【連載】小2まで過ごした西早稲田(2)
子供の用事で高田馬場まで行きました。私は小2まで西早稲田(旧戸塚)に過ごしてたこともあり、せっかくなので家族3人で歩いてみることにしました・・の続きです。
住んでいた生命保険の寮から、高田馬場駅に向かう途中に駄菓子屋さんがありました。私は中学2~3年の時は電車通学していました。駅行く近道でしたのでよく通ったのですが、土の道で森になっていましたから、夕方以降は結構怖かったです。今はまったく面影がありません。今から44年程前です。
面影といえば面影橋。都電の停留所も近かったです。
生命保険の寮の裏にあった神社です。遊び場でした。
父の思い出の場所でお祈りします。
小2(1974年ころ)まで通った小学校です。幼稚園は5歳から。閉校が相次ぐ都区内で、二つとも健在でした。小1までは小学校は木造でした。新しい校舎は教室が狭くて男児には評判がよくなかったです。先生は山口先生。やさしい先生でした。
このあたりは「山吹の里」※といわれていて、有名な逸話が残ります。簡単に話しますと・・
太田道灌が突然の雨に見舞われ農家で蓑(みの)の借用を申し出たところ、若い娘はうつむいたまま、山吹の一枝を差し出すのみ。
道灌はずぶ濡れになって城に帰り、近臣に話したところ、
「それは平安時代の古歌に“七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき”という歌があり『蓑』と『実の』を懸けています。貧しい家で蓑一つも無いことを山吹に例えたのです」
と言われ道灌は自らの不明を恥じ、その後歌道に精進することになったという。
※「山吹の里」の伝説は他にも越生や日暮里など関東に何カ所もあります
※同級生で覚えている方がいましたら、メッセください^^
戸塚第一小学校に1974年まで(小2)いたSです。
(続)