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イメージを引き出す『曖昧さ』という力


これが何に見えますか?

唐突ですが、皆さんにはこれが何に見えるでしょうか?

fiesta写真


これは、『フィエスタ』という私が大好きなアメリカのメーカーのティーカップです。お気に入りすぎて使えないという、本末転倒ティーカップです…。

ほとんどの方がこの写真を見て、『ティーカップ』とか、『コーヒーカップ』、などだと思われたのではないでしょうか。



では、今度の画像は何に見えるでしょうか?

曖昧絵 写真


これは、私が揺れる電車の中で、利き手ではない手で書いた“何か”の絵です…。私の絵心の無さへのツッコミは、今はどうぞ置いていただいて……orzこれが何に見えたでしょうか?


私の知人の数名にたずねてみると、
『馬』、『ばい菌』、『犬』、
『インベーダーゲームのインベーダー』、
など様々な答えがありました。


最初の『ティーカップ』よりも、答えの幅は広がったように思います。


人は曖昧さを心で補完する

人間は曖昧なものを見せられた時、曖昧な部分をイメージで補おうとする心の働き(知覚の働き)が起こります。人生で経験してきた記憶と照らし合わせて、“自分が知っている何か”として見ようとするのです。

また曖昧さが大きいと、イメージで補う余白が広いため、自分の心の状態に合わせて、世界を自由に捉えていくことができるようなのです。

曖昧さが少ないと、見たものをそのまま認知する傾向が強いといわれています。

ティーカップは、曖昧さが少ない例
2つ目の絵は、曖昧さが大きい例です。



キティーちゃんが愛される訳は…?

日本を代表するキャラクターの一つ、『キティちゃん』には口がありません。感情の手がかりとなる『口』を排除したことで、見ている人が嬉しい気持ちの時は『嬉しい表情』に、悲しんでいるときは『悲しい表情』に、つまり自分の気持ちを投影しやすいように、あえて『口』を排除したようなのです。


それを知ったとき、「凄いっ!曖昧さ絶妙…。」と思いました。
きっと、全体の形が曖昧すぎたらキャラクターとして可愛くないし、隙が無く完成していると自分の気持ちを投影しにくい。

皆に愛される理由の一つに、"計算された曖昧さ"の効果もあるのだなと思いました。



パーフォーミングアートの世界ではどうなのか?

パフォーミングアートの世界でも、曖昧さは重要であるように思います。
なぜなら、作品は単なる情報伝達ではなく、“観客がそれを見て何を感じるか”という所を大切にしているからです。


先日、とあるミュージカルを観に行ったのですが、その作品のワンシーンに心がぐっと掴まれる経験をしました。
そのシーンは、“心を傷つけられたヒロインが、友達に慰められる”というシーン。

ヒロインの友達は、ヒロインを励ましているのに、何故か私自身が励ましてもらったような気持ちになって、胸が熱くなったのです。

はっきり覚えていないのですが、大体こんな内容でした。

痛みや悲しみは水に流そう
明日は気持ちがほがらかになれる
涙もきっとすぐに乾くから


曖昧さによる投影の効果は、目で見ているものだけで起こるものではありません。耳から聞こえてくる歌詞や台詞、メロディやリズムでも起こります。


例えば、『父』・『母』とだけ聞くと、貴方はどんなイメージを持つでしょうか?

『30代、3人の子持ちの専業主婦の母』
『60代、定年間近のサラリーマンの父』

という言葉よりも、

『父』
『母』

だけを提示された時の方が、イメージする側の自由度は高いです。


話をミュージカルに戻すと、
その曲は、ストーリーからその曲だけ取り出しても成立するような絶妙な歌詞の曖昧さがあり、つらい経験や友達に励まされた経験のある人なら、思わず胸にしみてしまう刺激がたくさんありました。

私はその言葉やシーンの刺激を受けて、自分の人生が投影され、私自身が、ヒロインの友達に励ましてもらったような気持ちになったのだと思います。


作品と人生が重なる瞬間は…

これを読んで下さっている方の中には、パフォーミングアートの作品を見て、「これは私の物語だ!」と感じたり、あるパフォーマーの感情が強く伝わってきたり…

その作品の中に“自分”を見つけて、“心が震えるような体験”をされた方もいるのではないでしょうか。

きっと貴方にとってその作品は、作品自体の面白さ(明確な形の部分)だけでなく、自分の人生を投影できる、貴方にとっての絶妙な余白(曖昧な形の部分)を含んだ作品だったのかもしれません。


そんな作品に出会えることは、人生を豊かにする素晴らしい経験だと思います。

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