「AFURI」にメールを送った日
2019年7月。僕は、普段しないような事をした。
とあるラーメン屋さんに「ご意見メール」を送ったのだ。
メールを送ったことを思い出したのは、そのラーメン屋さんの名前を、ニュースで頻繁に目にするようになったからだった。
ラーメン屋の名前は「AFURI」と言う。今や世界も含め25店舗を超える店を有する有名企業だが、僕がこのラーメン屋さんに初めて出会った頃はまだ、恵比寿店と原宿店の2店舗しか無い時代。
僕は、この「AFURI」のラーメンが大好きだった。本当に。
当時の僕は、AFURI原宿店から歩いても5分かからないくらいの所に住んでいたのだが、ある日一番近いラーメン屋(野方ホープ)を追い越し、初めて食べに行った。文章がありきたりになりそうなので簡潔に言うと、こんなに美味いラーメン屋が近所にあることを幸福に感じた。そのくらい美味かった。
ようやく「きちんとしたスタジオ」でレコーディングをするという仕事が僕たちに生まれ始めた頃。一番覚えているのは、日をまたぐ時間帯まで平和島のスタジオでレコーディングをし(若い!笑)、ベーシストの車に重たい機材を積み込み、そのミニクーパーに乗り込んで首都高を走っている時に「好きなラーメン屋」の話になったときのことだ。
僕が「AFURIが一番好き」と言ったら、運転しているベーシストが「AFURIいいよね」と言った。「まだ食べたことがない」と他のメンバーが言ったことで「それなら今から行こうか」となり、目的地をAFURIに変更したのだ。
寒い冬だったと思う。
僕のお気に入りは、柚子塩つけめんだった。
つけ麺の割りスープは、それ用に味が考えられている丁寧さで、ちょいと洒落た陶器に入れられ供される。これがチンチンに熱い。手元の紙ナフキンを巻いて注いだ。
体に染み渡らせる様にスープを飲む。
他のメンバーが「うまいね」と言う。
「だろ?」
僕は得意げになった。
終電を過ぎた原宿駅前のカーブした道は、とても静かだった。
僕には青春らしい青春がなかったから、いま思い返してみれば、これが僕の初めての青春だったのかもしれない。
同じ頃、僕が知人に「10年後は俺、何やってんのかなぁ」と言ったら「10年後も同じことやってると思いますよ」と返された事を覚えているということは、その頃の僕は「10年後何やってるのか分からなかった」ということだ。
ようやく「レコーディング」だとか「リハーサル」だとか、そういう言葉を頻繁に使い始めるようになったけど、それがまだ、今後に続いていくなんて夢にも思ってもいなかったわけだから。
僕にとっては未来の見えない、ちょっと切なくてうす暗い青春。
そのうす暗い青春に寄り添ってくれていたのは、客もまばらな深夜に、チャーシューを焼くと出るモクモクの煙と、店の隅に取り付けられたテレビから流れているアニメ(消音設定になっている)を見ながら食べた、アッツアツのAFURIのラーメンだった。
家が狭すぎたこと、スーパーが遠かったこと、謎の咳が止まらなくなってしまったこと… いろんな理由があって、数年後、僕は原宿からもう少し窮屈でない場所に引っ越した。
回数は激減したにせよ、電車を乗り継いで食べに行ったこともあるし、山手線に乗ってる時にふと原宿で降りたこともあった。
数年が経ったある日。新宿駅を歩いていたら、すぐ近くにAFURIが出来たことを知った。すぐにその日の昼食をラーメンに決め、ワクワクな気持ちで地下2階の店を探したのだった。
もしかしたら。
僕自身の思い違いなのかもしれない。
僕は食べ物を品評する仕事をしているわけではないので、味がどう変わっただのを言い述べることはできないから、全くの見当違いという可能性だってある。僕は、何か食べたものについて批判する立場にないのだ。
ただ一つ。あの時のラーメンとは全く違った、とだけ。
「僕の思い違いなのかな」と思いながら、拠点近くにできた六本木店に行ったこともあるが、やはり思い出とはかけ離れていた。思い出補正が強くかかっているのかもしれない。
何度も考えあぐねた末に、僕はついに、生まれて初めてラーメン屋さんにメールを送ったのだった。
僕はいまだに、あの日いただいたラーメンの味を信じている。
いちミュージシャンの遅かった青春を彩ってくれた、あの味。
そしてそれが世界中のたくさんの人に届いて、新しい感動を生み出してくれることを今も願っている。
いろんなこと、あると思います。
たいへんなことも、あると思います。
ただ、あの日の僕のラーメンは、間違いなく世界最高の味でした!
がんばってください!!ずっと信じて、また食べに行きます!!
いちミュージシャンより