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僕がピアノに出会ってからの先生方は、素敵な人が多かった

初めてのピアノとの出会いは、幼稚園でだった。
教室においてあったピアノが好きすぎて、大塚先生から「お遊戯だよ」とか「お昼寝だよ」と言われても、ずっと僕はピアノを触りたがっていたらしい。困った先生が、迎えに来た母親にその事を伝えたのがピアノを始めたきっかけ。
(記事のTOPにあるアップライトピアノは、僕が幼稚園で初めて触れたピアノです。幼稚園の解体後は、園長先生の自宅に保管されていました)

2012年。久しぶりに見に行った、僕がピアノと出会った幼稚園は解体中だった

最初にピアノを習ったのは、おばあちゃんのオジマ先生。
「この記号があったら、最初に戻るのよ」と教わった僕は、延々とリピートして弾いていた記憶がある。
「だって、また(リピート記号が)来ちゃったから」と言っていた。ひねくれていたのだ。嫌な4歳だったと思う。

転勤の多い父親の仕事の都合で仙台から横浜に引っ越し、2人目の先生になった。しかしその先生に習った期間が極端に短かったため、2人目の先生については顔も思い出せない。練習しない僕と、それを許してくれる先生。まったく進歩しないことを見かねた母親が、すぐにそこを辞めさせたのだ。

3人目の先生は、母親の友人(通称:ヨっちゃん)だった。
ママ友同士の飲み会のときに「息子のピアノの先生が優しすぎるから変えたい」と相談したら「私ピアノ教えてるから、私が見ようか」と言ってくれたらしい。
「オーちゃん(母親)の息子だから、気兼ねなくビシバシやるから!」
と母親に言ったらしい言葉はウソではなく、本当に厳しかった。
「もうピアノやめたい!」と先生の家で髪をむしりながら泣きわめいたこともあった。
あとになって分かったことではあるが、母親とヨっちゃん先生はこまめに電話で情報共有をしていたらしく、ピアノをやめたはずだったのに、結局次の週も行かされていた。
お菓子につられていたと思う。

たまプラーザ駅の旧駅舎(北口)
いまは空港みたいにきれいな駅だけど、その前はこんな感じでした

ピアノの日になると、母親から500円玉をもらって、バスでたまプラーザ駅に向かった。運賃が200円。帰りの200円を差し引いて、残り100円。これがお小遣い。
駅の北口にバスが停まるので、北口から駅に入って、先生の家に向かうため南口に降りる。
その途中左側に改札機があって、その横に小さなキオスクがあったから余った100円で好きなお菓子を買った。これが嬉しかったのだ。

小学校3年生で山梨県に引っ越しをする。
4人目の先生は、優しい先生だった。またもサボり始める僕を見た母親は、周囲に「この辺で一番厳しい先生は」と聞いて回るようになった。
そして、あえなく5人目の先生のところへと連れて行かれる。

5人目は、おばあちゃん先生。
母親の期待どおり、本当に厳しかった。
夏休みの工作でテーブルを作ろうとした僕が、ノコギリの使用方法を誤り、左手の人差し指に今も傷が残るほどのケガをしたことがあった。
先生に痛々しく包帯を巻いた指を見せたところ
「ホウ。で、それが先生と何の関係があるだあるんだ?」と言い放つ。
先生自身の息子にも「ケガをするとピアノが弾けなくなるから」と言って野球などの激しいスポーツを禁止したくらいの人だったのだ。

ある年、曜日的にたまたま12月24日がピアノのレッスン日になったことがあった。
先生は「先週と比べてなんも変わっとらん」と怒り、「やっぱり来週も来なさい」と言う。本来は休みだったはずの12月31日、大晦日だ。
しぶしぶ迎えた12月31日のレッスンでもまた「まるで努力が見えん。明日までにちゃんと練習して、明日もう一度来なさい」と言われた。

僕は12月31日から1月1日にかけて、ようやく初めて必死に練習をした。これ以上練習することはムリだと思うくらいやった。
1月1日に先生の家に行くと、玄関で「ちゃんとやっただか?」と聞かれ「やりました」と答えると「じゃあピアノの部屋に行かんでええ」と言う。
先生はピアノの部屋と反対側にある和室に入るよう勧め、こたつの上にミカンを2個置いて「ここに座って、これ食べて、帰りなさい」と言い、呆然としている僕に「まァ、こういう日にはちゃんとした挨拶っちゅうんがあるら?あるでしょう?」と言った。

「……あけましておめでとうございます」
「ハイ、あけましておめでとうございます。良くがんばっただな!」

そしてある日、月に1度、国立くにたちにいる息子のところに通うようにと言われ、6人目の先生は、そのおばあちゃん先生の息子さんになった。
6人目の先生はとてもユニークな人で、特殊なソナタ形式の調の配列に関する説明をするときに、ソファで逆立ちをして見せるほどの人だった。
月に1度、山梨から東京の国立に通う。国立駅から先生の家に向かう途中にあった古本屋で、昼食代にともらったお金をマンガに変え、お腹を鳴らせながらレッスンを受けたのだった。
(この先生は、僕がニコニコ動画で活動を始め、ライブにオーケストラを入れようとしていた頃の話にも登場します↓)

小学校6年生になり、ついに山梨から千葉に引っ越すことになった。
僕は「これで厳しいおばあちゃん先生と、その息子先生から解き放たれる」と思っていた。
7人目の先生は、バラで埋め尽くされた庭のある邸宅で教えている上品な先生。しかし、ピアノの教え方に関しては先進的だった。
グランドピアノが2台置かれたレッスン室のすみにデスクトップパソコンが置かれていて、MIDI入力ができるシステムを構築していたのだ。
携帯電話の着信音が3和音とかの頃だ。今思い出してもすごい話だなと思う。

クラシックの他に、好きな曲を1曲選んで良いことになっており、J-POPだったりジブリだったり、なんでも弾かせてくれた。
楽譜雑誌「月刊Piano」を「500円(当時)で、これだけJ-POPの譜面が載ってるなんてすごいと思わない!?」と僕に紹介してくれたのも、この先生だった。先生の家に何十冊もあった月刊Pianoをめくりながら、大事な自由曲を決めたのだ。
その後僕は、その雑誌で連載を持つことになる。
連載を始めた11年前、先生に嬉々として報告したのも懐かしい。

7人目の先生に習っている時、同学年に津田くんという男の子がいた。
その先生に習っている男の子は、僕と津田くんを含め片手で数えられるくらいだったと思う。
津田くんと、たまたまレッスンの時間が前後になると、先生は「せっかくだから二人でなんか弾いてみたら」と言った。
僕がそこで突然「剣の舞」の伴奏を初めたところ、津田くんは見事に合わせてきた。彼もまた「譜面が無くても雰囲気で弾ける」という能力を持っていたのだ。

なぜ僕がここで「剣の舞」を選んだのかというと、そのルーツは、さかのぼって3人目のヨっちゃん先生の話になる。母親の友人で、きびしかった、あの先生だ。
当時のピアノの発表会の最後に”講師演奏”というのがあって、ヨっちゃん先生が、他の先生(その発表会は3人のピアノ講師による合同で行われていた)といっしょに「剣の舞」の連弾をしていたのを、僕は見ていたのだ。
それにとても感動していた僕は、いつかあれを友達とやってみたいと常々思っていたわけ。
津田くんとの「剣の舞」は、僕の夢だったのだ。
打ち合わせなしなのに最後もバッチリ決まり、僕らはゲラゲラ笑った。

まらしぃ君といっしょにやった「剣の舞」のアイディアは、ここで生まれていた。立ち位置を入れ替えたりするアクションを追加したのは、そのほうが面白いと思ったからだった。

今だからこそ書くが、津田くんに関しては、ちょっとライバル心があった。
難しい曲をこぞって練習し始めたのは、津田くんという存在が大きかったと思う。
バリバリの理系だった津田くんは、風の噂ではその後、東北の有名大学に進学してピアノはやめてしまったらしいのだが、僕にとって初めての「ピアノ男子仲間」だったと思う。

さて。
ある日、先生の家で、FAXで送られてきたらしい手紙が置いてあるのを見つけた。
先生によると、先日同窓会があって、その時のお礼が友人から来たのでさっきまで読んでいた……とのことだった。
FAXに書かれていた特徴的な字に覚えがあった僕は、家から、昔の発表会のプログラムや先生からの手紙などをまとめたファイルを持って、再び先生の家に行く。

「先生、あのFAXの字って、もしかして…」
「えええっ!?あなたヨっちゃんに習ってたの??」

こうして3番目の先生と、7番目の先生は大親友だったことが発覚する。


僕は、高校2年で7番目の先生から卒業した。
実は高校3年生の時だけ習った、幻の8人目の先生も居るのだが、今回はここまでにしておこう。

それからの僕は、携帯電話の着信音をMIDIで打ち込んで自作したり、Youtubeもニコ動も無い時代に「どうやったらピアノの演奏をインターネットに乗せられるか」などと考え、ネットラジオと掲示板サイトを組み合わせて配信をするようになった。
そしてサラリーマンになって数年後の2007年、初めて動画を投稿するに至ったわけだ。

思えば、ピアノに関して言えばたくさんの先生方に本当にお世話になったと思う。
厳しくしてくださる先生も、当時は子供心に大変だったけど、いまとなってはそうしてくださったことへの感謝しかない。

そうそう。
最初に出てきた幼稚園の大塚先生。
彼女もまた、僕に大きな影響を与えた先生の一人であることを忘れちゃいけないと思う。
最初にピアノに導いてくれたわけだから。
その先生はその後結婚され、名字も変わられ、お子さんが生まれたのだが、息子さんの名前を決めるときに、僕を思い出してくれたそうだ。

先生の息子さんと僕は、名前がおなじになった。

幼稚園の頃の先生と、仙台でお会いした時。
小さい頃とても背が低かった僕が、当時の背を再現している様子

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事務員G
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