【読了】河野多惠子「骨の肉・最後の時・砂の檻」

河野多惠子「骨の肉・最後の時・砂の檻」読了。
20250226

講談社文芸文庫が昔セールしてて、ホイホイ釣られてたくさん購入した中の一冊。河野多惠子は今回が初読み。同年代女流作家である大庭みな子と比べると幾分読みやすい(同じく講談社文芸文庫のセールで買った三匹の蟹はキツかった、、、)。とはいえ、こちらも夜ふかしして読んでいると舟漕いでしまうところもなくはなかった。
河野多惠子も大庭みな子も、小川洋子「妊娠カレンダー」が受賞した際の選考委員である。河野多惠子は妊娠カレンダーを推し、一方大庭みな子は微妙な評だった。他にも、あの室井光広「おどるでく」を受賞に導いた実質的な張本人は大庭みな子であるが、その時河野多惠子は受賞反対側に立っていた。ちなみに大庭みな子「三匹の蟹」は芥川賞受賞作であり、河野多惠子も「蟹」で芥川賞を獲っているので、いずれも蟹作家連盟のメンバーでもある。蟹作家連盟というのは今私が作った。他のメンバーは小林多喜二、今のところ。
ある作家の読みの好ましさと書きの好ましさは大して関連性がないとは思っているが(大江健三郎の作品と大江健三郎賞受賞作についての私の好みからそう判断している)、河野多惠子と大庭みな子の両者についてはそれが一致していた。
つまり、河野多惠子よかったよってこと。

短編集で、子なしの夫婦の妻の方が主人公に据えられている。

「骨の肉」男に去られた女の話。男が食べたあとの生牡蠣の殻に残る肉片を食べる女の描写が執拗に生々しく描写される。男の残した骨とか殻とかから身をこそいで食べることへの嗜好を初めて見た。わからなそうでわかりそうでやはりわからない。

「魔術師」久子。友人の夫婦喧嘩のきっかけとなったマジックショーを観に行き、帰りのバスの中で自分の手が赤く染まっていることに気づく。それを奇妙な予兆として、夫から強烈な非難を受ける。夫は「女の気の許さなさ」を軽蔑している。どうしてこんな話が思いつくのだろうか。この人の小説はどうやら怖い。自分の首が真逆に付いている感覚の不気味さもそう。恒子独自の育児論「普通の常識的な女の子を育てるには、母親は馬鹿であるべきで、利口だったり変わり者だったりしてはいけない。母親が馬鹿であるがゆえの日常的な噂話や俗な話から、娘がバランスを勝手に学ぶのだ」(意訳)などの洞察も(論としてあっているかどうかは別として)凄まじい。

「たたかい」依子。旦那の愚痴を聞いてもらっていた友人夫妻の男の方と、パーティかなんかでばったり出くわし、一夜を誘われるが、女がこんな場所は嫌だ、ここは良くない、こういうところはダメだとケチをつけ続けて、2人彷徨う話。これはホラーです。

「雛形」斉子。近所のまだ幼い子供らの愛撫を見てしまった女。雛形とは大人の雛形のことであり、子供というものの捉え方として出てくる。大人に通ずる行為。子供の交通事故も絡んできて、非常に嫌な味の短編。

「胸さわぎ」方子。死や病の前兆に印象的な出来事が起こることに気づいた女。昼寝をしてる間に夫が書き置きを残して散歩に行ってしまったので後を追って女も散歩に出る。半覚醒の記憶では、男はボートに乗りに行くと言っていた気がするが、そこに行くと休業している。これは前兆かもしれないとにわかに女は焦り、というところで急に4年が経つ。ここまで豪快な構成も可能にする著者のペンの腕っぷしよ。

「砂の檻」夫の海外出張の間の用心のため、取り憑かれたように家中に鍵をつける女。陰毛を剃ると40日くらいでもとに戻るらしいというTipsを得た。収録作品の中でもこれが一番性描写に近づいている。話の全体としてかなりわかりにくい(特定の印象を受けにくい)一本だった。

「最後の時」則子。一番わかりやすく、一番面白いと感じ(てしまっ)た(、なんか悔しいけど)。自分が死ぬまであと26時間しか残っていない女が、夫に向けて家中に書き置きを残す話。女はそれを書く中で自分たち夫婦のやり方への後悔に思い当たる。その後悔に反して、女と夫の最後の日は美しい。文中で女が飲むビールのペースが、私の頭の中で想像せずとも想像していたペースと一致していたのが、単なる偶然なのか、筆者の書きの精度なのか。

思い切った省略をしたり書かないとしたところ書かないとする勇気があり、逆に一度決めた表現や書き方を繰り返し何度も使っていて、総じて文章作成としてのこだわりを強く感じた。
あとがきからも、すべてをわかりやすく書くことに対するアンチテーゼ的な作家であると私は捉えた。小説の自由さをこの人は認識している。

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