな気持ちになれる。
ただ手以上に、足が冷え性かもしれない。
「手、冷たいですね」と言われるたびに、言いたくなる。
「いや、足の方が冷たいです。さわってみますか」
この季節、本当に足が冷たい。
お風呂に入っているのに、冷たいときもある。
手でさわると、冷たいのがわかる。
といっても、冷え性で困ることはあまりない。
あることを除いては。
冷え性に気づいてから、靴下は必需品になった。
真冬のこの季節は、とくに。
だが待てよ、昔、いや数年前までは、冬でも自宅では裸足だった。
小学生の6年間は、冬でも半ズボンだった。
記憶の限り、一度だけ長ズボンをはいた記憶がある。
ただ、不思議なことに長ズボンを持っていた記憶がない。
何を履いていたのかだろうか。
寒さには、どちらといえば強いはずだった。
一番嫌な季節は、冬。
理由は、寒いから。
寒いと、家から出たくなくなる。
雪が降るたびに、「寒いから会社休んでいいですか」といつも言っていた。
もちろん、認められる訳はない。
そもそも認めてほしいとは思っていない。
挨拶のようなものだから。
ちなみに、雨が降っても同じようなことを言っていた。
本気でそう思っていないことだけは言いたい。
関西のボケとツッコミ。
話がズレだしたので、元に戻ろう。
このような文章のやり取りは、向田邦子さんの影響にちがいない。
うん、まちがいない。
どこまで戻るのか、そうだ、靴下まで。
靴下は必需品。
ただ昔から、冬でも自宅では裸足の生活。
そのせいか、靴下を履いては脱ぎ、脱いでは履く、の繰り返し。
靴下をはいていないと、足元が冷たくて気になる。
靴下をはくと、何か気になってしまう。
冷え性であるのは、本当に嫌。
それ以上に、靴下をはいたり脱いだりするのが、イヤ。
これを書きながら、靴下を今ちょうど脱いだ。
冷え性と靴下のどっちが嫌なのか。
書いたら、答えがみつかるかと思ったが、みつからない。
どっちかではなく、どちらもイヤということ。
いや、どうでもいいこと。
どっちつかずの、どうでもいい、どうしようもない、たわいのない話。
ふと、想う。
たわいのない話ができるのは、幸せなことなのかもしれない。
そういえば、若い頃は、たわいのない話をよくしていた。
そういう話をするとき、なぜか笑っていた。
笑いながら、その時間を楽しみ、幸せだと感じた。
いつから、たわいのない話をしなくなったのだろう。
今、たわいのない、どうでもいい話をしていますか。
効率性や生産性が求められ、たわいのない話がムダだと切り捨てられた。
当時から、何に対するムダなのかわからなかった。
最近の会社は、たわいのない会話が許されるようになった。
「働きやすい会社」の多くは、たわいのない時間を大切にしている。
働きやすいの先には、豊かな時間があって、幸せを感じられるかどうか。
豊かさや幸せは、ありふれた時間の中にこそ、在る。