僕が一番書き残しておきたかった事。
平成最後の日になった。「平成が終わることになったんだなぁ」なんてぼんやり思ってたくらいだったのに、「寝て起きて」を日々こなし続けていたら、その日は本当に来てしまうんだ。といった気持ち。
「平成のうちに書き置いてしまいたい」と思って書き始めたこのnoteも、書き足りることなく今日この日を迎えてしまった。なので、今後もこの書き留める作業は続けていくことにしたんだけど、僕が一番この時代に書き置いていきたかった事を今、話すことにした。
ある日、とある演奏動画を見た瞬間から、「事務員G」という新しい活動が始まった。それは、このインターネットという目新しい技術を使って「自分を表現する」ことがいつかもっと許容された世界になるはず、という発展の象徴だったように思える。そして「インターネットというのは機械的で、感情もなく、殺伐としたものだ…」という世間の認識が少しずつどうなったか…は、もうこのnoteを見てくれている”あなた”に説明の必要はないだろう。
まだ僕が「新しく身を置くことになった状況での正しい立ち振舞いかた」について上手じゃなかった頃。僕にとってのきっかけになった”とある演奏動画”を作った彼もまた、上手じゃなかった。器(うつわ)が成形される前の、まだやわらかい粘土のかたまりが、ろくろの上に乗っている様な状態だった。
ある日、その彼は炎上した。そして、この世界に居られなくなってしまった。僕は、彼が居なくなっても収まりきらなかった動きをそのまま受け継いでしまった(僕にも非はあった)。淡々と書いているつもりだが、もし、その時に僕たちを消してやろう死に追いやってやろうという気持ちで動いていた人がこの文章を読んでいたら正直に教えてあげたい。「君たちには本当にやられたよ」。
僕たちは、誰しもが必ず持っている”少しだけ みにくい気持ち”だけを集めてしまい、それを炎上というブラックエンターテイメントにしてしまった。少しずついろんな数字が大きくなってきただけの一般人だった僕らは、沸き起こった時の対処法を知らなかったので、どんな憶測でさえも”現実の話”に変わっていく様子を、ただただ見ているしかなかったのだ。
僕がその影響で、口から声が出しにくくなり、会社に出勤できなくなってしまった時期。急に父親が死んだ。すごいタイミングだった。
1週間の忌引きをもらって、喪主をした。葬儀の合間にも「死ね」という手紙(住所は晒されていた)が届くので「おかげさまで死んだよ。残念ながら俺じゃないけどな。」って思ってた。後から聞くに、忌引き中も仕事先に大量のFAXが届いていたそうだが、会社が気を使って捨ててくれていた。
涙も枯れ果てた僕は、「本当に自分がここから消えたほうが他の人にとって幸せなんだろうか」と考えてばかりいたんだけど、この一連の流れが渦巻いているうちに「とても悔しい。だから、『あの人達にとっての”こんな悪い奴”が、まさかの、ずっと居続ける』ことを目標にしてみるのも実は”楽しいこと”なのかもしれないな。」と思うようになった。そして、何かを作り続けていくことこそ面白い自分像かな…と思えるようになった。
僕にこの世界を教えてくれた彼は去り、僕は残ることを決めた。
僕は「炎上の結果、会社を辞めました。この世界からも去りました。」という結果になること…つまり自分で自分を見た時に「そんな程度の人間だったんだ」と考えることで悔しくなるのが嫌で、何か「ずっと続ける」ことをやって、自分に対しての「続けている証明」にしようと思った。毎週、同じ曜日の同じ時間にピアノを弾く配信を始めたのには、そんな理由があった。
僕は、この時にこの決定をして本当に良かったなと思っている。その後に続いた人生が、幸せなことだらけだったから。
僕にとっての、平成最後の仕事は「ニコニコ超会議」という、幕張メッセのイベントになった。「演奏してみた」というブースの企画や司会をして7年目になる、恒例の行事だ。
(ニコニコ動画という動画投稿サイトには、いくつかのジャンル(部門)が用意されている。例えば僕のように、主に楽器を演奏した動画を作る人の場合は「演奏してみた」というジャンルのタグを付けて投稿することになるわけで、硬い言葉になってしまうが僕にとっての所属先も「演奏してみた」とも言える。)
僕が活動を始めるきっかけになった”とある演奏動画”を見つけたのも、この「演奏してみた」というカテゴリの中での話だったので、初めて「司会を」と頼まれた時は喜んで受けたし、途中で「企画会議に参加を」と言われたときもとても嬉しかった。(実は、僕のような「ユーザー」が「ユーザーという立場のまま(社員ではない)」企画に参加するという事例はそれまで無かったものなので、その決定をしてくれた運営会社の対応には、その当時、とても驚いた。)
さて。僕がそのイベントに関わるようになって数年経った頃、ついに、僕は念願だった瞬間を迎えることになる。「去っていった彼」と「残った僕」の話に戻そう。
「去っていった彼」とは、その後、疎遠になった。僕もなんだか「あの時は、あの時の話」…と、置いてきてしまったような感覚もあって、こちらから触れられず、ただただ時間が流れた。「じゃあ、また。」という最後の言葉が頭の中にずっと残っていたような気がする。しかし、その「連絡をお互い取らなかった時期」にも、彼は、裏で音楽を作り続けていたのだ。
彼はその後、作曲家になった。そして、作曲を担当しているバンドでのライブを行うようになった。僕にとっての「念願だった瞬間」は、彼が始めた新しい活動と、僕が続けていた活動とが、再び交差した瞬間、ということになる。
「演奏してみたブース、続きまして『PENGUIN RESEARCH』の演奏です!それではどうぞ!」
彼の所属するバンドの名前を紹介した後、僕は、ベースを持って後ろに立っている彼…いや、堀江晶太君のところに行って、耳打ちをした。
「待ってた」
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僕は、今日で終わってしまう”平成”という時代に体験したいろんな事が「すべてまとめて」セピア色になってしまうような気がしてならない。けど、自分が経験した一つ一つの思い出の延長線の先に、今この文章を綴っている自分が居るのは確かなことだ。時代は変わるけど、伸ばしてきたメジャーが巻き取られるわけではない、と思いたい。
今回、やけに「今だからこそ思える」という言葉を使うな、と書いてて思ったのはそういうことだと思う。だからこそ、もし僕の「とある事務員の後日談」を見て「面白そう」と思ってくれた人が居たのなら、ぜひあなたも、何かをやってみてほしい。そして、続けてほしい。
「簡単に想像できるような未来に、しないこと。」 大げさに聞こえちゃうけど、こういうこと。帰り道をちょっと変えてみるとか、いつもは買わない飲み物を買ってみるとか、そんなことから始めてもいいと思う。失敗か成功かなんて気にしない。「そんな事をしてみた自分」を見返した時、少しだけ楽しくなれる。そのほうがちょっとだけ得な気分になれたなら、それでいいんだ。
僕が平成を終える今日この日に、思っていることは、そんな感じ。
堀江晶太君と僕、そして、あの頃の友人たちと、今、同じ町に住んで次の時代を迎えることになった。そんなオチ、想像できたかい??