ライブにオーケストラを入れたい!(前編)

2008年、つまり初めてこの界隈でのライブを作った頃から「もっと誰でも来れるイベントが作りたい」と思っていた…とは以前にも言ったとおり。この界隈のライブはどれもゴリゴリとした雰囲気だった。まあ、色々なことを経て僕は40mPに「家族でも見に来れるネット発イベントを」と書かれた企画書のようなものを出し、結果「虹色オーケストラ」というイベントができあがるのだがこれはそれより前の話になる。

僕はつねづね「オーケストラを入れたい」と周囲に言っていた。久石譲さんに影響を受けたジブリ大好き人間からすると、オーケストラをライブに入れるということを、とてもやってみたかった。でも、普通に考えればお分かりいただけると思うが、めちゃくちゃ難しかった。

2008年、まだ1000人以上のお客さんが入る規模の会場を僕たちで借りることができなかった頃。架空の団体を作ってなんとか借りたり、企業に「ぜひ主催になってください」と言って企業の名前で会場を借りたりしていたのだが、ある時、埼玉県のFM局「NACK-5」が会場を提供してくれるということになった。大宮ソニックシティは素晴らしい会場で、とても嬉しかったし感謝している。日付は12月末だったのでニコニコ年忘れという名前を付けて(この名前について僕は反対していた)、その制作にいそしんだ。結果、お客さんはたくさん来てくれたのだが、制作費がとんでもないことになった。いつかまた詳しく話す時に回しておくが、この時企画を一緒にしていた人は大赤字の報せと共に居なくなってしまい、その後現れなかった。赤字を返すために次の年の年末もやらざるをえなくなったのだが企画は一人きり。確か開催したのが12月30日で、12月31日はホテルに6時半に出勤する早番。正月はずっと休めなかった。でも「どうせ今だけだから頑張ろう」という気持ちがとてもあったので、辛くはなかった。この流行りはたった数年で終わるはずだから、やれる時にやれる事をやっておいて後悔したくないと強く感じていた。__しかし、いまこの記事を書くために色々思い出そうとしているのだが、常に思い出が真っ黒な色をしている。毎日頭を抱えていたのだと思う。

オーケストラの話に戻す。「オーケストラを入れたい」という気持ちが強かった僕は、その「年忘れ」の企画が一人になってしまったタイミングで「今年こそ」と決意する。どうせ今年で終わりなのだから、誰からの反対も受けないいまこそ、と。

その頃、すでにまらしぃ君と知り合っており、僕はぜひ「まらしぃ&オーケストラ」をやってくれないかと頼んだ。しかし先述の通り予算が無く結局、ストリングス(弦楽器)のパートを入れるにとどまり、自分でオケアレンジをすることになった。全く知識もなく、一つ一つの楽器の音域をネットで調べながら各パートのアレンジをしてみたのだが、結局さじをなげて、昔からの知り合いの方にギリギリで依頼して楽譜はなんとかできた。

ところが、リハーサルが、めちゃくちゃだった。まず言語が違う。そして、慣習も違った。

先に書いたとおり、音大受験の勉強だけはしていた僕。なんとかかんとか「弦楽器の方々の指摘」に付いていったつもりだったのだが、結局「何をしていいのかさっぱりわからない」と(まさにこの言葉で)言われてしまってへこんだ。そして、「もし次の機会があったら、今度はもっとちゃんとやり方を考えよう」と思った。

「蠍火(さそりび)」という曲の、ピアノ&ストリングスでのパフォーマンスは、なんとか時間をかけたことで完成したのだが、これが僕にとっての初めての「オーケストラ&バンドへの第一歩」だったと思う。(余談だが、先日、その曲の作曲者であるwacさんにお会いする機会があって、飲みの席で色々話すことができた。「あいつ(まらしぃ君)はあれ(蠍火)をまるで自分の曲のように弾いてますがね」と笑っていた事をここで耳打ちしておく。)

この後の流れを大まかに話すと、僕はこの後から、人生で一番いやだった時期に突入する。願わくばもう経験したくない。辛いことが重なりすぎて、声を出すことができなくなった。そして、会社を辞める決断をしてから東京に出ていくのだが、この時の話は今は割愛して、オーケストラの話を終わらせておくことにする。

いろいろ落ち着いた頃、僕は昔のピアノの先生の家を訪ねていた。この恩師には事前に「オーケストラについて詳しい人を紹介してほしいのですが」と電話をしていて「それならこの時間に私の家に来なさい」と言われていたからだ。

先生の家のドアの前まで行ったところ、見知らぬ青年が立っていたので「もしかしてこの人かな?」と思う。はたしてそのとおりで、呼び鈴を鳴らしてドアが開くと僕とその青年は「どうも」とだけ言って、先生の家に入った。

「松田クン。すごく優秀。」

先生から僕に対しての、説明はこれだけだった。その後は僕がいまどんなことをしようとしているのかを話した。そして「大丈夫ですよ」との答えを松田君からもらった後は、先生とも一緒にお酒を飲んだ。そしてピアノを使って二人で遊んだ。それを見て先生はとても楽しそうだった。

松田君は年下だが、先生の言う通りとても優秀で、僕が言わんとする事をすぐに汲み取って弦楽器のアレンジをしてくれた。彼はピアノも専門家並みに上手だったので、僕の代わりにリハーサルで弾いてもらう場面もあった。僕はすでにボカロPの40mPと一緒に新しいコンサートをやる事を決めており「もうあの間違いはしないぞ」と、松田君と一緒に毎日のようにアレンジの打ち合わせをしたのだった。

(続く)

一番右が松田君、背中を向けてピアノを弾いてるのが僕

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事務員G
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