ピアニストを連れて行く食事場所を選ぶ時に思っていること
ある日、鍵盤弾きの四人で飲み会をすることになった。
「ピアニスト四人で飲み会をすることになった」と書き始められればよかったのだが、こう書いた。厳密に言えば一人はキーボーディストだし、自分自身は今でも自分のことをピアニストと言えるほどの大それた人間ではないと思っているからだ。
いろんな経緯があって結局この四人で集まることになったのだが、食事をする場所については一任された。片方のピアニストが「事務員さんが居るなら、店は事務員さんに決めてもらったほうがいい」とキーボーディストに伝えたそうだ。キーボーディストは「自分はそのまま仕事で大阪に行く必要があるので、東京駅の近くだと助かる」と言い添えた。
世界を股にかけて活躍するピアニスト二名と、多方面で活躍するキーボーディストをお連れする店を選ぶというのは、なかなかにむずかしい。高級な店だと気兼ねしてしまうし、かといって適当なチェーン居酒屋に連れて行くわけにもいかない(それはそれで面白そうだけど)。心のなかの僕は、あまねく銀座界隈を歩き回り、丸の内のビルを立体的に駆け巡り、ついに意識は日本橋を越え、室町、神田周辺にまで到達する。
ピアノの演奏とは、単に定められた順番どおりに鍵盤を押し込み続ければ良い、というわけではない。いかにその人が多種多様な景色を見てきたか、というのが思う以上に重要だと思っている。練習によってピアノを自在に弾きこなせる体と指を得ることは前提にすぎず、自分が頭の中に思い描いている景色を、観客にも同じように思い起こさせようとすること……これがピアニストという肩書きの意味する大きなところではないか。
だからこそ。譜面のみから得られる情報以上に、その曲が書かれた時代背景や、作者の心境などを知ることもピアニストの大事な作業の一つなのである。
ただし、オリジナルの再現性をただ求めていればそれで良いというわけでもない。大事なのは、そこに”ピアニスト本人”という要素が加わること。最後にピアニスト本人が得てきた生きざまのようなものが加わることで、これでついに、その人による演奏という作品になるのだ。
ある脚本家による台本で、さまざまな役者が演技をするようなものだ。新進気鋭の役者が演技をすればフレッシュな印象になるだろうし、熟練の役者の手にかかれば、その役者そのものが経験してきた歴史によって、より一層の深みが演技にもたらされるかもしれない。
映画監督が、演技の細かい部分を役者自身に任せてしまうように、たいていの作曲者は演奏者に、ある程度の解釈の余地を残しているわけだ。
少々オカルティックな話に聞こえてしまうかもしれないが、先述した三名を連れて行く食事場所を考えるときにも、こんなことを心の端で思っている。たった一度の食事でしかないが、その経験によってもしかしたら、その人の演奏が微粒子レベルで変わるのかもしれない。
88鍵を眼の前にして弾き始めるその瞬間の、無のような心の質が、雨粒一つがえぐる岩の量ほどでも、変わるのかもしれない、と。
東京駅の周辺を巡っていた頭は、ついに神田駅を越したところで停止した。「ここしかない」と心が決まった。
ピアノという海外からもたらされた楽器をあやつり、今や世界中の人々に豊かな音と感動とをもたらしている彼らを案内したのは、神田須田町の風情ある一角。戦火を逃れつつ、100年近く変わらずその場所にある名店だ。
畳敷きの大広間であぐらをかき、面と面とを突き合わせながらの音楽談義。
備長炭を仕込んだ、くつくつと煮立つ鉄鍋には、大正時代、牛肉のそれよりポピュラーだったと言われる鶏肉のすき焼き。
もしかしたら100年近く前も同じように、新しいピアノという楽器について研究する声がこの店に響いていたのかもしれない。