幻の解放区 ~渋谷暴動からテント村~
幻の解放区 ~渋谷暴動からテント村…そして~
京成サブ
10月のことだが、こんなニュースがあった。渋谷区が例年のハロウィン混乱対策と称して「(ハロウィンのために)渋谷に来るな」と区長が宣言、さらにハチ公周辺を何とバリケードで囲ってしまったのだ。何年か前にハロウィンでエキサイトした一部の若者たちが軽トラを横倒しにしたことがあった。別に暴動というほどの騒ぎにはならなかったが、その後警察は防犯カメラ映像などで徹底追跡して実行者を割り出し、全員を逮捕した。さらに同じころか、路上を解放しろというハロウィン・デモなんてのもあったけど、今年はすべて沈静化して何の騒ぎも起きなかった。今や、警察の路上治安対策は完璧である。
同じ頃にたまたまニュースで、あの渋谷暴動の裁判を報じていて、珍しく当時のニュースが流されていた。1971年11月14日のこの日、高校のノンセクト野次馬群団だった自分は渋谷に向かったのだった。当時は中核シンパではないノンセクト界隈でも結構、野次馬半分で暴動を期待して渋谷に行こうと、そんな若者がウジャウジャ参集していたのだ。
渋谷暴動とは、72年5月の沖縄返還協定批准の強行採決が迫るなかで、中核派が「首都にコザ暴動を!」をスローガンに渋谷で大暴動という方針を「前進」で大々的に打ち出したものだ。なぜ渋谷が舞台だったのかはよく分からない(68年と69年の10.21国際反戦デーは「米軍タンク車輸送阻止」の名目もあって新宿が主戦場になったが)。この年の沖縄返還協定調印阻止闘争では、調印当日の6月17日、反中核の沖共闘(解放派、戦旗派、フロント、赤色戦線など)が宮下公園から火炎瓶&旗竿突撃を敢行したが、それまで渋谷界隈が主戦場になることはほとんどなかった(同じ17日、中核と第4インターは明治公園周辺で解放区闘争。爆弾も炸裂。また叛旗派は単独で拠点の青学大から出撃、青山通りで解放区闘争を展開した)。暴動をあらかじめ「予告」された渋谷の商店会としては、昨今のハロウィンどころではない。当日はデパートから映画館から渋谷の盛り場の店は飲食店も大半が閉まり、本当に戒厳令状態に置かれてしまった。
それでも意識的野次馬や野次馬に紛れての行動隊も分散して集まり、道路上にバリケードをつくり、あちこちで火炎瓶も炸裂、一時は今のスクランブル交差点あたりから道玄坂にかけて解放区状態になった。ただし68年の王子や新宿ほどの規模にはならず、圧倒的な機動隊に制圧されて暴動としては不完全燃焼。中核派と第4インターは11月19日には今度は日比谷大暴動だと、日比谷野音の集会のあとに解放区闘争を試み、あの松本楼も炎上するのだが、このときは機動隊に完全に包囲され2千人近い逮捕者を出す(こちとら野次馬群団は、さすがに日比谷公園はヤバそうだと数寄屋橋一帯で走りまわっていた)。一方、反中核連合の沖共闘もこの日が正念場だと東大駒場で集会を開いて、そのまま渋谷を目指して進撃、街頭にバリケードを築くなど解放区闘争を展開するが、渋谷駅周辺までは辿り着けず、暴動闘争としては不発に終わる。安保・沖縄課題で、都心で火炎瓶が飛び交い、解放区が試みられる闘争はほぼここで終焉し、(72年5月に戦旗派単独の神田解放区闘争もあるにはあったが)以降は許可されたデモのカンパニア闘争が延々と何十年も続くのである。
さてこの解放区。まずは「神田カルチェラタン」闘争を誰しもが思い浮かべるだろう。カルチェラタンは68年のパリ五月革命で世界的に有名になったが、日本では68年6月、ブンド(社学同)が「アスパック(アジア太平洋閣僚会議。アジア版の反共安保のようなもの)」粉砕を掲げ、明大駿河台通りで試みた街頭バリケード闘争を「カルチェラタン闘争」と称した。ただこの時は党派単独の闘争なので規模も小さい。本格的なカルチェラタン闘争といえば、68年日大闘争だといえる。三崎町界隈の法学部・経済学部には今でもそうだが、建物だけでキャンパスが存在しない。なので三崎町から神保町にかけては特に闘争初期の6月~9月にかけては、毎週のように無届けのデモや集会で埋め尽くされ、映画の『日大闘争』でも描かれている。ピークの9月には、駿河台の日大理工から神保町、三崎町は1万人近い結集で界隈を埋め尽くし暴動状態となった(映画では「書泉」(今の「書泉グランデ」)のあたりで、機動隊を追い詰め後退させるシーンがある)これこそ神田解放区だったのだ。
一方、何かと語り草になる東大安田砦の攻防があった1969年1月18、19日の「神田カルチェラタン」は、両日ともに東大を支援する日大全共闘をはじめ都内の各党派・全共闘が中大中庭(当時は御茶ノ水にあった)に結集し、そこから東大奪還を目指して出撃するのだが、両日とも本郷三丁目交差点あたりの阻止線を突破することができず、後退して御茶ノ水~駿河台一帯を解放区状態にしたってわけ(これも『日大闘争』でも描かれている。「主婦の友」社前で機動隊が敗走するシーンが圧巻)。18日の様子をテレビで観ていたこちとら(中学3年)は、翌日の19日、クラスの友達と御茶ノ水に向かったのだった。
順天堂大学から医科歯科大、御茶ノ水駅前から駿河台下くらいまでのエリアが完全に制圧され、車や看板などのバリケードが。路上には敷石(これ以降、都心の敷石が「投石対策」のために消えてゆく)を砕いたのが散乱して、催涙ガスの匂いが充満し、戦場のような光景であった。しかし時が経つにつれて、「なんかおかしい?」と疑問が湧いてくる。そもそも機動隊に包囲された東大に合流するために出撃したはずなのに、いつの間にか街頭バリケードの内側で引きこもる形になっているではないか。そうなってからこの日は、18日と違って機動隊も静観状態、なんだか退屈な時が過ぎてゆき、暗くなったら(安田砦も陥落し)皆、引き上げたのちに、バリは解除されたのであった。戦術としてどうなのかと今思い返しても??だし、カルチェラタン闘争といっても実際、この程度の話なのだ。
ちなみに東大はキャンパスが広いこともあって、本郷通りが解放区になることはほとんどなかった。一方、京大ではキャンパスに接する百万遍交差点、東一条、東大路通りなどが、度々解放区になった。映画『パルチザン前史』でも、69年9月の京大時計台封鎖解除の前日、百万遍交差点に車や机、看板などでバリケードが築かれ、出動した機動隊と激突するシーンがある。(この時、バリを突破しようとした装甲車に向けて投げた火炎瓶が跳ね返って体に燃え移り、関西大学の津本忠雄さんが亡くなった)。
日大はその後、69年には機動隊導入・ロックアウト・暴力ガードマン常駐の「正常化」路線が強行され、何度か「奪還闘争」が試みられたものの、機動隊に制圧されてゆく。1970年代になると継続する「解放区」はほぼ三里塚闘争だけ。大学のバリケードも消滅し、いくつかの大学は辛うじて学生会館や学生寮自主管理といった小さな解放区が残った(特に法政は74年に新学館自主管理を勝ち取り、以降30年余り続くが、今や立て看もビラも禁止)東大駒場寮も90年代まで事実上解放区であった(学外者でもフリーで多様なイベントができた)が解体・撤去される。
1973年の6月頃だったが、東洋大学に行った友人から「東洋大はすげーよ。白山通りで解放区やってんだから。暴力ガードマンともドンパチやってるんだ」なんて話を聞いた。確かに東洋大闘争は73~74年頃も燃え盛り、逮捕者・負傷者も続出、白山解放区はメディアでも報じられた(今でもネットで73~74年頃の「東洋大学新聞」記事を見ることができる)。
さてさて路上の解放区といえば、忘れちゃいけないのが1969年5月~7月の新宿西口フォークゲリラである。これこそ自然発生的な解放区といえそうだが、やがて機動隊によって「通路」だから立ち止まるなと徹底して排除され、消滅した。一度、野次馬で観にいったが、今と同じ平面の西口広場=通路に5千人くらいは座り込み、歌が終わったあとの無届けデモも壮観だった。ずっと後になってフォークゲリラよもう一度と屋内イベントが催されてこともあったが、「友よ」とか「勝利を我らに」とかを屋内で合唱するほどむなしいものはない(当時の情景は、ドキュメンタリー『地下広場』でも観ることができる)。
解放区のあり様としてもう一つ、「テント村」というのがある。1990年代以降は、新宿、渋谷、上野、墨田川など野宿者集住エリアに次々と建てられ、「ダンボ―ル村」とともに新たなコミューンとしておなじみの光景だった。このテント村で思い出したのは1968年7~8月頃、東大闘争初期で全学無期限ストのさなかで迎えた夏休み、安田講堂前の広場に出現したテント村の存在だ(ニュースで報じたのを観た記憶があり)。そこは東大闘争とは無関係のフーテンも多く、これは今風に言えば「ダメ連」風のノリに近い(しかし東大闘争史でもほとんど触れられていない)。このテント村も秋には消えてしまうが、仮に増殖して、安田砦攻防のときに東大構内がテントで埋め尽くされていたら面白くなっただろう。 実際にテント村に遭遇した最初は、1971年2~3月に三里塚第1次強制代執行の時だ。この頃は、現地支援の団結小屋も次々に建てられていたが、代執行拠点の駒井野の各砦周辺に、即席のテントが建てられ主にノンセクトの学生たちが寝泊まりしていた。その日の攻防が終わって夕方になると、飯盒炊飯の煙で、なんだかキャンプ場のような雰囲気だった。そして1972年8~9月の相模原米軍補給廠(米軍戦車のベトナムへの搬出阻止闘争)のゲート前に出現したテント村である。この現場は直接行けなかったが、ドキュメンタリー映画『戦車闘争』『続・戦車闘争』でも描かれている。共産党と社会党と中核と革マルと新左翼諸党派ほぼすべてと、ノンセクト、アナーキストまで同じ空間でテント村を形成していたなんて、前代未聞、空前絶後のことだろう(9月の戦車搬出強行の際に全て撤去)。 70年代には、水俣病を告発する会のチッソ本社前や厚生省前座り込みでも、長期にわたってテントが張られたりもした、さらに最近では2011年から16年まで、24時間体制で寝泊まり含めて貫かれた経産省前テントは、まさに霞ケ関中枢を(部分的ではあれ)長期にわたって占拠した画期的な解放区闘争だったといえる。担い手の多くが60年や68年を経験し、半世紀を経て持続する志が形になって継続したことはもっと評価されて良い。 一方、2012年7月の反原発、2015年8~9月の安保法制反対で、一時的に国会前の車道が占拠され、束の間の解放区となったのは記憶に新しい。その場にもいたが、やったやったと喝采しつつ、何か解放感に欠ける。なぜだろうと後々考えたところ、皆立ったまま単調なコールを繰り返している。座り込まないと広場にはならない。あるいは座らなくても、新宿西口のように自然発生的にデモが始まり、解放区が拡がってゆく、国会前から日比谷公園まで無届けの自然発生的デモが展開するというイメージだ。さらに首相官邸前も、かつては記者会館の中庭、さらには屋上も出入り自由だったのだ。今や歩道の半分ほどに押し込められ、車道解放など夢のまた夢になってしまった。
最初の渋谷に話題にもどると、この11月12日、学生有志らが呼びかけたガザの虐殺に抗議、パレスチナ連帯のシットインがあった。行ってみると500人くらい集まり(半分は在日パレスチナの人たちなど多国籍)、旗やバナー、プラカを掲げてスクランブル交差点に向かって座り込む。意外なことにこの日は警備の警官もほとんど見えず、規制もない。かなりのスペースが占拠され、ちょっとした解放区創出でスペクタクルな光景になった。この11月12日といえば、去年の第1回「死者よ来たりて~」でも触れた1967年、エスペランチストの由比忠之進さんが、佐藤(栄作)訪米とベトナム戦争に抗議して焼身した翌日、第2次羽田闘争(数千人の三派全学連部隊がメットにゲバ棒。大鳥居周辺で激戦)から56年。そういう日であったのだ。由比さんが現代に生きていれば、ガザの状況を見て何を思うだろうか(この11月のどこか、アメリカで焼身抗議をした人がいた)。
解放区を記憶の彼方の幻としないために、1ミリでも路上・空間を拡げてゆく試みを続けるしかないのか。
<おわり>
☆ リンク集 ☆
日大闘争の記録「日大闘争」
日大闘争の記録「続日大闘争」
映画『戦車闘争』公式サイト
新宿広場 '69 "歌う東京フォークゲリラ" 朝日ソノラマ (1969年)
機動隊ブルース(1969年・新宿西口地下広場・フォークゲリラ)
『'69 春~秋 地下広場』&大木晴子さんインタビュー
命を守るために声をあげる 新宿ダンボール村が現在に紡いだもの
A homeless person of Shinjuku, Tokyo1995~1996
新宿段ボール村通信 1997年9月号
http://www.tokyohomeless.com/danbo/danboNO6.pdf